落日は明けていた

骨鯰が江戸城で迷子になる話です。


 ひとの気配が途絶えた一室で、鯰尾藤四郎はおもむろに口を開いた。
「はぐれたね」
「はぐれた」
 骨喰藤四郎が迷わずそれに同意する。
 ふたりは一度顔を見合わせて、それから再び周囲に視線をやった。二対の紫眼が映すのは、四方を囲む金襖。そこに描かれた雄々しい枝ぶりの青松や優美な白鶴の見事さたるや、さながら“この場所”の主が築き守った長き永き泰平の世を誇示するがごとく。
 絢爛なのは襖だけに留まらない。天井も欄間も豪奢な装飾が施され、ふたりが足をつける織り目の揃った畳は絹にも劣らぬ艶を帯びる。
 これらの贅を凝らした造りはすべて、城主の権威を示すもの。
 徳川将軍家の居城、江戸城。
 政府より調査を任ぜられた新たな戦場にて。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は、絶賛迷子になっていた。





「多分、次の出陣は江戸城だぜ」

 太鼓鐘貞宗がそう言ったのは、朝餉の後片づけをしているときのことだった。
 下げられる主の食器を待たずして回されてしまった食洗機の音がしばし辺りを支配する。しばしと言っても、それはおそらくほんの三秒にも満たなかったことだろう。けれども鯰尾藤四郎は太鼓鐘貞宗の言葉を聞いた瞬間、不思議と時が止まったかのように思えたのだ。
 そうして遠くなる世界にしがみつくように、鯰尾藤四郎は意識的に唇を動かした。
「……江戸、城?」
「そう。主の部屋に膳を下げに行ったら堀川の兄ちゃんと話してるのが聞こえてさ」
 太鼓鐘貞宗はジャージの袖を捲り上げ、膳の上の食器を水の張られた桶へと手際よく浸けていく。
「それ、聞いちゃっても良かったのかい?」
「みっちゃんは心配性だなあ。聞いちゃいけないことなら、聞かれないようにしてるさ」
「ごもっとも」
 明るく笑い合う伊達の刀たちの声を聞きながら、鯰尾藤四郎は横目でそっと傍らの兄弟を見やった。
 ──江戸城。
 そこは鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎にとって、決して縁の薄い場所ではない。
 いや、それどころか骨喰藤四郎にしてみれば、鯰尾藤四郎でいう大阪城に当たるような、転換点とも言うべき場所である。
 その名前をいきなり出されて、彼はなにを思うのだろうか。
 果たして骨喰藤四郎は、瞳を大きく見開いて大鍋を洗う手を止めている。凍りついたように身じろぎもしない兄弟へ周囲の──と言っても今、厨にいるのは自分たちを除けば太鼓鐘貞宗と燭台切光忠のふたりだけではあるのだが──関心が向かわぬように、鯰尾藤四郎は再び口を開いた。
「それ、いつの時代とかは」
「んー、そこまでは解らなかった。ほんとにちょろっと聞いただけだからな」
 江戸城っつったら聞き逃せないぜ、と太鼓鐘貞宗は得意げな笑みを浮かべた。
「そうだよねぇ。貞ちゃんは江戸城にいたんだからね」
「おう。亀甲や物吉の兄ちゃんと一緒にな!」
 燭台切光忠の言葉に元気よく頷いてから、太鼓鐘貞宗は栗鼠のように首を傾げた。
「そういや、鯰尾と骨喰の兄ちゃんたちも江戸城にいたよな。あそこは刀が多かったから、あんまり顔を合わせた覚えはないけど」
 好奇心に輝く獅子色の瞳が鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎に向けられる。
 鯰尾藤四郎はわずかに身体を動かして、闊達な短刀の視線からそれとなく骨喰藤四郎を隠しつつ曖昧に笑ってみせた。
「あー、うん、一応ね」
「一応ってなんだよ」
 太鼓鐘貞宗は明るく笑って茶々を入れる。
「それにしても延亭のことといい、時間遡行軍は江戸時代に狙いを定めているのかな」
「どうだろうね。泰平の世が築かれた時代より、その手前の乱世の方が歴史修正のしがいがありそうだけどな。関ヶ原とか、俺、好きだぜ」
 燭台切光忠の言葉を皮切りに、話題は江戸城から流れていく。
 鯰尾藤四郎はほっと息をついた。骨喰藤四郎の横顔を今一度覗き見ると、彼はいつの間にやら普段通りの無表情へと戻っていた。汁の残りがこびりついた大鍋をこする手つきに淀みは無く、動揺も見られない。
 兄弟が狼狽した様子を見せていないことに安堵して、鯰尾藤四郎も自らが洗浄を任された飯炊き釜へと改めて向き直る。

 ──後々になって考えてみると。
 もしかしたらこのときの鯰尾藤四郎は、骨喰藤四郎よりも余程動揺していたのかもしれない。
 きっと、そのせいで見落としてしまったのだろう。

 長い睫毛に隠された骨喰藤四郎の瞳が、なにかを決意するように強い光を宿していたことを。





 ぴちょん、と。
 蛇口から落ちた雫が、すっかり片づけられた流しを打った。
 大鍋や飯炊き釜といった食洗機に入らないような食器類の片づけが済んだことを察したらしい燭台切光忠は、手拭いで自らの両手を拭きながら鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎へ微笑みを向けた。
「鯰尾君、骨喰君、お疲れさま。もう休んでいいよ」
「え、燭台切さんは」
「僕と貞ちゃんはこのまま夕飯の仕込みをするから。また片づけのときのよろしく頼むよ」
 言いつつ、燭台切光忠は小さな相棒の小さな頭を優しく叩く。
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎と顔を見合わせた。目と目で心を通わせて、ふたりは揃って頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼しますね」
 長髪を背中で踊らせながら鯰尾藤四郎が一礼すると、骨喰藤四郎もそれに倣って頭を下げる。
 そして、その顔を上げた瞬間。
 骨喰藤四郎その身を素早く翻し、弾丸のように厨を飛び出した。
「えっ……ちょっ、骨喰!?」
 半瞬遅れて鯰尾藤四郎も厨から顔を出し、ぐんぐん遠ざかる兄弟の背中へ声をかける。しかし彼は止まらない。
「あっ、えっとじゃあ、また後で!」
 目を丸くする伊達の刀たちにそう言い残し、鯰尾藤四郎は慌てて骨喰藤四郎の後を追った。
「──骨喰! 待てよ!」
 後を追いながらもう一度呼びかけてはみるものの、骨喰藤四郎は足を止める様子をまるで見せない。鯰尾藤四郎の声など届いていないかのようだ。
 本丸内を駆け抜けるうちに何振りかの刀剣男士とすれ違う。その中に自分たちの兄である一期一振の姿が無いことに安堵しつつ(ふたり揃って廊下を走り回ったと知れば、あの穏和で厳格な兄はどんな顔をするだろう)、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎についていく。
 途中から、骨喰藤四郎に声をかけるのはやめてしまった。一度声をかけて反応が無ければ、それ以降も骨喰藤四郎に呼びかけを続けるのは体力の無駄に過ぎないことを鯰尾藤四郎はよく知っている。
 いっそ鯰尾藤四郎が派手にこけてみれば振り返ってくれるかもしれないが、そんなことであの兄弟の足を止めてしまうのは憚られた。まさかとは思うがそのまま置いていかれたら三年は立ち直ることができないし。
 鯰尾藤四郎は解っている。骨喰藤四郎がどこへ向かっているのかを。
 ──きっとこの兄弟は、その場所であの人に伝えなければならないことがあるのだろう。
「主」
 はあ、と疾走した名残の息を吐き出して、骨喰藤四郎はとある部屋の中へとそう呼びかけた。
 わずかに遅れて兄弟の背中に置いついた鯰尾藤四郎が審神者の部屋を覗く。部屋にいるのは審神者と近侍の堀川国広。太鼓鐘貞宗が言っていた通りだ。ふたりとも、前触れも無く乱入してきた骨喰藤四郎へ驚愕の眼差しを向けている。
 室内に滲む困惑の空気に気がついているのかいないのか、骨喰藤四郎は続けてこう言った。

「俺を、江戸城へ出陣させてくれ」

 彼の言葉を正面から受け止めた審神者と堀川国広の表情が、更に驚きに満ちたものになる。
 目を瞠ったのは、なにも彼らだけではない。
 鯰尾藤四郎も声を上げられないほどに驚いた。審神者になにかを言うつもりだろうとは思っていたが、まさか出陣を願い出るなんて予想だにしていなかった。それも、あんな勢いで本丸を駆け抜けてまで。
 骨喰藤四郎の言葉の真意が知りたくて、けれども彼の背後に立つ鯰尾藤四郎からはその表情を伺い知ることはできない。その胸中なんて、尚更だ。
 鯰尾藤四郎の胸をもどかしさで焼くのは、焦燥なのか心配なのか。
 その根源はなんであれ。
 気がついたら、鯰尾藤四郎は叫んでいた。
「──行きます! 俺も、江戸城に行きます!」
 目の前の兄弟の肩が大きく震えた。白の髪を揺らして骨喰藤四郎が振り返る。
 鯰尾藤四郎に向けられたその顔はひどく驚いているようで──けれど、どこか安堵しているように、鯰尾藤四郎には見えたのだ。





 そうして鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は江戸城へと赴くこととなった。
 随伴として選ばれたのはソハヤノツルキ、物吉貞宗、宗三左文字、包丁藤四郎の四振り。皆、かつては徳川の刀として江戸城にいた顔ぶれである。江戸城への出陣と聞いて宗三左文字はわずかに、包丁藤四郎ははっきりと顔を強張らせたが、審神者に異議を唱えるようなことはしなかった。
 主はなにを考えているんでしょうね。今さら、慣れたことではありますが。江戸城下を進軍している際に、宗三左文字は諦観のため息をつきながらそう言った。彼が部隊に選ばれたのは骨喰藤四郎と同じく明暦の大火で焼失した刀だからなのかもしれない、と鯰尾藤四郎は心の片隅で宗三左文字の愚痴に返答をした。もし本当にそうであるなら、骨喰藤四郎の出陣に宗三左文字や包丁藤四郎を巻き込んでしまったことになるのだろう。わずかな罪悪感に胸をつかれた鯰尾藤四郎はきちんと経緯を説明するべきか逡巡したが、「骨喰が江戸城に出陣したかったようだ」と言葉にするのはなんだか嫌で、結局、口にできたのは「いつものことですからね」などという当たり障りの無い相槌だけだった。
 その骨喰藤四郎はというと、ひとまず普段通りに出陣しているように見えた。強いて違いを挙げるとすれば、いつもより戦場を──周囲を見渡す回数が多いことくらいだろうか。その紫眼が映した景色に彼はなにを思うのだろうか。かつてその身が焼かれた場所を前にして、骨喰藤四郎が変に思いつめていやしないかとひどく気がかりではあるものの(もっとも、鯰尾藤四郎に近しい刀たちが彼の美しきも愚かしき憂慮を知れば皆が口を揃えて「お前が言うな」と唱えるに違いない)、とても皆の前で投げかけられる問いではなくて、鯰尾藤四郎はさながら愛しい我が子の初陣を見守る母のように骨喰藤四郎の姿をじっと見守るのみであった。
 様々な覚悟を背負って出向いた江戸城ではあったが、実のところ出現する敵はそれほど手強くないものばかりである。この中では練度が最も低い包丁藤四郎でもこれといった苦戦をすることなく、部隊は城下を過ぎ、城門をくぐり、城内へと侵入した。
 江戸城内は広大且つ似たような部屋がいくつもいくつも続くという大層解りにくい造りとなっていたが、江戸城を知り尽くした徳川の刀たちの先導もあり、部隊は順風満帆という他ない足取りで進軍していく。
 そんな中で、しかし事件は起こった。
 江戸城に出現する時間遡行軍の苦無兵。
 あの敵は、審神者に集めてくるよう命じられた「鍵」を必ず複数落とす上、赤子の手を捻るよりも容易く倒すことができる、謂わば葱を背負った鴨のような存在であった。より簡素に言えば鴨葱である。美味しい存在である。延亭の時代では痛い目に遭わされ続ける刀剣男士の士気の上がるまいことか。
 その殺る気を感じたのか、他に理由があったのかは知る由も無いが──幾度目かに出会ったふた振りの苦無は、刀剣男士が室内に飛び込むや否や即座に二手に分かれて逃げ出した。
 素早く反応した包丁藤四郎が銃兵を操り、うち一方は見事に討ち取ったが、もう一方は既にいくつもの襖を抜けた後。通常の時間遡行軍ならいざ知らず、苦無を見逃してやる義理などない。鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は「後を追う」と部隊の仲間に言い置いて、逃げる苦無を追いかけた。
 前の部屋に後ろの部屋に左の部屋に右の部屋に、めちゃくちゃに逃げ回る苦無をようやく仕留めて振り返ったそのとき。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は、自分たちがどこから来たのか解らなくなっていた。
 そして話は冒頭へと至る。



「……迂闊だったかな」
 敵兵を仕留めたことで手に入れた鍵を指先で弄びながら鯰尾藤四郎が呟くと、骨喰藤四郎は緩く首を振った。
「取り逃すわけにもいかなかった」
「まあそうなんだけど」
「それで、どうする」
「んー……」
 端的に問いを投げかけられて、鯰尾藤四郎は頭を掻いた。
「辺りの部屋を覗いてみて、皆がいそうだったら進む。だめそうだったら留まる、っていうのでどう?」
「それでいい」
 骨喰藤四郎は言葉と共に頷いた。
 ふたりはまず左手の閉め切られた金襖に顔を寄せ、耳をそば立てる。隣室からは物音ひとつしない。時間遡行軍がいる様子はない。が、仲間の気配も感じられなかった。ふたりは視線を交わして頷くと、次に右手の金襖へと向かい、同じようにして室内の様子を探る。
 そうして辺りの様子を伺ってみるものの、結局、どこも空振りで終わってしまう。
「だめだね」
「だめだ」
 こうなると迂闊に移動しない方が賢明だろう。
 無論、鯰尾藤四郎もまたかつては江戸城にいた刀のひと振りではあるのだが、その内部はあまり記憶していなかった。ソハヤノツルキや物吉貞宗のように城主に佩刀されなかったことや、宗三左文字や包丁藤四郎ほど長期間江戸城に保管されていなかったせいもあるのだろう。
 鯰尾藤四郎は潔く諦めて、その場に腰を下ろした。
 近くに敵の気配は感じられない。油断はできないが、臨戦態勢を維持する必要もなかった。
「まあ、今回の部隊はソハヤさんがいるから大丈夫だよ。あのひと……っていうか三池派のひとって霊力の察知ができるみたいだから」
「そうか」
 適当な相槌を打ちながら骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎の傍らに座りこむ。
 鯰尾藤四郎はその姿を視界の端で捉えながら、片膝を立てて後頭部を背後の金襖に預けた。知らぬうちに、軽いため息が唇から漏れる。
 なんとなく──落ち着かなかった。四方を絢爛たる金襖に囲まれて、視界はいっそ賑やか過ぎるくらいなのにふたりぼっちの空間は薄ら寒いほど静かである。その奇妙でちぐはぐとした空間が鯰尾藤四郎の胸中を波立たせているのだろうか。
 そんなわけないか。鯰尾藤四郎は自らの考えをすぐに否定した。
 鯰尾藤四郎の気がそぞろな理由など決まっている。
 江戸城への出陣を願った骨喰藤四郎の真意を知りたいからだ。
 俺を、江戸城へ出陣させてくれ。そう告げた時の骨喰藤四郎の声が耳に蘇る。あのときの兄弟の声は常と違った。普段の骨喰藤四郎の声は、硝子で造られた鈴を思わせるように凛と澄んでいる。鯰尾藤四郎は温かくもなければ冷たくもない、けれどどこか心地よい、そんな彼の声の温度が好きだった。
 けれどあのときは。審神者に出陣を申し出たときは。
 まっすぐで揺らぎの無い──そして確かな熱の籠った、そんな声音だった。
 そのときの骨喰藤四郎の様子を思い出しながら、鯰尾藤四郎は立てていた膝を下ろすと胡坐へと姿勢を変える。
 あんな声で直談判をするほど、骨喰藤四郎はこの場所へ来たかったのだ。かつて、自分が焼失したこの場所へ。
 もしかしたら──この兄弟は、まだ胸の裡に炎への恐怖を抱えているのではないか。鯰尾藤四郎の胸中にはそんな懸念が芽生えている。
 そのことを骨喰藤四郎に尋ねたくて、しかしどうにも切欠が掴めない。今ならばふたりきりなのだし、聞くには良い機会だと思うのだがなんと切り出せばいいのだろうか。鯰尾藤四郎は下ろしていた両腕を悩ませる頭の後ろに回す。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎はこの本丸で、ずっと同じ時を重ねてきた。
 その中で、ふたりとも記憶喪失に対する恐怖は乗り越えたと思っていた。そのつもりだった。少なくとも鯰尾藤四郎はそうだった。
 けれど、骨喰藤四郎は違ったら。本当はまだ炎に恐怖していたら。
 そう思ったら、鯰尾藤四郎はいてもたってもいられなかった。この大切な兄弟が苦しんでいるかもしれない。そんな可能性を、はいそうですか、と流せるわけがなかった。
 とはいえ、である。仮にそうだったとしても、この今いち情緒に欠けた兄弟が自らの心の機微に気がついている保証は無い。江戸城へ出陣を願い出た理由を問いかけたところで「なんとなく」などとのたまう可能性もある。大いにある。その様が想像に容易くて、鯰尾藤四郎はこっそり苦笑した。
 それでも、彼が辛い思いをしているかもしれないそのときに、そばにいてやれないのは嫌だったから。
 ──だから鯰尾藤四郎は、ここにいる。
「不安か」
 不意に傍らの骨喰藤四郎がそう囁いた。鯰尾藤四郎は組み換えかけた足を止め、丸くした瞳で兄弟の顔を見つめる。
「そういうわけじゃないけど。俺、骨喰と一緒ならどこだって怖くないよ」
「そうか。俺もだ」
 鯰尾藤四郎が臆面もなく言い放つと、骨喰藤四郎は当然のようにその言葉を受け止めた。
「なら、どうしてだ」
「なにが?」
「落ち着きがない」
「……」
 先ほどから鯰尾藤四郎が頻繁に姿勢を変えていたことに気がついていたらしい。まっすぐにこちらを見据える骨喰藤四郎の瞳は、鯰尾藤四郎の不安を知るまでは──鯰尾藤四郎の心に触れるまでは、絶対に譲らないと強く強く訴えかけていた。
 どうして俺の方が心配されているんだろう。そう思うと、鯰尾藤四郎は少し可笑しかった。
 結局骨喰藤四郎も鯰尾藤四郎と同じなのだ。お互いにお互いのことを案じている。お互いにお互いの胸の奥に触れたい。
 どうしたって──お互いに、愛しい兄弟のすべてを知っていたい。
 そのことを実感して、鯰尾藤四郎はようやく兄弟の心に踏みいる切欠を掴んだ気がした。
「俺、知りたいんだ」
 鯰尾藤四郎は畳の上に投げ出されていた兄弟の左手に、自らの右手を重ねた。
「どうして、骨喰がこの場所に来ようと思ったのかを」
 静謐に。厳かに。
 祈りのごとく紡がれた言葉に、骨喰藤四郎はその瞳を見開いた。






 すぱん、と音を立てて勢いよく襖が開かれる。無人の室内に、次いで響いたのは舌を打つ音。
「……駄目だ、鍵だな」
 ソハヤノツルキは大股で室内に入り込むと、畳の上に転がった小さな鍵を拾い上げた。太刀の大きな背中を追って、物吉貞宗と包丁藤四郎がその後に続く。最後に部屋へと足を踏み入れた宗三左文字は緩やかな動作で探し人のいない部屋を見渡した。白百合のごとき細首にかかる長髪が、動きに合わせてはらりと揺れる。
「……また空振りですか。さっさとふたりを見つけてくださいよ」
「お前……自分の仕事じゃないと思って……」
 ため息混じりにソハヤノツルキを見やれば、彼は思い切り顔をしかめた。
「簡単に言ってくれるがな。ここ、霊力の気配が多すぎるんだよ」
 拾った鍵を部隊長の包丁藤四郎へと投げ渡し、ソハヤノツルキは不機嫌にそう主張する。
 霊刀として名高い大典太光世と同じ刀派に名を連ねるソハヤノツルキは、その霊力の高さ故か他の刀剣男士よりも周囲の霊力に対して敏感だった。時間遡行軍や仲間の霊力のみならず、この江戸城においては鍵の霊力すらも見事に察知してみせる。しかし今は、それが却ってはぐれた鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎の捜索の障害となっているらしい。
 江戸城内で至る所に発生している霊力ひとつひとつに気を配っているせいか、ソハヤノツルキの赫い瞳にはわずかに疲れが見えていた。宗三左文字は色の異なる双眸をそっと伏せ、
「苦労は察します。けれど貴方にしかできないことですから」
「……わかってるよ」
 ソハヤノツルキは仏頂面のまま不承不承に頷いた。拗ねたように顔を背ける仕草は、外見とは裏腹にどこか子どもじみて見える。
 宗三左文字はひとつため息をついて、室内を忙しなく動き回る物吉貞宗へと視線を向けた。他の刀相手であれば、頑張ってください、などと激励のひとつでも飛ばすに違いない物吉貞宗は、しかし今は辺りの様子を探るのみ。すぐ横で繰り広げられた宗三左文字とソハヤノツルキの会話が聞こえていないわけもない。ソハヤノツルキであればきっと友人たちを見つけてくれる、と信じているのだろう。さもそれが自然で、当然だとでも言わんばかりに。
 それに気がついているのかいないのか、ソハヤノツルキは物吉貞宗を振り返った。
「物吉、様子はどうだ」
「んーと」
 物吉貞宗はぴったり耳をつけていた金襖から顔を離し、
「東の方向ならとりあえず敵の気配は感じられません。北はだめですね」
「西はどう?」
「調べてみます!」
 包丁藤四郎の問いかけに元気よく応えて立ち上がり、物吉貞宗は靴紐を揺らして西側の襖へ駆け寄った。襖の前で腰を落とし、片膝を立てた姿勢を取るとそのまま顔を近付ける。こういった索敵作業は、高い偵察と隠蔽を誇る脇差の得意分野だ。下手に手を出すよりも、このまま任せてしまう方が良いだろう。
「……兄さんたち、だいじょうぶかな」
 物吉貞宗の索敵作業が終わるのを待つ間、不意に包丁藤四郎が呟いた。宗三左文字とソハヤノツルキは揃って藤四郎の短刀へと視線を落とす。肩かけ鞄の紐を強く握りしめる包丁藤四郎は、らしくもなく不安げに瞳を揺らしていた。
 普段から見た目通りの童しい振舞いを見せるせいか、包丁藤四郎が沈痛な面持ちを浮かべる姿はまるで、そのまま幼子が消沈しているような痛ましさがあった。宗三左文字にとってもそれは同じで、無意識のうちに眉を顰めてしまう。
 包丁藤四郎が気がかりに顔を曇らせるのは、場所のせいもあるだろう。この江戸城は、他ならぬ包丁藤四郎と骨喰藤四郎がその身を焼かれた場所だ。
 そしてそれは、宗三左文字も。
「……まあ、あのふたりなら心配はいらないでしょう。幸いにも敵は強くありませんし」
 包丁藤四郎の抱えた不安の本質を悟りながらも、宗三左文字は敢えてそう告げる。ソハヤノツルキも軽く笑みを浮かべ、包丁藤四郎の頭に大きな手のひらを乗せた。
「宗三の言う通りだぜ。あいつらは練度も限界値なんだろ? お前がそんな顔する必要はねえよ」
「もー、俺が心配してるのはそういうことじゃないよっ」
 わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でられながら、包丁藤四郎は駄々をこねるように握り拳を上下に振った。
「あと、撫でるならもっと人妻みたいに優しく撫でて欲しい! 俺、犬猫じゃないんだから!」
 口ではそう言いつつも、包丁藤四郎はソハヤノツルキの手を振りほどく様子は見せない。宗三左文字は口元を白魚のような指先で覆いながら、信じられないものを見る目で包丁藤四郎を見下ろした。
「貴方、このひとに人妻みたいな手つきで撫でて欲しいんですか? 変わった趣味ですね」
「……俺、ソハヤの撫で方は今のままが一番良いと思うぞ」
「おまえらな」
 ソハヤノツルキの抗議の声を聞き流し、宗三左文字は視線を動かした。索敵作業をしているはずの物吉貞宗を見やると、彼は金襖の前で片膝をついた姿勢のままにこにこと上機嫌な微笑みを宗三左文字らへと向けている。
「なにをにやにやしているんですか」
「え? えへへ」
 眉を顰めて問いかけれども、物吉貞宗はその笑みを一層深くするばかり。
 幸せで仕方ない、とでも言いたげな笑顔を向けられて宗三左文字は浅く息をついた。どうにも物吉貞宗の笑顔は座りが悪いというか、くすぐったいような心地になる。
「あ、物吉、偵察終わった?」
「はい。こっちも敵の気配がします。安全なのは東ですね。どうします?」
 包丁藤四郎は物吉貞宗を見つめていた胡桃色の瞳を、今度は傍らのソハヤノツルキへと移し、
「ねえソハヤ、兄さんたちは……」
「確たる霊力は掴めていないが、南東にそれらしき霊力がふたつ固まっているのは感じるな」
 もちろん敵や鍵の可能性もあるがな、とソハヤノツルキはどこか皮肉めいた笑みを浮かべてみせる。
 包丁藤四郎はううんと唸ってから、東の襖を指差した。
「とりあえず東に行こ。人数欠けてるから、あんまり戦いたくないし」
「そうですね。ボクもそれが良いと思います!」
 輝く笑顔で大きく頷いた物吉貞宗は、持ち前の溌剌さを発揮して勢いよく立ち上がろうとし──自らのブーツの紐を踏んづける。
「あ」
 ぐらり、と物吉貞宗の身体が大きく傾いだ。勢いよく立ち上がろうとしていた余勢そのまま細い体躯が勢いよく倒れ込んでいく。
 ──西側の襖へと。
 めりめりばったーん、と賑やか極まりない音が江戸城内にこだまする。
 徳川将軍家の権力と威光を表すがごとく華やかなりし金色の襖も、畳の上に投げ出されては最早ただの薄い板きれでしかない。宗三左文字、ソハヤノツルキ、包丁藤四郎は一部の狂いなく揃った動きで襖ごと床に倒れ込んだ物吉貞宗に視線を落とし、それから今度はすっかり開け放たれた西の部屋へと顔を上げる。
 その部屋で、抜き身の鋼を携えるのは六振りの時間遡行軍。
 彼らの目──そこに眼球が存在しないのはともかくとして──がぴたりとこちらに据えられる。
 目、合っちゃいました。
 ええ、ばっちりです。
 敵も味方も関係なしに世界が凍りつく中。
 包丁藤四郎は大きく息を吸い込んで。
 そして、叫ぶ。
「なんで!?」
 そう叫んだのは包丁藤四郎のみであったが、宗三左文字はもちろんのこと、ソハヤノツルキも同じ想いを抱えていたことだろう。
「ねえ、なんで!? 物吉、脇差じゃんか! なんでそういうことしちゃうんだよー!」
「このひとの隠蔽に期待するだけ無駄ですよ」
 喚く包丁藤四郎の横で宗三左文字はため息混じりに言葉を漏らす。果たして隠蔽の問題であるかは甚だ疑問ではあったが。
「お前ら、ごちゃごちゃ喋ってる場合か! 来るぞ!」
 部隊の面々へと警告を飛ばしながら、いち早く動いたのはソハヤノツルキだった。よりにもよって敵の眼前でわたわたしながら身体を起こそうとしている物吉貞宗の背後に一足で近づくやいなや、ソハヤノツルキは彼の襟首を掴み上げるとそのまま背後へ投げ飛ばす。太刀の腕力で投げられた脇差の痩躯はものの見事に宙を舞い、宗三左文字の足元へと落下した。
 宗三左文字は、今度は背中から畳の上へと転がった物吉貞宗に一瞥を送り、
「……大丈夫ですか。色んな意味で」
「な……なんとか」
 じゃっかん目を回しながらも物吉貞宗は頷いてみせる。
 物吉貞宗を些か乱暴な手段で窮地から救ったソハヤノツルキは既に抜刀し、その鈍く光る白銀の切っ先を西の部屋へと向けている。彼の警告通り、その部屋ではこちらよりも一寸早く態勢を立て直した時間遡行軍が既にこちらとの距離をつめ始めていた。
 襲いかかる六つの影を見渡して、宗三左文字は本日幾度目かの気だるいため息をつく。
「物吉。この戦闘が終わったら貴方のおでこを弾きます。ソハヤノツルキが」
「ええっ!」
「なんで俺なんだよ!」
 足下と正面、二カ所から同時に抗議の声が飛ぶ。
 襲いかかる時間遡行軍を居合い切りの要領で抜刀と共に斬り伏せて、宗三左文字はこともなげに言った。
「決まっているでしょう。一番打撃が高いから、ですよ」






 俺、知りたいんだ。
 どうして、骨喰がこの場所に来ようと思ったのかを。

 自分が投げかけた言葉が耳の奥に反響する。骨喰藤四郎と手のひらを結ぶ自分の指が、心なしか震えているような気がした。
 それはすべて、骨喰藤四郎が驚愕に瞳を見開いているからに他ならない。
 もしや聞いてはいけないことではなかったのか。鯰尾藤四郎が骨喰藤四郎の心の軟らかいところまで本当に踏み込んで良かったのだろうか。今さら、そんな迷いが鯰尾藤四郎の心に滲みだす。
 しかしいくら迷えども、放たれた矢が二度と戻らないように紡いだ言の葉は二度と喉の奥には仕舞えない。結局鯰尾藤四郎にできるのは、骨喰藤四郎の応えを聞くだけだ。それがどんな形であったとしても。
 そうして彼の言葉を待つうちに。
 骨喰藤四郎は、ようやく唇を動かして、
「……驚いた」
 と、言葉を漏らした。
 見開いていた瞳を今度は一転してぱちぱちと瞬かせ、骨喰藤四郎はわずかに首を傾ける。
「聞かれると思わなかった」
「だって知りたいから。骨喰のことはぜんぶ」
 素直な想いを伝えると、骨喰藤四郎はほんの少しだけ笑ったように見えた。鯰尾藤四郎と結んだ手のひらはそのままに、彼は何処とも知れぬ虚空へと視線を向ける。兄弟の瞳の奥に鎮まった、しかし金剛石のように堅く眩い決意の光を見いだして、鯰尾藤四郎の右手に自然と力が籠る。
 骨喰藤四郎はどこか遠くを眼差しながら、
「行かなければならないと思った」
「それは……」
 ──過去のことを知るために?
 ──それとも、過去と決着するために?
 鯰尾藤四郎が問いを重ねるその前に、骨喰藤四郎は再び鯰尾藤四郎へとかんばせを向ける。燦然たる決意を宿した煌めく紫眼に正面から射抜かれて、鯰尾藤四郎は頭の一部が酩酊するような心地がした。きっと、この兄弟の瞳より美しいものなんて存在しない。子どものように純真に、そんなことを思った。
 骨喰藤四郎の人差し指が、す、と鯰尾藤四郎へ突きつけられる。
「鯰尾は」
 名前を呼ばれて、鯰尾藤四郎の心臓がどきりと跳ねた。ただでさえ緊張から速度を増していた鼓動が、より強く速いものへとなっていく。
 骨喰藤四郎はまっすぐに鯰尾藤四郎を見つめて、告げた。
「よく大阪城へ出陣していた。なら、俺も江戸城へ行くべきだ」
「……………………へ?」
 予想外の返答に、鯰尾藤四郎は気の抜けた声をあげる。
「……なんで俺が大阪城に行くと骨喰が江戸城へ行くわけ?」
「不公平だから」
 不公平だからだそうです。
 確かに鯰尾藤四郎はしょっちゅう大阪城へ──すなわち、自らが炎に巻かれ記憶を奪われた場所へ出陣していた。それは認めよう。とはいえ初回はいざ知らず、もはや何回も何階も何十回も何十階も大阪城に降りて小判を集めてきた鯰尾藤四郎にしてみれば、大阪城へ行くことに今更さしたる恐怖も感慨も抱くことはない。近いうちに改装をしてエレベーターが取り付けられるかもしれない、という噂を小耳に挟んだときは、在りし日の威風からどんどん遠ざかっていくかつての住処を想ってちょっぴり涙が出そうになったが。
 それはともかく。鯰尾藤四郎はかくん、と首を横に倒した。
「そんな……理由?」
「他にあるのか?」
「……えーっと」
 無垢な瞳で問い返されて、鯰尾藤四郎は返答に詰まる。
 もしや彼の言葉は虚勢に過ぎず、本当はその胸の奥に恐怖を抱え込んでいるのではないか。そんな考えが鯰尾藤四郎の脳裏をよぎったが、こちらを見つめる骨喰藤四郎の表情は隠し事の気配を微塵も感じさせない。
 鯰尾藤四郎はしばし視線を宙に泳がせた後、
「どうだろ」
 と、言葉を濁す。
 鯰尾藤四郎の歯切れの悪い反応になにを思ったか、骨喰藤四郎はわずかに顔を曇らせた。
「……その。付き合わせて、すまない」
「あっ、ううん。別にそういうわけじゃ」
 鯰尾藤四郎は慌てて首を横に振り、それから口元を優しく綻ばせた。
「嬉しいよ。一緒に来られて」
 安心させるように骨喰藤四郎の頭を撫でてやると、彼は心地よさそうに瞳を細めた。大人しく頭を撫でられる骨喰藤四郎の姿は、髪の白さも相まって、五虎退の連れる虎が寛ぐときの姿にどことなく似ている。そう思うと、鯰尾藤四郎にはこの兄弟がより一層愛おしく感じられた。
 良かった。鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に触れる手を休めぬまま、胸中で安堵のため息をついた。
 この愛しい兄弟が心を痛ませていなくて本当に良かった。その事実を知ることができて良かった。不幸中の幸いと言うべきか、部隊からはぐれてふたりきりにならなければ彼の想いを知ることはなかったかもしれない。
 そう、ふたりきりでなければ──。
 鯰尾藤四郎は、骨喰藤四郎の柔らかな白髪を撫でる手をぴたりと止めた。

 ──ふたりきり?

 ぶわ、と。
 鯰尾藤四郎は自らの顔へ一気に血が上るのを感じた。
「……鯰尾?」
「あ、あはははははははははははははははは」
 怪訝そうに名を呼ぶ骨喰藤四郎の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわして、鯰尾藤四郎は明後日の方向へ勢いよく顔を逸らす。兄弟と繋いでいた右手を自らの頬へ添えると、予想通りとんでもなく熱くなっていた。
 ──いや。その。なんというか。
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎から顔を逸らしつつ、誰にともなくひとりごちた。
 ふたりきりという事実を改めて認識してしまうと。
 いちゃいちゃしたい。ものすごくいちゃいちゃしたい。
 そもそも本丸という生活環境だと、どうしてもふたりきりになる機会というのは限られる。昼間はもちろんのこと夜中に人目を盗んでちょっと逢引、などということも難しい(夜中に本丸内を出歩く刀剣男士も少なからず存在するし、なによりも、骨喰藤四郎は恐ろしいほど夜更かしが苦手なのだ)。公然とふたりきりになれる機会は精々が遠征時のみなのだが、そうは言っても遠征も大事な任務のひとつである。仕事である。日常生活においてはふざけることも多い鯰尾藤四郎だが、審神者から与えられた任務に対しては真摯に取り組んでいるつもりだ。その真面目さときたら以前骨喰藤四郎に、兄弟はどうして出陣中は真面目なのに主の前ではあっぱらぱーなんだ、と聞かれたほどである。ちなみにその質問には、どこでそんな言葉を覚えたんだよ、と返しておいた。
 閑話休題。今この瞬間も出陣任務の真っ最中ではあるわけだが──ましてや敵地のど真ん中なわけだが──如何せんじゃっかん良い雰囲気になってしまったばかりに、どうにも邪な考えが浮かんでしまう。
 鯰尾藤四郎は傍らの兄弟から視線と意識を逸らそうと努め続ける。こういうときはあれだ。そう、徳川歴代将軍を暗唱すればいいのだ。いつだったか物吉貞宗が、落ち着きたいときはそうするのが一番です、ボクもよくそうしています、と朝露を浴びた薄雪草のごとき清らかな笑顔で言っていた。お誂え向きに、今鯰尾藤四郎が腰を落ち着ける場所は他でもない江戸城である。ありがとう物吉、本丸に帰ったら今日のおやつを分けてやる。白い友人を思い描いて礼を述べ、鯰尾藤四郎は目を伏せた。よういどんー、と胸中でひとり開始の合図を告げる。
「家康、秀忠、家光……ええっと」
「どうした」
「ひいいいいいいいいいい!?」
 不意に横から腕をつつかれて、鯰尾藤四郎は悲鳴を上げた。
「な、ななななんだよっ」
 動揺しながら骨喰藤四郎を振り返ると、彼は珍しくもひどく困惑した表情を浮かべていた。
「……急に将軍の名前を唱え始めた」
「いやだって江戸城だし」
 江戸城なら仕方ない。
 そう納得してくれたら幸いだったのだが、骨喰藤四郎は半眼になってこちらを睥睨した。
「……またなにか変なことを考えているだろう」
「か、考えてない、よ」
「嘘だ。兄弟の反応がうるさいときは」
 言いながら、ずい、と半眼の骨喰藤四郎が顔を寄せてくる。鯰尾藤四郎は反射的に、近づかれた分だけ身を引いた。
「ひとりでおかしなことを考えているときだ」
「考えてない」
 その通りですめちゃくちゃ考えまくってます、などと言えるはずもなく、鯰尾藤四郎は強い口調で断言し、再び顔を背けてみせる。
 そうして会話をするつもりがないことを態度に出してはみるものの、背けた顔に骨喰藤四郎の視線が突き刺さるのをひしひしと感じる。目は口ほどに物を言う、などという格言がこの世には存在するが、この兄弟に限って言えば、目は口よりも物を言う、が正しい。口数が少ないことを差し引いても、きっと三倍くらい物を言っている。
「……」
「……」
 しばしの間、ふたりはお互いに沈黙を守り続けた。
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎からの視線に耐え続け、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎へ視線を送り続け。
「………………いや、だからぁ」
 結局、根負けして口を開いたのは鯰尾藤四郎だった。どうしてもこの兄弟の瞳の前には屈してしまう。
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に向き直り、目元をわずかに赤く染めながらぼそぼそと言葉を漏らした。
「今、ふたりっきり、だろ。なんていうか……ちょっといちゃいちゃしたいな、とか、思ったり」
「……いちゃいちゃ」
「復唱すんな」
 いまいちぴんと来てなさそうな骨喰藤四郎の頭に、ずびしと手刀を振り下ろす。
 こうなれば自棄である。鯰尾藤四郎は羞恥心を胸の奥へと仕舞いこみ、すうと大きく息を吸った。
「つまり。骨喰と、くっついたりしたい」
 告白に、目の前の兄弟は先ほどよりももっと瞳を見開いた。
 しばし鯰尾藤四郎の言葉を咀嚼し、嚥下するかのような間を置いて。
 骨喰藤四郎は、顔色ひとつ変えぬまま両腕を広げた。
「──来い」
「うわすごい偉そう!」
 思わず叫んでしまう。
「……来ないのか?」
 兄弟が望むようにしたのに。そうとでも言いたげに、骨喰藤四郎は小首を傾げた。本気で、心の底から、自らの振舞いが正しいと信じているらしい兄弟の様子に鯰尾藤四郎は絶句した。
 ──ああ、まったく、これだから。
 鯰尾藤四郎は八百万の文句と突っ込みの言葉を呑みこんで、代わりにぶんぶんと首を横に振った。
「……行くよっ」
 行くに決まっている。ちょっとの敗北感と多めの羞恥心といっぱいの幸福を胸中に抱きながら、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の腕の中へと飛び込んだ。
 抱き合いながらも、顔を合わせるのはやはりどこか気恥かしくて鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の肩に顔を埋めた。それでも両腕は離れがたき兄弟の背中へとしっかり回しておく。見た目通り華奢な肉体をぎゅうと強く抱きしめると、応えるように骨喰藤四郎も鯰尾藤四郎の身体に回す腕へ力を込めた。
 共有する体温に、伝わる鼓動に、肺を満たす兄弟の香りに、鯰尾藤四郎はひどく安らいだ。骨喰藤四郎に触れているだけで、自分は世界で一番幸せなやつだと根拠もなく思えてしまう。そしてそれは、今このときも。
 そうして甘い幸福を享受していると、腕の中の骨喰藤四郎がわずかに身じろいだ。
 なにかあったのだろうか。芽生えた疑問を口にする前に。
 ──鯰尾藤四郎の耳を、濡れた感触が襲った。
「っぎゃあああああああああああ!!」
 瞬間、鯰尾藤四郎は弾かれたように飛び上がり、骨喰藤四郎の腕から逃げ出した。
 畳の上に立ち上がり、座り込んだままの骨喰藤四郎に向かってびしりと指をつきつけて、
「なめた!」
 とりあえず叫ぶ。
「耳、舐めた!」
「そこに耳があるから」
「名言っぽく言うなぁ!」
 真っ赤な顔で声を張り上げて、不埒な舌に這われた耳を手のひらで覆い隠す。
 怒りと羞恥にわなわなと唇を震わせていた鯰尾藤四郎は、しかしすぐに脱力して深く深く息を吐き出した。頭痛を堪えるかのようにこめかみを押さえ、じろりと骨喰藤四郎を睥睨する。
「……っていうか。本当の本当に、平気なんだ」
「なにがだ」
「江戸城のことだよ! 俺、ずーっと心配してたんだからな!」
 そう。そうなのだ。
 骨喰藤四郎の振舞いは、普段の戦場どころか本丸におけるそれともほとんど変わらない。とても江戸城に──かつてその身を焼かれ、記憶のすべてを失った場所に対して恐怖はおろか感慨すらも抱いているようには見えなかった。目に見えぬ胸中を比べることなどできないが、まだ鯰尾藤四郎の方が今なお大阪城に対して思うところがあるのではないか。そんな疑念を抱くほどに、骨喰藤四郎は相も変わらぬ無表情だ。その紫眼には最早鯰尾藤四郎の姿しか映されていない。
 結局──鯰尾藤四郎のここまでの煩悶は、正しく杞憂以外の何物でもなかったわけである。
 鯰尾藤四郎はわざとらしく深いため息をついて、ありもしない小石を蹴飛ばす仕草をしてみせる。
「不公平だからとか言ってたけど、本心は怖いんじゃないかなーとか、不安じゃないかなーとか心配してやってたのに。あーあ、損したー」
「俺は嘘をつかない」
「知ってるよ」
 きっぱりと言い切る骨喰藤四郎から、ぷい、と不機嫌に顔を背ける。
「兄弟はいつも考えすぎる」
 顔を背けた先から衣擦れの音がした。骨喰藤四郎が立ち上がり、こちらへ歩み寄る気配がする。
「知ってるよ。どうせ後ろ向きまっしぐらだよ」
「そうだな。だが」
 声と共に、骨喰藤四郎の手のひらが鯰尾藤四郎の頬に伸ばされた。手袋に包まれた指先に輪郭を撫でられて、仏頂面のまま鯰尾藤四郎は兄弟を振り返る。同じ高さに、違う色の睫毛で縁取られた同じ色の瞳があった。
 骨喰藤四郎は揃いの紫眼を優しく細めた。
「──心配してくれたのは、嬉しい」
 ああ、ずるいなあ、と。
 鯰尾藤四郎は、ぎゅうと心臓が締め付けられるような心地になりながら、そんなことを思った。
 そんな顔で微笑うなんて。そんなことを言うなんて。
 鯰尾藤四郎まで嬉しくなってしまう。子どもじみた怒りなんてどこかへ行ってしまう。
 彼のことを好きだという、たったひとつの幸福な感情だけに心が塗り替えられてしまう。
「……それも、知ってるよ」
 骨喰藤四郎の頬に鯰尾藤四郎も手を添える。甘えるように、骨喰藤四郎がその指先に頬をすり寄せた。骨喰、と兄弟の名前を呼ぶ。口に出来たのかは解らなかった。心臓の音がうるさくて、世界の音はとっくに途絶えていたから。
 けれど、骨喰藤四郎が一度瞳を瞬かせたこと。それが返事なのだと鯰尾藤四郎は理解した。
 顔を近付けたのは、どちらからだったのだろうか。
 ふたりは自然と瞳を閉じながら、互いの距離を近付けて。
 そして。

「見っつけましたぁー!」

 すっぱーん、と音を立てて勢いよく襖が開かれる。鯰尾藤四郎は膝からその場へ崩れ落ちた。
 歓声と共に襖を開いた張本人──物吉貞宗は足取り軽く入室し、にこにこ笑顔で手を振った。
「ようやく合流できましたね。安心しました! ……で、鯰尾はどうして骨喰に土下座をしているんですか?」
「……うるっさい」
 地べたに平伏しながら、鯰尾藤四郎は地の底から響くような低い声を絞り出す。
 そんな兄弟の様子を気にする素振りもなく、骨喰藤四郎は順に入室する部隊の面々を振り返り、
「無事だったか」
「それはこっちの台詞ですよ。怪我はありませんか?」
「心配したんだからなー!」
「悪かった。今日のおやつは包丁にやる」
「そういう問題じゃないよ。おやつは貰うけど!」
「貰うのかよ」
 頬を膨らませる包丁藤四郎の横でソハヤノツルキが苦笑する。
 宗三左文字は骨喰藤四郎の頭のてっぺんからつま先を見渡して──ついでに未だ四つ足をついたままの鯰尾藤四郎にも一瞥を送り──確かに怪我の様子が無いことを確認すると浅く息を漏らした。
「……で、結局、苦無は倒せたんですか?」
「倒した。鍵も手に入れた」
「そうですか。それはお疲れさまでした」
「あ、鍵、俺にちょーだい」
 何事も無かったかのように繰り広げられる仲間たちの和やかな会話を聞きながら、ただひとり鯰尾藤四郎は立ち上がることができずにいた。
 突然の仲間たちの登場は、多大なる衝撃を鯰尾藤四郎に与えた。それこそ立ち上がれないほどに。邪魔をされたことに怒るべきか、直前に乱入されたことに安堵するべきかよく解らない。頭のどこか冷静な部分は、いやそれよりも仲間の無事を喜ぶべきだと主張する。一方で頭のどこか勝手な部分は、自分が膝をつくほど動揺したというのに平然と仲間と言葉を交わす骨喰藤四郎もちょっぴり気にくわないと声を上げる。とにかく色んな感情がない混ぜになって、鯰尾藤四郎は混乱しきりであった。
 そうしてぐるぐる回る鯰尾藤四郎の視界に、不意に白く華奢な腕が割り込んだ。反射的に視線を上らせると、金襖を背景に背負った物吉貞宗の柔和な微笑みがあった。
「立てますか?」
「……立てるよ」
 なんとはなしにむっとして、鯰尾藤四郎はその手を無視して立ち上がる。
「良かったです」
 取られなかった手を引き戻しながらも、物吉貞宗は変わらぬ笑みを浮かべていた。その邪気の無い笑顔をみていると鯰尾藤四郎もなんだか毒気が抜かれてしまう。鯰尾藤四郎は軽くため息をつくと苦笑を浮かべた。
「はぐれてごめんな。そっちも無事みたいで良かったよ」
「皆さん、頼りになる方々ですからね」
 家康公の刀ですから。言葉にはしないものの、物吉貞宗の薄い鳶色の瞳は雄弁にそう語っていた。
 その誇りに満ちた友人の顔に、鯰尾藤四郎はふと違和感を覚えた。物吉貞宗の額を指さして、こてんと首を傾ける。
「……物吉、おでこ赤くない? どっかぶつけた?」
 見るからに柔らかそうな癖毛の隙間から覗く物吉貞宗の額がわずかに赤くなっている。ただでさえ色白な物吉貞宗の肌に浮かぶその色はやたらと目に付いた。
「えっと……」
 鯰尾藤四郎の指摘に、物吉貞宗は珍しくも返答に躊躇しているようだった。彼がちらりと視線を送った先にいるのは、骨喰藤四郎と言葉を交わすソハヤノツルキ──いや、宗三左文字だろうか。鯰尾藤四郎には、物吉貞宗がどちらを見たのかよく解らなかった。
「……なんでもないです……」
 結局、どこか気まずげな顔で歯切れの悪い言葉が返されるのみ。
 しかし物吉貞宗はすぐに普段の明るい笑顔を浮かべて、
「そういう鯰尾こそ顔が赤いですよ。風邪ですか?」
「えっ!?」
 慌てて両手を自らの頬に伸ばす。先ほどまでの名残か、なるほどその頬には確かに熱が籠もっている。
 それを知らされた鯰尾藤四郎は更に顔から火が出るような心持ちになった。
「……なんでもないっ」
 きっと今の自分は熟れた林檎のように赤くなっているのだろう。それを自覚しつつも鯰尾藤四郎はそう言った。物吉貞宗はその反応に少しだけ目を丸くして、それからくすりと笑みをこぼした。
「よーし! みんな揃ったし、本陣に向かうぞー!」
 響いた号令を聞き、鯰尾藤四郎は反射的に包丁藤四郎を振り返った。
 部屋の中央で皆の視線を集めながら仁王立ちする包丁藤四郎に物吉貞宗はぱちぱちと拍手を送る。
「包丁くん、やる気満々ですね!」
「うん! おやつが俺を待ってるから!」
 えいえいおー、と包丁藤四郎と物吉貞宗が拳を高く突き上げる。普段であれば鯰尾藤四郎も共に鬨の声を上げていたのかもしれないが、今回ばかりは色々とくたびれていた。進軍の疲れを微塵も感じさせないふたりの元気の良さに半ば感心、半ば呆れながら鯰尾藤四郎は傍らの兄弟へ視線を送った。
 骨喰藤四郎を見たことに、特に意味は無かった。
 それはほとんど癖のようなものである。刀剣男士として過ごしていく日々の中で鯰尾藤四郎が骨喰藤四郎に視線を送ることは、そして骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎に瞳を向けることは極々自然なことで。見つめ合うのは当然のことで。いつだってふたりは揃いの紫眼を重ねてきた。
 だから今も、当たり前にそうしただけのことだった。
 けれど。
 二対の紫眼が鉢合わせになったその瞬間。
 骨喰藤四郎は、ふい、とその顔を逸らした。
「……」
 鯰尾藤四郎はぽかんと口を開けた。逸らされた横顔をまじまじと見つめてしまう。
 顔を逸らされてしまったことに悲観的な想いは無かった。鯰尾藤四郎の胸に去来するのは、どうして逸らしたのだろうというただただ純粋な疑問だけ。
 骨喰藤四郎が理由もなく鯰尾藤四郎を避けるはずがない。なにか理由があるに決まっている。
 あの兄弟が鯰尾藤四郎から顔を逸らす『理由』。
 そんなもの、今の状況を振り返ればたったひとつだけだった。
 ──ああ、なんだ。
 鯰尾藤四郎は拍子抜けしながら、胸中でそう独りごちた。
「じゃあ、次の部屋に行こー!」
 部隊長である包丁藤四郎が声を上げ、先陣を切って次の部屋へと進んでいく。それを見た宗三左文字は後に続きながら気怠いため息をついた。
「また無警戒に……迂闊なのはどこかの誰かだけで十分ですよ」
 宗三左文字のぼやきに物吉貞宗は両の手を握り、力強い口調で断言をした。
「いえ、ちゃんと偵察したから大丈夫です。今度こそ!」
「さっきも偵察は文句ありませんでしたけれどね」
「うっ」
「それくらいにしてやれよ。おい、お前らも行こうぜ」
「あ、はーい」
 ソハヤノツルキに呼びかけられて、鯰尾藤四郎は慌てて首を縦に振った。軽口を叩き合いながら進軍を始める徳川の刀たちをまず骨喰藤四郎が、そして次に鯰尾藤四郎が追い始める。
 無言で──それはまあ彼の常ではあるのだが──前を行く骨喰藤四郎の背中を、鯰尾藤四郎は軽い足取りで追いかけて、
「ね、骨喰」
 声をかけるが、骨喰藤四郎は振り返らなかった。
 鯰尾藤四郎はそれでもめげずに今度は兄弟の顔を横から覗き込み、白髪に隠れた耳へそっと唇を寄せた。
「実は動揺してるだろ」
 ぴくり、と骨喰藤四郎の肩が揺れる。
 足を止めた兄弟に倣い鯰尾藤四郎も立ち止まり、続けて言葉を囁いてやる。
「残念だった? 途中で邪魔されて」
「……」
 変わらず無言のまま、しかし骨喰藤四郎はようやくその顔を鯰尾藤四郎へ向けた。
 どこか不機嫌に眉を顰める骨喰藤四郎の目元はわずかに朱に染まっている。
「図星だ。へへー」
「笑うな」
 不機嫌にこちらを睨みつける骨喰藤四郎とは正反対に満足げな笑顔を浮かべながら、鯰尾藤四郎は彼の手を取った。
「とりあえず今はこれだけ、ね」
「……わかった」
 大人しく頷く骨喰藤四郎の姿に、鯰尾藤四郎の瞳が自然と細くなる。自然と湧き上がる想いを伝えるように、鯰尾藤四郎は自らの右手に力を込めた。
 さあ、足を止めている暇はない。ただでさえはぐれてしまっていた鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が、これ以上仲間たちと距離を開けるわけにはいかないだろう。
 ここは戦場。自分たちは刀剣男士。自らを振るい、歴史のあるべき姿を守るもの。
 いつまでもこの手を結んでいられない。そんなこと鯰尾藤四郎もおそらく骨喰藤四郎も解っている。
 それでも。
 次の部屋へと向かい、再び刃を抜くまでは。
 この手のひらは今日も、愛しい兄弟と繋がり続ける。