その掌は幸福に通ず
触れ合う骨鯰の話です。
鯰尾藤四郎という兄弟は、やたらと触れてくるやつだ。
何かあれば手を引いて。何かあれば髪に触れて。何かあれば抱きついて。
骨喰藤四郎はあまり他人に触られるのが好きではなく、近侍の仕事中に審神者が触れてきただけでも、つい、触るなと拒絶してしまう。だから鯰尾藤四郎が審神者に「触り返してもいいですよね」などと楽しそうにほざいているのを見かけたときは驚いた。それはそれは驚いた。本当に俺たちは兄弟なのか、とまで思った。
骨喰藤四郎は何がそんなに楽しいのか不思議で、一度、鯰尾藤四郎の真似をして「触り返してもいいか」と聞いたことがある。するとそれまでべたべたと無遠慮に骨喰藤四郎を撫で回していたはずの鯰尾藤四郎はきっかり三秒固まって、それから脱兎の如く逃げ出したのだった。意味が解らない。
兎にも角にも、鯰尾藤四郎は事あるごとに骨喰藤四郎に触れてくる。
そんな毎日を送っていく中で、やはりひとに触れられるのが好きではないまま、それでも骨喰藤四郎は、この兄弟との触れ合いだけは次第に受け入れていくようになっていた。
骨喰藤四郎と触れ合っているときの鯰尾藤四郎は、いつも楽しそうに笑っているから。この兄弟が笑顔でいられるならば、骨喰藤四郎にとって、それより優先されることなど他にありはしない。
そして骨喰藤四郎もまた、彼に触れられていると何か不思議な感覚を覚えるようになっていたから。ひとに触られるのは嫌いなはずなのに。苦手なはずなのに。鯰尾藤四郎の手のひらだけは、どうしてかいつも優しくて。
その感覚の正体は解らぬままに。
彼らの日々は、流れていった。
それは、微かな刺激だった。
出陣から帰城した骨喰藤四郎は左手に痛みが走って初めて、薬指の浅い切り傷に気が付いた。出陣時のみ身につける淡い群青色の手袋は、血を吸って黒く変色している。
左手で握り拳を作り、開閉を幾度か繰り返す。既に塞がれていた傷口から新たな鮮血が滲んだ。
刀を握る左手に戦闘へ支障をきたす傷を残すわけにはいかないが、この程度なら放っておいても平気だろう。骨喰藤四郎はそう判断する。痛みはするもののそう深くもなく、完治するのに一週間とかからないであろう、その程度の傷だ。
寝室に向かっていた踵を返し、洗面所へ向かう。共同の洗面所はこの時間帯、朝夕のざわめきとは正反対に人気が無い。骨喰藤四郎は蛇口をひねると手袋を外して白い素肌を流水に晒した。よく冷えた水が鮮血を洗い流し、骨喰藤四郎の手のひらの温度を奪っていく。
いつの間に出来た傷だったのだろう。骨喰藤四郎は水に流されていく赤色を無感動に眺めながら、そんなことを考えた。しかし、それもすぐにやめる。遠戦やら白刃戦やら思い当たる節が多すぎた。どうせ傷とも呼べないような傷である。
頃合いを見て蛇口を閉めると、僅かに残された水滴がぴちょんと音を立てて洗面台に落ちた。
「──あ、骨喰、いた」
背後の声に振り返ると、共に出陣し、しかし帰城してからは姿を見ていなかった鯰尾藤四郎が顔を綻ばせながらこちらへ寄ってくる。彼は骨喰藤四郎の目の前に立つと、ずいと右手を突き出した。
「絆創膏、貰ってきたよ」
彼の言葉通り、突き出されたその手のひらには絆創膏が乗せられていた。骨喰藤四郎は目を丸くして絆創膏と鯰尾藤四郎とを交互に見つめる。
あれ、と鯰尾藤四郎は首を傾げながら、
「……もしかして、傷に気づいてなかった?」
「いや、さっき気が付いた」
一度左手の傷に視線をやってから、そう答える。
「……何故俺の傷を知っていた?」
「何でって……ふつーわかるだろ?」
戸惑いながら問うと、鯰尾藤四郎はむしろきょとんとしながら問い返す。普通なのか、と釈然としないものを感じながらも骨喰藤四郎は納得した。
この兄弟はいつもそうだ。骨喰藤四郎のことであれば、骨喰藤四郎自身も気づかないような些事にさえ彼は気が付いてみせる。不思議と言えば不思議だが、おそらく鯰尾藤四郎はそういったことに聡いのだろう。世話焼きな面を持つことを考えれば、それほどおかしいことではない。
「さ、絆創膏、貼りに行こう」
言うと、鯰尾藤四郎は返事も聞かずに骨喰藤四郎の右手を取った。
別に貼らなくて良いとか、ここでも出来るとか、言うべき言葉はいくらでもあったはずなのに。
骨喰藤四郎は繋がれた手のひらから伝わる体温を感じて、何故だか何も言えなかった。
「はい、おしまい」
骨喰藤四郎の薬指に絆創膏を貼り終えて、鯰尾藤四郎は笑顔を作った。
鯰尾藤四郎に手を引かれて辿り着いたのは陽の当たる縁側だった。鯰尾藤四郎は明るい陽の下で傷口の確認をした後、すこぶる丁寧な手つきで骨喰藤四郎の指に絆創膏を貼り付けた。
手当を受けた骨喰藤四郎は指に巻かれた絆創膏を眺め、それから謝罪の言葉を口にする。
「すまない。世話をかけた」
絆創膏を貼るくらいはひとりでも出来た。内心ではそう思いつつ、骨喰藤四郎は結局、鯰尾藤四郎に世話を焼かれてしまう。どうにも鯰尾藤四郎のすることには反論できない。それが自分のための行為であるから尚更である。
「良かったなー」
何がそんなに嬉しいのか、にこにこしながら鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の左手を両手で包んだ。
「……」
流水に晒したことで冷えていた骨喰藤四郎の手のひらに、鯰尾藤四郎の温度が伝わる。
手袋をつけたままで鯰尾藤四郎と手を重ねることは多いが、素手で触れ合う回数は実のところあまり多くない。骨喰藤四郎はこうして素手の手のひらを重ねる度、あたたかいな、と至極当然の感想を抱くのだった。
そう。ひとが触れ合うと、あたたかい。それは当たり前なのだ。けれど長い時を刀のまま過ごしてきた骨喰藤四郎には、その感覚は未だに慣れないものだった。
だから苦手なのかもしれないな。骨喰藤四郎は胸中でそう独りごちる。
こんなあたたかいものを、骨喰藤四郎はどうしていいのかなんて解らない。
どう受け止めるべきなのか解らないから、遠ざけてしまいたい。
きっと、そうなのだろう。
──そう納得する、その反面で。
今繋いでいる鯰尾藤四郎の手のひらは春の日だまりのようにあたたかい。このあたたかさを感じていると、骨喰藤四郎の中に不思議な感覚が生まれるのだ。落ち着くような、焦りにも似た苛立ちが沸くような、そんな相反する不思議な感覚が。
どうしてか、この兄弟と手を繋いでいる時だけは。
「……骨喰?」
黙したまま繋がれた手のひらに視線を送る骨喰藤四郎を訝るように、鯰尾藤四郎はその名を呼んだ。名前を呼ばれて我に返った骨喰藤四郎は反射的に顔を上げた。その視線の先には当然、鯰尾藤四郎がいる。
──解らないと言えば、この兄弟に関してもよく解らない。
どうしてこの兄弟はなんの躊躇いもなく、ひとに触ることができるのだろう。
「な、なに?」
無言のままの骨喰藤四郎に見つめられ、鯰尾藤四郎は気圧されるように──それでもしっかりと手のひらは繋いだまま──僅かに身を仰け反らせた。
「……兄弟は、どうしてこんなに触ってくるんだ」
また、普通だろ、と返されてしまう気もしたが、骨喰藤四郎はそう問いかけた。鯰尾藤四郎は幾度か瞬きを繰り返し、それから小首を傾げる。
「……もしかして、いよいよ触られるのが嫌になった?」
「違う」
誤解をされたくなくて、骨喰藤四郎は慌てて首を振った。触られるのが苦手なのはその通りだが、鯰尾藤四郎は例外である。
「少し、気になった」
なんとなく視線を逸らしてそう告げる。
鯰尾藤四郎は不思議そうな顔でしばし瞬きを繰り返したが、やがて口を開いた。
「こうしてさ」
骨喰藤四郎は自らの手のひらが、改めて鯰尾藤四郎の両の手のひらにしっかりと包み込まれていくのを感じた。繋がれた両手にどこかぼんやりとした視線を送りながら、鯰尾藤四郎は優しい声音で言の葉を紡ぐ。
「手を繋いでいると、あったかいだろ。俺、それがすごく不思議なんだ。だからつい、確かめるみたいに触っちゃうんだよ。どうして人間の体って、こんなにあったかいんだろうね」
鯰尾藤四郎は不意に顔を上げると、静やかな夜明けの色をした紫眼を僅かに細めた。それは目映さに眩んでいるようであり、微笑んでいるようでもあった。黙したまま耳を傾ける骨喰藤四郎の額に、こつんと自らの額を合わせると鯰尾藤四郎はゆっくり瞳を閉じていく。
「骨喰に触れていると、特にあったかいし、どこか安心する。
──だから、骨喰に触れていたいんだ」
囁くような声だった。こうして顔を突き合わせていなければ、きっと聞こえなかったであろう、そんな声。
──その声に芽生えた想いを、どう言葉にすればいいのだろう。
鯰尾藤四郎の手のひらは、いつもと変わらず、あるいはいつも以上にあたたかい。そしてその温もりが広がるのは、手のひらだけではない。もっともっと身体の奥、胸の奥に火が灯ったようなあたたかさを骨喰藤四郎は感じていた。
この熱を。このあたたかさを。目の前の兄弟も同じように感じている。
それを知って、何故か骨喰藤四郎は声を発することができなかった。
──そして同時に、骨喰藤四郎はひとつだけ理解した。
鯰尾藤四郎と触れ合っている時に生まれる安らぎも、焦燥も、鯰尾藤四郎に触れたいという情動だったのだと。俺もだ、と骨喰藤四郎は胸中で鯰尾藤四郎の言葉に返答をする。
俺もだ兄弟。俺も、お前に触れていると安心する。そして、もっと触れたいと思う。
そのことに気が付いた今、骨喰藤四郎の衝動は止まらなかった。もっと。もっと兄弟の温もりを求めるように、骨喰藤四郎は合わせていた額を鯰尾藤四郎の肩に預けた。
「骨喰?」
「……寝る」
「えっ、今からっ?」
さすがに鯰尾藤四郎は戸惑ったようだった。うーんと思案の声を上げてから、
「……ひょっとして、甘えてる?」
そう呟くと、鯰尾藤四郎はそっと骨喰藤四郎の髪に触れた。まるで幼子をあやすように骨喰藤四郎の頭を撫でる。
「よしよし」
──ああ、結局この兄弟には見抜かれてしまうのだ。骨喰藤四郎を撫でる手から伝わる体温が少し照れくさく、しかしそれ以上に骨喰藤四郎を安心させる。骨喰藤四郎は、鯰尾藤四郎と繋がれたままの左手に僅かに力を籠めた。
骨喰藤四郎にはやはりまだよく解らない。このあたたかさがどこから来るのか。どう受け止めるべきなのか。どうして、この兄弟だけには触れたいと思うのか。
けれど、傍らの兄弟とこの温もりを共有できるのであれば、その事実さえ解っているのであれば、今はそれだけで良い。そう思えてしまう。
寝ると言ったのはただの照れ隠しだったのだが、骨喰藤四郎は段々と本当に心地よい微睡みに囚われていく。
鯰尾藤四郎の鼓動と。体温と。声と。
骨喰藤四郎を包み込むように取り巻くそれらを感じながら、骨喰藤四郎は瞼を下ろした。