記憶の随に 弐


 骨喰藤四郎は、夢を見ない。


 夢とは記憶を混ぜ合わせて合成し、また想像を加えたものだと骨喰藤四郎は聞いたことがある。記憶が変形して、夢として蘇るのだと。
 その夢を見ないということは、骨喰藤四郎には記憶らしい記憶など残っていないも同然だということなのだろう。
 所詮、現在の自分は過去の記憶の残りかすだ。不思議な偶然で、たまたまこの場で人型を保っているというだけで。

 だから、骨喰藤四郎は夢を見ない。そして、見ないことを当然だと考えている。





 骨喰藤四郎は音もなく瞼を開いた。室内を見れば、障子を透かして陽光が差し込んでいる。陽の差し込み方の角度から見て、普段の起床時間よりは早いようだが、朝は朝だ。骨喰藤四郎は身を起こすと、小さく欠伸をした。
 二段寝台が2つ備え付けられているこの部屋は、脇差の4人が寝室として利用していた。部屋のちょうど反対側にある、もう一つの二段寝台は今はどちらも空いているが、それは堀川国広とにっかり青江の両名が長時間の遠征へと赴いているためである。
 顔を洗おうと思い立ち、骨喰藤四郎は寝台に掛けられたはしごを使って、上の寝台から降りた。ぺたりと裸足で畳に触れると、季節柄、刺すような冷気が足に伝わる。
 骨喰藤四郎は上の寝台を使っている。本当は、鯰尾藤四郎が上を使用したがっていたのだが、上の寝台で寝たその初日、寝ぼけた鯰尾藤四郎が寝台から落下して以来、審神者から、鯰尾藤四郎は下段の寝台で寝ろ、と厳命を受けていた。
「……?」
 ふと、小さな呻き声が耳に届き、骨喰藤四郎は足を止めた。
 耳をすませば、鯰尾藤四郎の寝台の方から声が聞こえる。というか、これは鯰尾が呻いているのではないか、と思い至り、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎の枕元へ近寄った。
「──鯰尾?」
 骨喰藤四郎は小さな声で、兄弟の名を呼んだ。それと同時に鯰尾藤四郎の顔を覗き込んで――骨喰藤四郎は眉を顰めた。
「……う……くっ……!」
 鯰尾藤四郎は呻きながら、普段は穏やかな雰囲気で包まれているその顔を苦渋の色に染めていた。
 骨喰藤四郎はややためらった後、それでも眠る鯰尾藤四郎の肩を揺すぶった。
「鯰尾」
「──っ!!」
 瞬間、鯰尾藤四郎は両目を見開き、そのまま勢いよく上半身を起こした。その勢いに煽られ、骨喰藤四郎の手は弾かれる。
 荒い息を数度繰り返し、それでもなんとか呼吸が落ち着いてくると、鯰尾藤四郎はのろのろと傍らに立つ骨喰藤四郎に視線を合わせた。
「……ほねばみ……?」
 自分のものと同じ色をしているその紫眼は、不思議といつもより暗い色をしているように見えた。
「うなされていた」
 いつも通り、簡潔にそう告げる。ぴくり、と鯰尾藤四郎の肩が揺れた。
「……起こさない方がいいかとも思ったが」
「──あ。いや……ううん。えっと、大丈夫……」
 そう言って、鯰尾藤四郎は曖昧に笑った。
「えっと……馬糞に埋もれる夢を見ちゃってさー……」
「……壮絶だな」
「うん、すごかった。匂いとか」
 参るよね、と呟いて、鯰尾藤四郎は俯いた。口元はまだ笑みの形を保っていたが、その瞳はどこか虚ろに揺れている。
「──洗面所へ行ってくる」
「……あ、わかった」
 なんとなく鯰尾藤四郎を一人にしてやった方が良い気がして、骨喰藤四郎は彼にそう告げた。元から洗面所へ行くつもりだったというのもあるが。
 骨喰藤四郎は踵を返し、寝室から廊下へと足を踏み出した。扉を閉める際に横目で鯰尾藤四郎の様子を覗き見ると、彼はそれまで保っていた笑みを完全に消して、唇を噛み締めていた。
 またか、と骨喰藤四郎は胸中で呟いた。
 ──鯰尾藤四郎は、度々こうなる。何かを誤魔化すように、隠すようにして曖昧に笑い、そして骨喰藤四郎に見えないところで今にも泣き出しそうに顔を歪めるのだ。
 鯰尾藤四郎本人は隠しているつもりなのだろう。しかし、骨喰藤四郎とて馬鹿でもなければ朴念仁でもない。常に一緒にいる相手の顔色の変化くらい、すぐにわかる。
 ただ、骨喰藤四郎は迷っていた。
 鯰尾藤四郎は何かに苦しんでいるようである。骨喰藤四郎としては、鯰尾藤四郎が困っているのなら助けてやりたい。力になってやりたい。
 しかし、鯰尾藤四郎自身はそれを隠そうとしている。骨喰藤四郎には見せないよう、気付かれないように努めている。
 そうなると、問いただすべきなのか、それとも黙って見守るべきなのか、骨喰藤四郎は答えがわからなくなってしまうのだ。
 ──結局、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎に何も聞けぬままで。
 ぱたん、と音を立てて扉を閉めて、骨喰藤四郎は無言のままに扉にもたれかかった。
「……感謝している」
 聞こえるはずがないのに、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎に向けて呟いていた。
 そうだ。感謝している。骨喰藤四郎は、鯰尾藤四郎に感謝しているのだ。
 彼は、記憶の残りかすでしかない自分に目をかけてくれる。三日前に行われた焚き火の時も、鯰尾藤四郎が誘ってくれなければ骨喰藤四郎はきっと参加することができず、炎と向き合えなかったに違いない。
 いつでも、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎を何かと手助けしてくれていた。だからこそ、骨喰藤四郎はこんなにも鯰尾藤四郎の力になりたいと思う。
 ──その反面、記憶の残りかすでしかない自分に何ができるのだ、とも思う。
 骨喰藤四郎は深く深くため息を吐いて、洗面所へと向かった。



 曇天が厚く空を覆っている。黒々とした雲は、今にも雫を落としてきそうに見えた。
 晩秋から冬にかけての季節の雲は、どうしてこんなにも重そうに見えるのだろう。骨喰藤四郎は常々不思議に思っていた。
「つかれましたー……」
 隣で作業していた今剣の声で我に返り、空を見上げていた視線を左隣へとやる。今剣は腰を両手でさすりながら立ち上がった。
「ずっとすわりっぱなしは、こしがつらいです」
 本日骨喰藤四郎に宛てがわれた内番は、畑当番だった。普段は鯰尾藤四郎と共に内番をこなすことが多いが、出陣や遠征との兼ね合いで、こうして鯰尾藤四郎以外の者とも内番を行うこともままある。
 ただし、畑当番を鯰尾藤四郎以外の者と行うのはこれが初めてだった。
 とはいえ特にやることが変わるわけでもなく、ただひたすらに畑当番をこなすだけである。間もなく冬を迎えようかという季節、夏のように日差しが厳しいというわけではないものの、芋類の収穫、春に向けての種まき、腐葉土の管理など、するべきことは多い。
 加えてこの本丸では、畑仕事は軒並み手作業で行われている。何もそれは、修行の一貫というわけではない。
 なにせ畑仕事をこなすのは刀である。日常生活で使われるような、操作の単純な機械程度ならともかく、農作業用の機械となると刀剣男士にはまだまだ手に負えない。
 そうなると自然と手作業で行うしかないというわけである。座り込んでの作業が多い都合上、確かに腰が痛いという今剣の主張は骨喰藤四郎にも理解できた。
「あーあ、うまとうばんとかがよかったなあ」
 今剣は不満げにぼやきつつ、軍手を嵌め直している。
「こういう地道な作業が大事な時もある」
 聞き流していてもよかったのだが、骨喰藤四郎はなんとなくそう口に出した。それを聞いた今剣は、ばつが悪そうに頬をかいた。
「それはわかってますけど……じみちなしごとはにがてなんですよう」
「そうか」
 適当に相槌を打って、骨喰藤四郎は再び作業を始めた。今剣は再び座り、しかし作業の再開をせず、じっと骨喰藤四郎を見つめた。
「ほねばみさんは、はたけとうばん、すきなんですか?」
「嫌いじゃない」
「そうなんですか? てっきり、すきなんだとおもってました」
 骨喰藤四郎は思わず手を止め、今剣を見た。
「……何故そう思った?」
「だって、さぎょうしてるときのほねばみさん、なんだかたのしそうですもん」
 今剣に笑いながら無邪気にそう言われて、骨喰藤四郎はまごついた。
 楽しそう?自分が?
 確かに、骨喰藤四郎は畑仕事が嫌いではない。
 では何故、嫌いではないと、そう思えるのか──?
「あ、ぼく、あっちのほうみてきますね!」
 骨喰藤四郎の懊悩をよそに、今剣は立ち上がると、ぱたぱたと別の場所へと走っていく。骨喰藤四郎は、作業を再開することも忘れ、ただ手元の土に視線を落としていた。
 ──畑仕事が嫌いじゃないことには、理由がある。骨喰藤四郎は、半ば本能的にそれを悟っていた。
 土の匂い。草の匂い。それらを孕んだ風の匂い。それら全てが混ざって畑の匂いになって。骨喰藤四郎は、その匂いに馴染みがある。その匂いを嗅いでいると、まるで自分の故郷にでも帰ってきたような安心感を抱くのだ。

 そう、まるで、あるべき姿に還ったかのような──。

 なんだこれは、と骨喰藤四郎は胸中で呟いた。頭の中で、何かが蠢いている。
 土だらけの軍手で、しかしそれに構わず骨喰藤四郎は頭を抑えた。
 畑の匂い。刀の自分。それを纏う人物。断片的な情報が、脳内に溢れ返る。
 そして、唐突に骨喰藤四郎は理解した。
 自分は、知っている。畑の匂いがする人物を。
「──秀吉だ」
 唇から、その名前が自然と滑り落ちたその瞬間。とうとう堪えきれなくなったかのように、曇天から大粒の雨が降りだした。
 ものの一分もしないうちに、ばけつをひっくり返したような大雨が骨喰藤四郎に降り注ぐ。しかし骨喰藤四郎はただ呆然と畑に座り込んだまま、そこから動くことができなかった。
「あめ、あめですよ、ほねばみさん!」
 別の畑を回っていた今剣が、大慌てで骨喰藤四郎の元へ駆け寄ってきた。
「もーさっさともどりましょう! さぎょうどころじゃないですよ!」
 今剣は不満げにそう言って、座り込んだ骨喰藤四郎の手を取るとそのまま母屋に向かって駆け出した。骨喰藤四郎はそれに逆らうことなく──逆らおうという気すら起きず、ただ黙って今剣の後についていく。
 雨に打たれ、今剣に手を引かれながら駆ける中で、骨喰藤四郎は呆然と呟いた。
「……俺はなんで、こんなことも忘れていたんだ……」



 母屋へ帰ってきた今剣と骨喰藤四郎を迎えた鯰尾藤四郎はうわあ、と声をあげた。
「びしょ濡れだ。大変だったね、二人共」
 畑と母屋の間にはそれなりの距離がある。走って──主に今剣がだが──帰ってきたとはいえ、この大雨では頭のてっぺんからつま先まで今剣と骨喰藤四郎は濡れそぼっていた。
 今剣は小動物のようにぷるぷると頭を振って水を飛ばすと、
「びっくりですよー。ぼく、おふろばにいってきます」
「あ、ちょっと待っ──」
 鯰尾藤四郎の制止を聞かず、今剣は廊下にぺたぺたと足型を残して大浴場へと駆けていった。鯰尾藤四郎は少々渋い顔をしてそれを見送った。
 これ、俺が床を拭く流れだよねえなどとぼやきつつ、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に向き直った。
「骨喰、俺、てぬぐいかなんか持ってくるからさ。そこで待っててくれる?」
 言って、身を翻そうとした鯰尾藤四郎の腕を、骨喰藤四郎は思わず掴んでいた。
「うぇ?」
 鯰尾藤四郎は一歩足を踏み出しかけたその格好のまま硬直し、それから首だけで骨喰藤四郎を振り返った。
「なに?」
「なまずお……」
 我ながら、情けない声だと骨喰藤四郎は思った。しかし、出てしまったものはしょうがない。鯰尾藤四郎の腕を掴みながら、彼の顔を見上げると、鯰尾藤四郎は戸惑うように眉を顰めた。
 ──その時の自分は、一体どんな表情をしていたのだろう。
「……何か、あった?」
 鯰尾藤四郎はそう問うと、骨喰藤四郎に向き直って労わるように骨喰藤四郎の肩に手を添えた。その温もりを感じて、何故か骨喰藤四郎は無性に泣き出したくなった。
「思い出したんだ」
 泣き声の代わりに出たのは、その言葉で。
「──え?」
 それを聞いて、鯰尾藤四郎は呆けたような声をあげた。
「過去の記憶を、思い出したんだ……」
 掴んだままの鯰尾藤四郎の手に縋りながら、骨喰藤四郎は震える声でそう吐き出した。



 落ちた静寂の中。
 雨音だけが、響いていた。