call a name

名前を呼ぶ話です。


 始まりは、ほんの些細な一言だった。



 とあるごくごく普通の朝食の席。よく晴れてはいたけれど、要するにただそれだけの空模様。
 俺と骨喰はいつものように並んで席に着いていた。食事の際に座る場所は特に定められていない。ただなんとなく、仲の良い相手と近くに座ることは多い。その「仲の良い」基準は兄弟同士だったり相棒同士だったり友人同士だったりと、人によってまちまちではあるけれど。なにはともあれ、俺は骨喰と並んで座るのが常だった。
 そして今日、俺と骨喰の前に座ったのは髭切さんと膝丸さんの二人。
 朝の挨拶を交わし、朝食をとりながら取り留めのない談笑をしている最中に。
 骨喰がいつものように、俺を「兄弟」と呼んだ。
 ──それを聞いた髭切さんが、にっこり笑ってこう言った。
「きみも、兄弟の名前を覚えていないの?」
 ぴたりと、髭切さんを除いた三人の動きが静止する。
「きみ『も』……」
 傍らで髭切さんの言葉を聞いた膝丸さんは箸を止め、苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
 目の前で髭切さんの言葉を聞いた当の骨喰は箸を止め、きょとんとしている。何を言っているのか。そんな表情だった。
 そして斜め前で髭切さんの言葉を聞いた俺は俺で、鰤の照り焼きに伸ばしていた箸を思わず止めていた。
 なんというか──反応し難い。
 まさか骨喰が俺の名前を忘れているなんてことはないと思うのだけれど、よくよく考えると骨喰に名前を呼ばれた覚えは、一度も、無い。骨喰はひたすらに俺を「兄弟」と呼ぶ。
 だけど俺はそれを改めようなんて考えたこともなかった。骨喰から「兄弟」と呼ばれるのは、なんだかくすぐったくて心地良い。「兄弟」と呼ばれるその度に、少しだけ特別な繋がりが与えられるようだった。刀だとか、過去に同じ場所にいたとか、そんな共通点以上に俺と骨喰を結びつけてくれる──そう感じていたから、俺はずっとそのままにしていた。
 もしかしたら、それは人間の在り方を真似た、ただの家族ごっこだったのかもしれない。でも、本当にそうだったとしてもそれが悪いことだなんて思わない。そもそもからして山姥切さんとか山伏さんとかだってお互いに「兄弟」と呼び合っているわけだし、違和感を覚えたことすら一度だって無かった。
 だから髭切さんの一言は、俺になかなかの衝撃を与えていた。
 まさか──骨喰が俺の名前を忘れているなんてこと──あるのだろうか。
 兄弟の名前を忘れるわけがない、と笑い飛ばせればいいのだけれど、なんせ目の前にはすっかり名前を忘れた兄とすっかり名前を忘れ去られた弟がいるものだから、その行為すら躊躇われる。
 もしも本当に骨喰が俺の名前を忘れていたら。
 ちょっと、悲しいかもしれない。
 そんなことを考えながら、鰤の照り焼きを口に運ぶ。何故だか鰤はなんの味もしなかった。
 朝食の場が妙な緊張感に包まれる中(もっとも、負のオーラを発しているのは俺と膝丸さんだけだったかもしれない)、骨喰は平然と口を開いた。

「そんなわけない。鯰尾だ」

 からーん、と。
 箸を落とした俺に、三対の視線が集まる。
「……手が滑った」
 淡々とそう告げると各々興味を無くしたようで、話題は元へと戻っていく。俺は箸を拾い上げ、黙々と食事を続けながら三人の会話に耳を傾けた。
「なぁんだ、覚えてるんだね」
「普通は忘れないだろう」
 ジト目で言う膝丸さんに、髭切さんはうーんと首を傾げながら、
「普通はころころ名前が変わらないからなぁ」
「……」
 膝丸さんは誤魔化すように味噌汁をすすった。
「でも、そっか。鯰尾か」
 髭切さんが、ふにゃりとした笑みを浮かべる。骨喰は大きく頷いて、
「鯰尾だ」
 がちゃん、と。
 空になった茶碗を落とした俺に、三対の視線が集まる。
 ──別に俺は動揺なんてしていない。骨喰から名前を呼ばれたことに動揺なんてしていない。もしそれが動揺だったとしても、骨喰が俺の名前を覚えていたことに対する驚愕からのものだ。
 だから決して、骨喰の唇から俺の名前が初めて紡がれたことに動揺なんてしていない。
 そう、これはあくまで、
「……手が滑った」
「油でも塗っているのか?」
「まさか」
 骨喰の声に、俺は素気なく返事をする。俺は平静を装って──もっとも、動揺なんて一切していないのだけれど──味噌汁に口をつけた。
 そして食卓の話題は再び元へ戻っていく。
「きみが骨喰で、かれが鯰尾か」
「ああ、鯰尾だ」
 両手をがっちり固めて、俺は手を滑らせまいとする。
 俺は黙々と味噌汁に浮かぶなめこを口に運び続けた。二人の会話には反応するだけ損である。
 髭切さんは絶えずにこにこしながら、
「あれは鯰尾ですか?」
「はい、鯰尾です」
「英会話か!」
 思わず反応してしまう。
 俺は斜め前に座る髭切さんに食ってかかった。
「髭切さん! 骨喰に変なことさせないでくださいよ!」
「へんなこと?」
 きょとんっ、とした顔で髭切さんが俺の言葉を鸚鵡返しする。
「……どの辺りが?」
「どのっ……!」
 そう面と向かって聞かれるとよくわからなくて、俺は言葉を詰まらせた。
 何が問題……なんだろうか? 名前を呼ばれることだろうか。真っ先にそれを思いつく。いやいや、別に名前を呼ぶことが変なことだとはまったく思わない。じゃあ、どうして俺はこんなに狼狽えているんだろう。ああ、そうだ。骨喰に英会話みたいな会話をさせたことは変と言えば変である。かと言って、それも抗議をするほどのものかと言われると──
 すっかり混乱して俺が言葉にならない呻き声を上げていると、膝丸さんがぱちんと箸を置きながら口を開いた。
「──兄者。あまり同胞を困らせるのはやめろ」
「ありゃ、ごめんよ。そんなつもりは無かったんだけど」
「すまなかったな、鯰尾藤四郎。この通り兄者はマイペースでな」
「あ……いえ、別に……」
 そう改まって謝罪をされると逆に、どうしていいかわからなくなってしまう。俺だって本気で困っていたわけではない。
 言葉を探してなんとなく視線を巡らせた先で──骨喰の瞳とぶつかった。
 骨喰は一片の曇りもない、ただただ純粋な疑問だけをその瞳に浮かべていた。
「……困っていたのか?」
「……………………っ!」
 まっすぐな視線で射抜かれて、俺の唇が戦慄く。
 そして、俺は。
「……馬の様子、見て来なきゃっ!」
 適当な用事をでっち上げ、その場から退散したのだった。



 はああああ、と深いため息が唇から漏れた。そのため息を聞きつけた望月が、澄んだ瞳をこちらへ向ける。
 どうしたの。彼の黒目がそう問いかけているようで、俺はひとつ苦笑を浮かべた。なんでもないよと呟きながら、愛馬の鼻筋を優しく撫でる。
 そしてまたひとつ息を吐く。あの場に骨喰を置いて逃げ出してしまったことに、俺は今更ながら後悔を覚えていた。骨喰が俺の行動を訝ることは確かだろうし──何より、殆ど初対面に等しい髭切さんと膝丸さん相手に、俺無しできちんと交流が図れているかが心配で仕方がない。もちろん、最近の骨喰は以前に比べて他人と関わるようにはなっているけれど、いきなり新入り二人をまとめて、というのは荷が重いんじゃないだろうか。
 ……そうは言っても、朝食の場に戻る気にはなれないけれど。
 どうせもう食事が終わってみんな解散しているとかはともかくとして、今はなんとなく骨喰と顔を合わせにくかった。
 ──さっきは頑なに認めなかったけれど、今ここでは認めよう。
 俺はきっと、骨喰に名前を呼ばれて動揺した。
 なんでだろう、と首を傾げる。名前を呼ばれるなんて、それこそ骨喰以外の誰からだってされている行為である。どうして骨喰に名前を呼ばれただけで、あんなに動揺してしまったのだろう。
「……いつもと違う呼び方をされたから、とか?」
 ぽつりと考えを口に出す。それだろう、と頷く自分と、違うんじゃないか、と否定する自分がいる。
 確かに普段と違うことをすると、戸惑ったり動揺したりする。骨喰に名前を呼ばれて心臓が跳ねたように、新しい戦場へ行く時はいつだって心臓がどきどきと脈打つ。でも、その鼓動の種類が同じかと言われるとちょっぴり違う気はするのだ。
 ──骨喰に名前を呼ばれたときは、少しだけ心臓が苦しくなった。
 うーん、と望月を撫でながら唸る俺の背後で。
「──鯰尾!」
 明るく名前を呼ばれて、俺の心臓は跳ね上がった。声音は全然違うのに、どうしてか白い兄弟の姿を思い浮かべながら反射的に振り返り──俺は肩の力を抜いた。
「……あ、物吉」
「おはようございます。どうしたんですか、こんなところで」
 白い内番服に身を包み、人懐っこい笑みを浮かべて馬小屋の入口に立っていたのは物吉だった。そう言えば今日の馬当番は物吉と後藤が命じられていた気がする。かく言う俺も浦島と畑当番の仕事を任されているから、あんまりここでのんびりもしていられない。
 俺は曖昧に笑みを浮かべた。
「んー、ちょっとね」
「何かお仕事でしたら言ってくださいね。お手伝いします!」
 物吉は胸元に手を当てて上品に微笑んだ。
 幸運の王子とも呼ばれることもある彼は、その通り時折貴族のように品のある仕草をすることがある。例えば今がそうであるように、野暮ったい内番服に身を包んでいながらも、物吉の所作からはどことなく気品のようなものが感じられた。
「うん、ありがとー」
 そんなことを考えつつ、俺は物吉の申し出に適当な返事をして──ふと、あることを思いつく。
「……あのさ、物吉。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
 言うと、物吉はぱっと顔を輝かせた。桜が舞っているんじゃないかと思うほどの嬉々たる様子である。
 手伝って欲しいと言われて喜ぶのだから、本当に人の好いやつだと思う。刀だけど。
「はい、喜んで!」
「良かった」
 にこにこ笑顔で頷く物吉に俺も笑顔を返しながら、
「──俺のこと、いつもと違う呼び方で呼んでくれない?」
 俺の言葉に、物吉はぽかんと口を開けた。さすがに予想外の申し出だったらしい。
「鯰尾を……いつもと違う呼び方で?」
「そうそう」
 小鳥のように首を傾げる物吉に、俺は頷いた。
 我ながら名案だと思う。物吉に普段と違う呼び方をされて動揺するのならば、つまり骨喰の名前呼びに動揺したのも同じ理由、ということになる。試してみるのも悪くないだろう。
 動揺しなかったら、という可能性はこの際考えないことにする。
「違う呼び方、ですか……」
 初めは困惑したらしい物吉も、右手を口元に当てて生真面目に考え始める。僅かに瞳を伏せるその表情は真剣そのものだった。
 ……そんなに悩まなくても、俺としては『鯰尾さん』とか『鯰尾くん』とかそういうので全然構わないのだけれど。
 やがて物吉は、さも名案だと言わんばかりに輝く笑顔を浮かべた。
「鰻尾!」
「………………」
「あれ? どうしました?」
「眩暈がする」
「大丈夫ですか? 薬研くんにお薬もらってきましょうか」
 眉間を抑える俺に、物吉は真顔でそう言った。
 良いやつだけど──なんというか、こういうやつなんだよなあ。
 脱力する俺の傍らで、物吉はどこか得意気に俺の顔を覗き込んだ。
「これで、鯰尾の力になれましたか?」
「う、うーん」
 俺は曖昧に呻いた。物吉の『いつもと違う呼び方』は結局なんの参考にもならなかったけれど、にこにこと無邪気に笑う物吉の顔を曇らせるのは気が引ける。
 何より否定などすれば、己の至らなさを不甲斐なく思った物吉の口から、もっととんでもない呼び方が飛び出てくる可能性がある。鱈尾とか鮪尾とか鱠尾とか。それはちょっと勘弁願いたい。
「でも、これに何か意味があったんですか?」
 今更と言えば今更ながら、物吉がもっともな問いを投げかける。
「いやちょっと、呼び方が変わったらどきどきするかなーと思って」
「どきどきしました?」
「あはははははははははは」
 笑って誤魔化しておく。
「物吉はさ、そう言うのある? いつもと違う呼び方をされたらちょっと……落ち着かない感じとか」
 それ以上追求される前に、俺は逆に物吉に問いかけた。
 物吉は夢想するようにどこか虚空へと視線をやって、
「どきどきかはわかりませんが……でも、もし鯰尾に貞宗と呼ばれたら、嬉しいかもしれませんね」
 そう言って、薄い鳶色の瞳を優しく細めながら物吉は振り向いた。
「……そう? なんで?」
「ちょっと距離が縮んだ感じがするじゃないですか」
「距離が……縮んだ?」
 望月を撫でる手を止めて、物吉の言葉を繰り返す。距離が縮む。嬉しい。その二つの言葉が俺のなかに広がっていく。
 呼び方が変わると──距離が縮んだように思えて──嬉しい。そうなのだろうか。
 なんとなく。
 俺は、少し離れたところで背筋を伸ばして佇む脇差を振り返った。
「──貞宗?」
「はい」
 ふわり、と物吉は柔らかく微笑んだ。
 その笑顔が言葉通り嬉しそうで、俺は少し照れくさくなる。
「……やっぱり物吉の方が言いやすい」
「そうですか? 残念です」
 口ではそう言いつつも、物吉はくすりと笑みを漏らした。
「──あれ? 鯰兄、なんで馬小屋にいるんだ?」
 不意に、後藤の声が馬小屋に響いた。入口を見やれば、弟たち揃いの内番服に着替えた後藤が目を丸くしている。
「あ、後藤。これから馬当番だよな、ごめん邪魔して」
 俺もそろそろ畑へ行かなければならない頃合いだろう。俺は望月を最後にもう一度撫でて、身を翻した。
 馬小屋の入口で俺は一度振り返り、物吉に笑いかける。
「ありがと、物吉」
「どういたしまして」
 物吉は、やはり上品に微笑んだ。





 本丸の廊下をてこてこと歩きながら、俺は物吉の言葉を思い返していた。
 呼び方が変わる。そうすると距離が縮んだように思える。だから、嬉しい。
 つまり俺は、骨喰に名前を呼ばれたのが嬉しかったと──たぶん、そういうことなのだろう。物吉の理論が本当に俺に当てはまっているかはともかくとして、その感情は理解できる。
 でも、と首を傾げる。それでもわからないことはある。
 
 どうして骨喰に名前を呼ばれると、心臓が痛くなるんだろう。
 
 耳に残った兄弟の声を思い返す。鯰尾、と骨喰の唇が紡いだ俺の名前。
 あの瞬間を思い出すだけでも心臓は淡く音を鳴らす。俺は自らの左胸に手を当てて、そっと唇を動かした。
「……骨喰」
「なんだ」
 それは背後からの返事だった。
「──っ!!」
 上げかけた悲鳴を喉で留めて、俺は慌てて振り返る。そこには当然、骨喰がいた。
 心臓がばくばくと全力疾走しているけれど、これはただただ純粋に驚きによるものだ。そうだと思う。
「あっ、あのっ、あのっえっと」
 不意を突かれた俺は、ただ意味不明の声を上げるだけしかできなかった。骨喰が突然現れたことに驚いているし、朝食の席で逃げ出した手前どんな顔を合わせればいいのかわからないし、何より、向けたつもりは欠片も無かった呼びかけを聞かれてしまった。最後の理由がどうにも俺を気恥ずかしくさせる。
 心臓はうるさくて、体は硬直してて、頭は纏まらない。完全に挙動不審な俺の態度に、しかし骨喰はいつも通りまっすぐな視線で俺を見た。
「……さっきのことだが」
「はひっ」
 びくんと身体を震わせて返事をする。さっきのこと。たぶん──朝食の席のことだろう。
「無闇に名前を読んで、困らせてすまなかった」
 骨喰は淡々とそう告げた後、少しだけ紫眼を曇らせて言葉を続けた。
「兄弟が名前を呼ばれて困るなら、もう呼ばない。だから──」
「──だめだっ!」
 予想外に大きな声が俺の口から飛び出した。俺も骨喰も目を丸くして見つめ合う。
 ……えっと。俺は何を言ったんでしょう。
 俺は今さらのように自らの言葉を反芻する。考えるよりも先に口が出ていた。骨喰が悲しそうだったから、だから彼の言葉を否定したのだろうか。骨喰の顔を曇らせたくなくて、だから俺は止めたのだろうか。

 それとも。
 俺が、本当は骨喰に名前を呼ばれたくて──

「……いや。いやいやいやいや」
 俺は顔が熱くなるのを感じながら、半笑いで右手をぱたぱた振った。
 いやいや。いやいやいやいや。百歩譲って、呼ばれるのが嫌じゃないことは認めよう。千歩譲って、まあその、なんというか、名前を呼ばれたのが嬉しくなかったわけではないことも認めよう。
 でも。それでも、名前を呼ばれたいなんて──そんなことはない。絶対に。
 だって骨喰に名前を呼んで欲しいなんて。
 そんなの、まるで俺が骨喰のことを──。
「……嫌じゃないのか?」
 ぱちりと大きな瞳を瞬かせ、骨喰がそう言った。俺の体がびくりと跳ねた。
「い、嫌っていうか、あの、さっきはいきなり呼ばれたから、ちょっと驚いたっていうか、慣れてないだけで、その、ぜん、ぜぜんぜん嫌ではないから」
 無様なほどに言葉が震える。けれど骨喰は俺の言葉に安堵したようだった。
「……呼んでもいいのか」
「えっ!?」
 なんだか話が飛躍した気がして、俺は目を見開いた。
「でででででも別に呼んで欲しいとまで言ってないし慣れてないから──」
「慣れればいい」
 わたわたとみっともなく慌てる俺に向かって、骨喰は軽くそう言った。
 まっすぐに──どこまでもまっすぐに俺を見つめながら、その唇を動かす。
「鯰尾」
「──ひっ、」
 中途半端な声が上がる。俺は反射的に一歩その足を後ろに下げた。
「鯰尾」
「うぇっ」
 名前を呼びながら、骨喰が一歩俺に近づく。俺はまた一歩下がる。
 顔はもう熱すぎてそれ以外の感覚が無くなっていた。
「鯰尾」
「は……」
 更に一歩。俺も、一歩。
 とん、と俺の背中に壁がぶつかった。
「鯰尾」
「……う」
 一歩、骨喰が近づく。俺はもう下がれない。
 一歩分だけ──骨喰との距離が縮まった。
「鯰尾」
「……」
 もう、声も上げられなかった。骨喰の顔が間近にある。
 俺の心臓はこれまでに無いぐらい強く脈を打っていて、痛いぐらいだった。これ以上どきどきしたら、俺はきっと壊れるのだろう。混乱しきった頭は、根拠も無いのにそう確信していた。
 俺の視界に映るのは、どこまでも綺麗な骨喰の瞳。俺の耳に飛び込むのは、心臓の音とどこまでも涼やかな骨喰の声。
 これ以上骨喰が近づいたら、どうなってしまうのだろう。漠然とそんなことを考える。
 骨喰の薄い唇がまた開き──
「鯰尾ー!」
 俺の名前を叫んだのは、しかしまったく別の声だった。
「おっ、いたいた。探したよー。早く俺と一緒に畑当番──って」
 廊下の向こうから、浦島が右手を振りながら姿を現す。浦島は壁に追い詰められた俺と追い詰めた骨喰とを交互に見て、首を傾げた。
「なにやってんの?」
「名前を呼んでいた」
「……ふーん」
 よくわからんと言った風情で、浦島は適当な相槌を打った。
「畑当番か。兄弟、続きはあとだ」
 そう言って、骨喰は何事もなかったかのように俺から身体を離す。紫眼から解放された俺は、ずるずるとその場にへたり込んだ。へたり込んでから、俺の頭は骨喰の言葉をようやくちゃんと受け止める。
 ──続きがあるらしい。
 兄弟の宣言に、俺は背筋を凍らせた。顔も青くなった気はするのだが、触れてみるとその頬はとんでもなく熱かった。顔は暑いのに体は寒い。なんだかもういろいろと、本当にいろいろと──めちゃくちゃだ。
「……おーい、鯰尾。畑当番」
 浦島が座ったままの俺にそう声をかける。
 俺は絶望的な気分で、口を開いた。

「……こ、こしがぬけた……」
「へ?」





 とあるごくごく普通の朝だったのだ。晴れてはいたけれど、ただそれだけの空模様で。
 きっといつもの日常が続くと、俺は思っていた。
 ──けれどほんの些細な一言で。

 俺と骨喰の世界は少しだけ、その色彩を変え始めた。