ブラザーフッド
鯰尾がお姫様抱っこされる話です。
嗚呼、失敗したな。
右足を引きずりながら、鯰尾藤四郎は小さく小さく嘆息する。刀を鞘に収めると、闇夜に響いた鍔鳴りがため息の音をかき消した。
池田屋の時代、三条大橋。前田藤四郎を長に置き、短刀並びに脇差から成る部隊は、今日も今日とてこの場所で時間遡行軍と文字通り刃を交えていた。この時代に出現する時間遡行軍はかなり減ってきているものの、それでも決してゼロではない。幸いにも夜半を戦いの舞台とする池田屋の時代において、脇差である鯰尾藤四郎はかなり有利に戦いを進められる。
進められるのだが──かと言って、負傷がなくなるかというと、そうでもなくて。
たった今、繰り広げられたばかりの白刃戦。そこで鯰尾藤四郎は、まだ練度の低い前田藤四郎を敵方の攻撃から咄嗟に庇った。相手の攻撃による傷は受けなかったものの、無理に突っ込んだ姿勢での攻防は鯰尾藤四郎に足に負担をかけてしまった。要するに、どうやら右足を捻挫したらしい。きちんと看ていないため確かなことは言えないが、右足首は少し動かすだけでも痛みを訴えてくる。少なくとも気のせいということは無さそうだ。
どうしたもんかな、と鯰尾藤四郎は平静を装いつつ思いを巡らせた。
確かに右足首が痛むことは痛むのだが、三条大橋をちょうど渡り終えたこの地点で、自分ひとりのために部隊を撤退させるのは気が咎めてしまう。賽子次第ではあるものの、戌の方向へ向かえば後一度の戦闘で帰城できることを考えれば、負傷を申し出るのは後回しでも良いように思えてくる。右足首の捻挫が戦闘にどれほどの支障をきたすかは正直判断がつかないが、鯰尾藤四郎にとって痛みを隠すのは……というよりも、隠し事をするのはお家芸であった。
もっとも、それをするにはひとつばかり問題がある。鯰尾藤四郎の″お家芸″を嫌い、特に負傷を隠匿すると烈火のごとく怒る人物がいるからだ。できることなら、彼の怒りはあんまり買いたくない鯰尾藤四郎である。
然りとて、戦場も半分を過ぎている点。現状、部隊の誰も中傷になっていない点。なにより、鯰尾藤四郎が負傷をしたと知れば、前田藤四郎が気に病むであろう点を考えれば、鯰尾藤四郎のとる選択肢はたったひとつであった。
「──兄さん、さきほどはありがとうございました」
袖を引かれて顧みれば、前田藤四郎が鯰尾藤四郎に向かって深々と頭を下げている。鯰尾藤四郎は頭の片隅で右足の痛みを気にしながら、微笑みを浮かべた。
「どういたしまして。前田は怪我してない?」
「はい、鯰尾兄さんのおかげで大事ありません」
前田藤四郎は勢いよく首を縦に振り──眉を顰めた。
「……僕は?」
しまった、と胸中で歯噛みする。失言だった。
それでも鯰尾藤四郎は内心の動揺はお首にも出さず、やはり笑顔のまま、
「ああ別に、言葉の綾っていうか──」
「怪我をしたのか?」
自身の背後から響いた声を聞き、鯰尾藤四郎の身体は意思とは無関係に強ばった。ぎぎぎと音が鳴りそうなほどぎこちない動きで、鯰尾藤四郎は背後を振り返る。
「……骨喰」
「どうなんだ」
まっすぐな視線で問いかけられて、鯰尾藤四郎は口をへの字にして黙り込んだ。この兄弟、骨喰藤四郎こそ、鯰尾藤四郎が負傷を隠すと烈火のごとく怒る人物である。骨喰藤四郎の本気の怒りの炎に晒されるくらいなら、鯰尾藤四郎は燃え盛る焚き火に手を突っ込む方を選びたい。
しかし、右足の負傷を素直に告げるわけにもいかなかった。前田藤四郎がすぐそばにいる今は尚更である。
──前田藤四郎や、部隊の進軍のためだけではない。怒られると解っていても、何故か怪我をしていることは骨喰藤四郎にだけは教えたくない。そんな意地にも似た感情が、鯰尾藤四郎の胸中で鎌首をもたげた。
結局、鯰尾藤四郎は妥協をすることにして。
「……少し右足を捻っただけ。活動には支障が無いから」
「え……」
目に見えて前田藤四郎の瞳が揺れる。案の定だ。鯰尾藤四郎はため息をつきたい気分だった。
「いや、前田のせいとかじゃないって。気にしないでよ」
胸中の疲労を隠して前田藤四郎へ微笑みかける鯰尾藤四郎の足元に、骨喰藤四郎が屈み込む。視界の端でそれを捉えていた鯰尾藤四郎は、彼の動きをわずかに訝った。けれどそれだけである。ひとまず負傷を明かした鯰尾藤四郎にとって、骨喰藤四郎の憤怒に繋がる導火線は絶ったに等しく思えていた。今の鯰尾藤四郎が専念すべきは、心優しい弟のいらぬ罪悪感を拭うこと。そう信じて疑わなかった。
結論から言えば、鯰尾藤四郎の判断は間違いだったと言える。せめてほんの数瞬間だけでも、彼は骨喰藤四郎に注意を払うべきであった。
そうすれば。
骨喰藤四郎に右足首を掴み上げられる覚悟も、できていたことだろう。
「いっ──!」
力いっぱい上げたつもりの悲鳴は、しかし何の音にもならなかった。骨喰藤四郎が足首を掴んだその瞬間、鋭い痛みがびきりと脳天まで駆け上がる。出せぬ声の代わりに肺から空気だけを搾り出し、鯰尾藤四郎はへなへなとその場に力無く蹲った。
かろうじて顔を上げると、地面に膝をついたままの骨喰藤四郎が冷えきった声で、
「活動に支障が、なんだ?」
「……」
その見下ろす視線の冷たさときたら、氷もかくやと鯰尾藤四郎の背筋を凍らせた。烈火のごとくというのは誤りであった。より正しく表現をするならばドライアイスが近いだろう。結局どちらも、火傷に繋がるという点で。
しかし鯰尾藤四郎にも意地ぐらいある。何をするんだと抗議の声も上げられず、痛いじゃないかと訴えることもできぬまま、それでも鯰尾藤四郎は同じ高さにある骨喰藤四郎の顔をできる限りの怖い顔で睨みつけた。果たして、涙を滲ませた瞳にどれほどの威嚇効果があったかは定かではないが。
「に、兄さん、大丈夫ですか!?」
前田藤四郎が真っ青な顔で鯰尾藤四郎の肩に手をかける。これ以上この弟に心配をかけるわけにはいかない。鯰尾藤四郎は精一杯の虚勢をかき集めて引きつった笑みを作り、
「……ちょう、よゆう」
前田藤四郎に向かって堂々と立てた親指はしかし、ぷるぷるぷるぷると震えていた。その振動、さながら生まれたての子鹿が如し。
頬に一筋の汗を流しながら、前田藤四郎は無言でそっと視線を逸らす。何も言わない弟の優しさが却って辛い。鯰尾藤四郎もまた無言のままに、親指を引き戻した。
「あれー? なまずおさん、どうしたんですか?」
「……怪我、ですか?」
「大丈夫ですか、兄さん」
鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が揃って地面に腰を下ろしているのを見て、さすがに他の面々も異常に気が付いたようである。今剣と小夜左文字、秋田藤四郎が続々と鯰尾藤四郎の周りを囲む。
「右足首を捻挫したらしい」
立ち上がった骨喰藤四郎は、部隊の仲間にそう告げた。
それを聞いた今剣は目を丸くする。
「えっ、だいじょうぶなんですか?」
「立てないんだ。大丈夫なわけがない」
「それは骨喰が掴んだからだろ!」
いけしゃあしゃあと言い放つ骨喰藤四郎に向かって、鯰尾藤四郎は反論した。ひとまず声を上げることが出来る程度には痛みが引いている。
「大丈夫。痛くない。いけるよ」
言葉とは裏腹に腰を上げぬまま(あるいは上げられぬまま)、鯰尾藤四郎は、足の代わりに両腕をぶんぶんと振ることで己の快調っぷりを主張した。
「それにさ、サイコロ次第ではあと1回の戦闘で帰れる。みんな手傷はほとんど負ってない。それなのに、俺のせいで撤退なんてできるわけないだろ。進むのが絶対正しい!」
これ以上の議論は不要とばかりに、強い口調で断言する。
鯰尾藤四郎の言い分を聞いた骨喰藤四郎は、未だへたりこんだままの鯰尾藤四郎を半眼で見下ろした。
「鯰尾には学習装置というものが無いのか」
「……?」
突然の言葉に、鯰尾藤四郎のみならず、その場に並んだ者たちは皆揃って頭に疑問符を浮かべた。
応とも否とも言えぬまま骨喰藤四郎を見上げていると、ただひとり小夜左文字がぽつりと、
「……学習能力では」
「鯰尾には学習能力というものが無いのか」
テイク2。
「そうやって怪我を隠して進軍して、もっとひどい怪我を招いたことが何度もあるだろう」
だから俺は怒るんだ。骨喰藤四郎の瞳は確かにそう告げている。
口以上に物を言う兄弟の紫眼から視線を逸らし、鯰尾藤四郎は拗ねた子どものように唇を尖らせた。
「……無いよ。2回しか」
それも敵の本陣での出来事だ。一切無かったとは言わないが、まるで鯰尾藤四郎による『隠し事』が常習犯であるかのような物言いは素直に承伏できない。
出陣直後に傷を負った際は、鯰尾藤四郎とてちゃんと部隊の仲間に相談くらいする。多分する。おそらくする。したことがないわけではない。2回くらい。
「俺の身体のことは俺が一番解ってる。どのくらいの痛みだとか、骨喰には解らないくせに」
──口に出してから、鯰尾藤四郎は少しだけ後悔をした。
こんな突き放すような言い方をする気は無かった。けれどどこからか、反骨心が沸いてしまったのだ。
本当は鯰尾藤四郎も解っている。骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎に対して怒っているのは、外ならぬ鯰尾藤四郎の心配してくれているからだということを。
骨喰藤四郎の怒りは、鯰尾藤四郎への愛情をそっくりそのまま裏返したものだということを。
けれども鯰尾藤四郎は、目の前の兄弟のひたむきな想いを真っ直ぐ受け止めることができるほど、成熟をしていなければ無垢でもなかった。
「……そうだな。俺には鯰尾の痛みは解らない」
降ってきた静かな声に、鯰尾藤四郎は目も合わせられぬままびくりと身体を震わせた。
怒らせただけなら、まだ良い。もしも今の言葉で骨喰藤四郎が傷ついたとしたら、その痛みはそのまま鯰尾藤四郎に返ってくる。
「でも俺は、俺には解らないような痛みを鯰尾が隠すことを知っている。
兄弟を止めたい理由は、それで十分だ」
「……!」
思わず顔を跳ね上げる。
鯰尾藤四郎が見上げる自分とよく似たその顔に、今は一片の悲しみも怒りも浮かんでいない。
先ほどまでとは打って変わって、骨喰藤四郎の表情は静かなものだった。怒りを失くした兄弟の紫眼に今宿るのは、ただただ気遣いの色。一部の揺らぎもないその瞳は底すら覗く澄んだ湖に似ていた。骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎を心底案じているのだと、まっすぐに伝えてくる。
伝えられて、しまう。
「そん……そんなの……」
半ば意地で反論をしようとするものの、言葉は出てこなかった。
結局、震える唇を噛み締めて、俯くことしかできなくて。
「──もういい」
呆れた吐息は何の合図か。そんなため息をつかれたものだから、鯰尾藤四郎はいよいよ本気で怒らせたのだと思った。俯く視界の端に、自分に向かって伸びる彼の腕を映したときは、先刻の激痛を思い出して反射的に身構えてしまった。
けれど骨喰藤四郎の腕は、鯰尾藤四郎の背中と投げ出された足に伸ばされただけ。予想を外れ、なんの衝撃も自身を襲わないことに驚愕しながら兄弟の挙動をぼうっと見送っていると、鯰尾藤四郎の身体が宙に浮く。地面から離れた四肢は不安定に揺れ、しかしそれを支える骨喰藤四郎の腕は華奢な見た目とは裏腹に力強かった。
抱え上げられている。鯰尾藤四郎は頭の一部を漫然とさせたまま、まずはその事実を受け止めた。
間近に迫った骨喰藤四郎の柔らかな銀髪が鯰尾藤四郎の頬をくすぐって、ようやく鯰尾藤四郎は我に返った。
「……っぎゃ────────────!?」
思わず大声を上げると、骨喰藤四郎はうるさそうに眉を顰める。顔の真横で叫ばれればそりゃそうもなるだろうと心の片隅で納得しながら、けれど今はそれどころではない。自分の顔へ一気に熱が上るのを感じる。
鯰尾藤四郎の眼前に広がるのは人形のごとき整った兄弟のかんばせのみではあるのだが、鯰尾藤四郎はその鋭き慧眼でもって、自らが置かれた状況を瞬時に理解していた。
鯰尾藤四郎は。
骨喰藤四郎に。
″お姫様抱っこ″をされているのだ、と。
「な、なん、なにしてるんだよっ!」
「抱えた」
「そうじゃ! なくて! なんでこの抱き方──」
拘束から逃れようともがいたところで、思考の彼方へ飛んでいた右足の捻挫が再び強く痛みを訴える。上げかけた悲鳴は奥歯を噛んで飲み込んで、面を上げれば目の前には骨喰藤四郎の顔。前門の兄弟、後門の捻挫。鯰尾藤四郎に逃げ場はない。
せめて視界だけでも平和であれと横を向けば、短刀たちが四対の瞳でお姫様抱っこをされた鯰尾藤四郎を凝視している。前門後門のみでは鯰尾藤四郎の窮地は片付けられなかった。左右もだ。平たく言えば四面楚歌である。
──恥ずかしい。
恥ずかしい!
恥ずかしい!!
鯰尾藤四郎は絶望的な羞恥に襲われながら、急いで口を動かした。
「わかった俺が悪かったごめんなさい謝ります!! 進軍しません! おとなしく本丸に戻ります! だからこの抱え方だけは、や、やめてくれよ!!」
「どうしてだ」
「嫌だからだよ! この抱き方は、男がされるようなものじゃないの!」
顔を真っ赤にしてそう叫ぶ。
人ならぬ身の鯰藤四郎と言えど、云百年と人の世を眺め、こうして人の姿を取るようになってからは更に人の世俗に触れてきた。唐揚げに無断でレモンを絞れば戦争になるということも、タライは風呂や洗濯に使うだけではなく人の頭にも降ってくるものだということも、押すなよ絶対押すなよ、と念を押されたら押してやるのが人情だということも鯰尾藤四郎は心得ている。
たった今かまされている「お姫様抱っこ」も同様だ。これは鯰尾藤四郎のような男がされるものではなく、うら若き乙女やうら若き乙女の心を持った者が意中の相手に抱え上げられてアハハのウフフでイチャつくための抱き方である、ということすら理解の範疇にあった。
そして、鯰尾藤四郎が「お姫様抱っこ」をそのように捉えているという事実は、裏を返せば、同じ釜の飯を食う仲である周囲の刀剣男士もまたほとんど同じ認識を持っているだろうことを示している。それはもちろん、この場に集う四振の短刀たちも含まれているわけで。
そんな弟たちの目の前でもって、お姫様抱っこを披露されてしまう鯰尾藤四郎の恥辱たるや、想像するだに余りある。
「そうか。わかった」
ひとつ頷く骨喰藤四郎の手によって、ひとまず鯰尾藤四郎の体は再び地面に下ろされる。存外素直に応じたことに驚いて(てっきり「怪我人は文句を言うな」と鯰尾藤四郎の訴えは退けられると思っていたのだ)、鯰尾藤四郎はぽかんと口を開けて骨喰藤四郎を見上げた。
「……下ろすんだ」
口に出してから、我ながら間の抜けた発言だなあ、と鯰尾藤四郎は思った。骨喰藤四郎は少しだけ不思議そうな顔をして、しかし得心がいったのか、再び首を縦に振る。
「兄弟が嫌がることはしない」
「──」
返事はすぐに出てこなかった。
羞恥で赤かった頬に、なんだか別の熱が宿った気がする。その熱を誤魔化すように、鯰尾藤四郎は視線を逸らしてぼやいてみせた。
「……結構されてるけどなあ……」
蚊の鳴くような声の呟きは兄弟の耳には届かなかったらしい。骨喰藤四郎は表情ひとつ変えぬまま、今度は鯰尾藤四郎の腹へと両腕を伸ばし、その体を肩に担ぎ上げた。
骨喰藤四郎の背中で上半身をだるんと脱力させながら、鯰尾藤四郎はぼそりと声を発した。
「……あの。なにこれ」
「担いだ」
「そうだけど、そうじゃなくて……いや、もういいや」
問答をするのも面倒くさい。鯰尾藤四郎は諦観のため息をついた。
今剣は、肩に担がれた鯰尾藤四郎を色んな角度からじろじろと観察し、それからぽんと手を打った。
「いきたなまずおさんがみずあげされた、ってかんじですね!」
「やかまし」
悪意なく報告する今剣にもぞんざいな態度をとることしかできない。
とはいえ、お姫様抱っこだけは嫌だ、と喚いた以上、今の体勢に文句を付けられるはずもない。腹部が圧迫されて苦しいのも、頭に血が上るのも甘んじて受け入れるしかないのだ、と鯰尾藤四郎は悲壮な覚悟を決める。
「あの。骨喰兄さん。差し出がましいのですが、その抱え方だと鯰尾兄さんが少し苦しいのではないかと」
「……そうなのか」
「おんぶ、おんぶにしてあげましょうよ」
表情を無くしていく鯰尾藤四郎を慮ってか、前田藤四郎と秋田藤四郎が代わる代わる骨喰藤四郎へ助言をする。大変できた弟たちの姿に、鯰尾藤四郎は少しばかり目頭の熱くなる思いがした。
四振の藤四郎兄弟が集まって、わいわいと抱え方を試行錯誤する様を見つめていた今剣は、傍らの小夜左文字をちらと見つめ、
「あの、さよくん。ぼくが、おんぶしてあげましょうか?」
「…………なんで……?」
──とまあ、そんな紆余曲折を経て、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に負ぶわれることになったわけだが。
「……」
鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の背後で落ち着き無く体を揺らした。
わがままであることは重々承知しているが、なんというか、おんぶはおんぶで少し恥ずかしい。
こうして骨喰藤四郎の背中に体重を預けていると、自分よりは少しだけ低いらしい骨喰藤四郎の体温を感じる。触れ合った部分から、ふたりの体温が混ざって熱くなるのを感じる。少しだけ汗の混じった。けれど清涼感のあるにおいを感じる。ゆっくりと脈を打つ鼓動を感じる。まるで、普段相対しているだけでは知り得ない骨喰藤四郎のなにかを覗いているようで、背徳感に似たものが鯰尾藤四郎の背中をぞわりと撫でた。
少しでも気を紛らわそうと、鯰尾藤四郎はなんとはなしに辺りを見回して。
ふと。
鯰尾藤四郎の目に留まったのは、傍らを歩く前田藤四郎の姿。その表情は、心なしか曇っているように見えた。
「──ねえ、前田。もしかして、気にしてる?」
そっと声をかけると、ぴくりと前田藤四郎の肩が揺れた。彼は鯰尾藤四郎の方を向かぬまま、口の端に苦笑を乗せて、
「兄さんの怪我を僕のせい、などと気に病むのは自惚れもいいところです。……それでも……」
それでも、自らが不甲斐ないのです。
前田藤四郎はそう言って、幼気な顔に似合わぬ険しい表情を浮かべる。普段は、慇懃ながらもあどけない振る舞いを見せる前田藤四郎のその姿に、鯰尾藤四郎の胸がちくりと痛んだ。
「……あのさ、前田。さっきも言ったけど、気にしないでくれ」
鯰尾藤四郎は負ぶわれたまま腕を伸ばし、弟の頭を優しく叩く。
「俺が前田を庇ったのは、前田が弱いから守ろうとしたとか、そういうのが理由じゃないよ。ただ俺がそうしたかっただけ」
前田藤四郎が鯰尾藤四郎へ視線を向ける。淡い栗色の瞳は、まだどこか曇った色を宿していた。
「俺が前田よりずーっとずーっと弱くても、きっと前田の前に出ていたと思う。兄って、そういう生き物みたいだから」
「それはやめろ」
「例え話しだよ!」
無粋な合いの手を入れた骨喰藤四郎の頭上にツッコミ代わりの手刀を入れてから、鯰尾藤四郎は改めて前田藤四郎に向き直る。
「えっと、だからー……何の話しだっけ。そうそう、兄は弟を守りたいんだよ。いち兄だってきっとそうしてたよ。兄だからね」
「鯰尾兄さん……」
「これから前田がどんどん強くなったら、俺が前田を守るより前田が敵を倒す方が速くなる。それまではさ、兄の面目を立たせてくれよ。兄からの、お願い」
「……兄さんは優しい方ですね」
くすりと、前田藤四郎は笑みをこぼした。
「はい。これからもよろしくお願いいたします、鯰尾兄さん」
綻ぶ花のように、前田藤四郎は柔らかな微笑みを形作る。弟がようやく自然な笑みを見せたことに安堵して、鯰尾藤四郎もまた笑みを浮かべた。春のひだまりのように優しく和やかな雰囲気に包まれて、鯰尾藤四郎と前田藤四郎は微笑み合う。
「では、弟からもお願いです。兄さんが怪我をしたときは、教えてください。弟は弟で、兄を支えたい生き物のようですから」
自分の言葉が鮮やかな弧を描いて返ってきた鯰尾藤四郎は、顔が引きつるのを自覚した。
兄をやり込めながらも変わらず保たれる前田藤四郎の穏やかな微笑みは、どこか長兄である一期一振の笑みに似ていた。少しだけ、含むものが垣間見えるところが。
「……そういうこと言う?」
「言わせていただきます。ですよね、骨喰兄さん」
「そうだな。ちゃんと教えろ」
「骨喰は弟じゃないだろ! いや、まあ、兄でもないけど」
よりにもよって、この会話に骨喰藤四郎を巻き込まれてしまう。
焦る鯰尾藤四郎に向かって、前田藤四郎は優しく瞳を細めた。
「教えていただけないと、ちゃんと心配ができませんから」
「……っ」
前田藤四郎のその言葉の主語は、きっと『前田藤四郎が』ではない。
いや、正確には前田藤四郎自身の想いも含まれているのだろう。けれど、一番に示すところは──
「では、失礼します」
前田藤四郎は普段よりも大人びた表情で微笑むと、軽快な足取りで、前を行く秋田藤四郎の隣へ並んだ。
お膳立てをされた。
そのことに気が付いて、鯰尾藤四郎はただでさえ皺の寄っていた眉間に新たな皺を刻む。
最終的にこの場を離れるところまで、前田藤四郎の仕事は完璧である。自分がいては、鯰尾藤四郎が骨喰藤四郎に心の内を明かすことはない、とあの弟は見抜いているのだ。もしかしたら──というよりも、ほぼ確実に──前田藤四郎のみならず、ほかの弟たちにも気づかれていることかもしれないが。
前田藤四郎が望んだことは、なんとなく解る。彼はきっと、気持ちを汲んでやって欲しいのだろう。
不器用で、言葉の足りない、あの兄弟の気持ちを。
弟にここまでお膳立てをされてしまっては、兄が動かないわけにはいかなかった。
「骨喰」
鯰尾藤四郎は、顔の見えない兄弟の名前を呼んだ。
「怪我したときは、やっぱり教えたほうがいい?」
「当たり前だ」
あまりの即答に、鯰尾藤四郎は苦笑してしまう。
そうだ。この兄弟は、そう答えるに決まっている。
「……骨喰が俺のことを心配してくれるのは、嬉しいよ。怪我を隠すのも……本当は、そんなに良くないって俺も解ってる」
骨喰藤四郎のつむじを見下ろしながら、鯰尾藤四郎はぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「でも、なんでもかんでも俺を優先させるのはちょっと違うよ。俺は今回だって、進軍するっていう選択も間違いじゃなかったって思ってる」
今、兄弟に伝えている言葉は全て本心だった。
時間遡行軍の少ない時代であれば、今日の出陣のように帰城を選べることもあるだろう。しかしもっと切迫した状況下では、捻挫ごときで撤退をするわけにはいかない。彼ら刀剣男士が守るべきは自分たちの身ではなく、この世界を形作ってきた歴史そのものだ。ふたつのどちらが大切かなど、秤にかけるまでもない。
傷を負っても、怪我をしても、たとえ折れる危険があったとしても、前へと進まねばならない。
それほどまでに、刀剣男士が戦う意味とは──重い。
「怪我を気遣うのも大事だけど、ほかにも大事なことって、あるだろ」
言葉を紡ぎながら、鯰尾藤四郎はとあるひとつのことが腑に落ちた。
だから、骨喰藤四郎には言いたくなかったのだ。
いつだってこの兄弟は、鯰尾藤四郎を一番に考えてしまうから。鯰尾藤四郎が怪我をしていると解れば、すぐに撤退させてくれようとするから。
ほかの大事なものを全部、投げ捨ててでも。
「……大事なこと、か」
骨喰藤四郎は静かな声で鯰尾藤四郎の言葉を繰り返した。
「一理ある。考えていなかったから、これからは少し気にする」
「ええー……考えたことなかったの?」
思わず呆れた声を出してしまう。背中から飛んだ非難に骨喰藤四郎はこくりとひとつ頷いて、
「兄弟以外の大事なものなんて、想像したことがなかった」
「…………………………」
鯰尾藤四郎はこの日初めて、負ぶわれている現状を歓迎した。
自らの足で立っていたら、おそらく、その場に崩れ落ちていたことだろう。
──ああ、もう、本当に、この兄弟は。
「馬鹿だなあ……」
「なんだ、いきなり」
あっという間に顔に上った熱を吐き出すついでに憎まれ口を叩いてみると、骨喰藤四郎は少しだけ不機嫌そうな声で返事をした。
「別にー。なんでも」
前田藤四郎が席を外してくれていて、本当に助かった。もしも今のやり取りを弟たちに聞かれていたら、鯰尾藤四郎は死ぬほど顔が熱くなるだけでは済まなかったに違いない。
鯰尾藤四郎は両腕を骨喰藤四郎の首周りにしっかりと回し、彼の首筋に顔を埋めた。それは熟れた林檎のように紅潮した顔を隠すためだったのか、はたまた、骨喰藤四郎により密着したかったからなのかは、自分でもよく解らなかったが。
「……まだ言ってなかったね。心配してくれて、ありがとう」
囁くようにそう言うと、ずっと安定して鯰尾藤四郎を支えていた腕が、そのとき初めて小さく震えた。
多少の気恥ずかしさはあれど、思っていたよりおんぶは悪くない。自分の顔を隠せるし、それと同時に骨喰藤四郎の顔が見えないからこそ、鯰尾藤四郎はいつもより少しだけ素直になれる。
──弟たちの目の前で「お姫様抱っこ」を晒された屈辱は、心と身体、両方を満たす温もりに免じて許してやろう。
そんなことを考えて、鯰尾藤四郎は今一度、抱きしめるように兄弟の首へ回した腕に力を籠めた。