記憶の随に 参


 どうしてこんなにも、記憶を失っていることが怖かったのだろう。骨喰藤四郎は、その日ようやく理解した。



 記憶が無いと、自分の芯がぽっかりと取り除かれたかのようであるから?恐らく、それもある。自分という存在が不確かなことは、骨喰藤四郎にとってたしかに怖いことだ。だからこそ骨喰藤四郎は口を噤み、己を出さないようにしてきたのだ。不確かな存在に、自己主張は不似合いだから。

 しかし、それ以上に。
 ──大切なものを思い出したとき、どうしてこんなに大切なことを忘れられて平然としていられたのか、自分で自分にぞっとするから、怖かったのだと。
 骨喰藤四郎は理解してしまった。





「思い出した……って……」
 鯰尾藤四郎は呆然と呟いた。骨喰藤四郎は、何を言っているのだろう。しばし、彼の言葉の意味がわからなくて。鯰尾藤四郎は何も言えず、骨喰藤四郎も何も言わなかった。二人の間を沈黙が支配し、雨音だけがその存在を主張していた。
 骨喰藤四郎に掴まれた腕からじわりと水が滲んできた感覚で、ようやく鯰尾藤四郎は我に返った。
「──とりあえず、体を拭こう。風邪引いちゃうよ」
 手ぬぐい持ってくるから、と言うと、骨喰藤四郎は今度は素直に頷いた。掴まれていた腕が力なく離される。
 鯰尾藤四郎が、ここまで意気消沈した骨喰藤四郎を見たのは初めてだった。普段から覇気があるとは言えないが、目の前の骨喰藤四郎は今にも崩れ落ちてしまいそうなほど危うく見えた。手ぬぐいを取りに行くためとはいえ、骨喰藤四郎を一人でここに残すことが少し不安だったが、彼を濡れたまま放置するわけにはいかない。
「すぐ戻ってくるから!」
 言って、鯰尾藤四郎は長髪を翻して駆け出した。肩越しに骨喰藤四郎を振り返ると、俯いたままその頬を濡らしている姿が見える。
 ──その雫が、雨によるものなのか、それとも別のものなのか、鯰尾藤四郎には判らなかった。



「……すごい雨だな」
 窓外へと視線をやって、鯰尾藤四郎は誰にともなく呟いた。文字通りばけつをひっくり返したかのような大雨は、窓を越えてその雨音を寝室中に響かせていた。雨雲は太陽光を完全に遮り、それに伴って室内も暗く沈んでいる。
 母屋の玄関である程度の水分を拭き取って、言葉を交わすことなく寝室へと戻ってきて。着替えを終えた骨喰藤四郎は、普段鯰尾藤四郎が使用している寝台に腰掛けたまま、どことも知れぬ虚空を見つめていた。白いシャツを1枚着たのみの骨喰藤四郎は、その髪の白さも相まって普段よりも儚げに見える。鯰尾藤四郎としては、本当は今剣のように風呂にでも行って体を暖めてもらいたかったのだが、ここまで呆然とした状態の骨喰藤四郎が十分に風呂に入れるかは怪しいところだった。
「……それで」
 少し迷って、それでも鯰尾藤四郎は切り出した。
「思い出したって……?」
 寝台に腰掛ける骨喰藤四郎の隣に座って、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の顔を覗き込んだ。しかし骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎の方を見ず、変わらず遠いどこかへと視線を投げたままだった。それでも声は聞こえていたようで、彼は小さく唇を動かした。
「……秀吉だ。俺の、持ち主」
「あ……」
「──忘れていた自分に、ぞっとする」
 骨喰藤四郎は深いため息と共に言葉を搾り出すと、右手で顔を覆った。
 その様子を見て、鯰尾藤四郎はなんと声をかければいいのかわからなかった。気持ちはわかると言えばいいのか。仕方ないと言えばいいのか。どう言えば、骨喰藤四郎の戸惑いを解消できるのかがわからない。鯰尾藤四郎がためらううちに、骨喰藤四郎は再び口を開いた。 「鯰尾。俺は、やはり怖い」
「……え?」
 骨喰藤四郎のその言葉に、鯰尾藤四郎の頭のどこかで警鐘が鳴った。
 ──聞いてはならない。言わせてはならない。そう、思った。
「大事なことを忘れて、平然としていられた自分が怖い」
 そうだ。その感覚は鯰尾藤四郎も知っている。
 でも。
「それ、は……そうかもしれないけど……」
 言葉に詰まりながら返答する内で、鯰尾藤四郎は段々と自らの鼓動が早くなることに気が付いていた。自分は、何に怯えている?何に焦っている?
 正体不明の内心の狼狽を隠すように、鯰尾藤四郎は明るい声を出した。
「──でもさ、しょうがないんじゃない?」
「……何?」
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎からは視線を外して、曖昧に笑ってみせた。
「俺たちは燃えちゃったんだから、記憶が無くなっても仕方ないし。
 ……そりゃ、思い出すと多少は衝撃とかあるけど。でも、結局大事なのは今だろ?」
 そうだな、と。
 普段の骨喰藤四郎なら頷いてくれる。そうやって鯰尾藤四郎に同意してくれる。
 ──でないと、俺は──。

「そうは思わない」

 冷えた声でそう告げられて、鯰尾藤四郎は硬直した。喉がひくりと鳴る。紡ごうとした言葉が出てこない。
 思わず骨喰藤四郎を振り返るが、彼はやはり鯰尾藤四郎に視線を合わせないままだった。それどころか、横顔には暗い感情が滲んでいるように見えた。

「そう思えるのは、鯰尾が強いからだ」

 ──やめてくれと。

「俺は」

 ──やめてくれと、言いたいのに。

「記憶も昨日も失くて」

 ──鯰尾藤四郎の喉は、その機能を完全に忘れたかのように声を上げなくて。

「なんとかなるなんて、思えない」

 どうして、と。
 鯰尾藤四郎は自分でも意識せぬままに、言葉を漏らした。
「……そんなこと……言うんだ……?」
「──鯰尾?」
 震えるような声で言うと、骨喰藤四郎はようやく顔を上げて、この部屋に来てから初めて鯰尾藤四郎と目を合わせた。
「──どうしてそんなこと、言うんだ」
 やっと視線が合ったことに安堵することはなく、むしろ、その紫眼に力が無いことが無性に苛立って、鯰尾藤四郎は思わず声を荒らげた。
「俺はいつも、記憶がなくてもなんとかなるって言ってるだろ!? 骨喰だって、同意してくれたじゃないか!!
 なのに、なんで急にそんなこと言うんだよ!!」
 何を言っているのか、鯰尾藤四郎は自分でもよくわからなかった。ただ、激情のままに骨喰藤四郎に言い募る。先ほどまで凍りついていたはずの喉は、今は逆に自らの意思では止まらない。
「そんなに過去が大事なのか!? そんなに記憶が大事なのか!? 思い出して、そんなに苦しんでるのに!!
 なんで拘るんだよ!!」
 骨喰藤四郎の瞳が僅かに揺れる。その揺らぎの感情はなんなのか、今の鯰尾藤四郎にはわからない。わかろうという気も起きない。
「記憶がなくてもなんとかなるって、骨喰が思ってくれなきゃ俺は駄目なんだよ!!」
 ──静寂が、落ちた。
 鯰尾藤四郎は、衰える様子を見せない雨音と──それに混じった、自分の荒い息を聞いていた。
 骨喰藤四郎は呆然とした様子で激昂した鯰尾藤四郎を見つめていた。やがて、戸惑うように視線を逸らして俯くと、囁くような声で謝罪した。
「──すまない。軽率だった」
 その言葉を聞いて、瞬時に鯰尾藤四郎の頭は冷えた。背中に氷を落とされたように血の気が引く。
「……ごめ……」
 震える指で、自らの口を抑える。自分は今、何を言った?
「ごめん、ほねばみ……」
 真っ青な顔で、もう一度謝罪をして。
「──ごめん!!」
 鯰尾藤四郎は、身を翻して部屋から飛び出した。その背中に、鯰尾、と自分の名を呼ぶ声が掛かったが、振り返ることなどできなかった。



 走る。走る。走る。どうにもならない衝動が鯰尾藤四郎を突き動かしていた。
 自分は骨喰藤四郎に何を言った?彼が落ち込んだことは、仕方がないのだ。不安になったって別にいいではないか。少しは記憶が残されている鯰尾藤四郎と違って、骨喰藤四郎の記憶は殆ど残されていない。その彼が、記憶を思い出して動揺し落ち込んだところで、どれほどの罪があるというのだ。
 そんなこと、わかっているのに。どうしてこんなに心が乱れるのか。
 どうして骨喰藤四郎が「なんとかなる」と思ってくれないことが、怖くてたまらないのか──。
「……ああ。そっか」
 鯰尾藤四郎は駆けていた足を止め、力なくその体を壁に預けた。自嘲の笑みを浮かべて、呟く。
「結局俺は、なんとかなるなんて、ちっとも思ってなかったんだ……」
 そう言っていれば、本当にそう思える気がして。同じような境遇の骨喰藤四郎にも、ずっとその思いを押し付けて。そうして立ち直っていく骨喰藤四郎の姿を見て、記憶が無くてもなんとかなると自分を安心させたかっただけで。
 否定されるのが怖かったのは、違うと言われてしまったら、自分を誤魔化すこともできなくなりそうだったから。

 ──鯰尾藤四郎は、世話を焼いて骨喰藤四郎を救っているつもりで。
 本当は自分が救われたかっただけなのだ。

 鯰尾藤四郎は乾いた声を上げながら、壁にもたれかかったままずるずるとその場に座り込んだ。
 なんて滑稽で、なんて愚かなのだろう。骨喰藤四郎に思いを押しつけたどころか、その押し付けられた本人に向かって声を荒らげた。
 頬に手をやると、流れたと思った涙は、しかし流れていなかった。





 鯰尾藤四郎は、本当はずっと怖かったのだ。
 記憶が無いことが。過去が無いことが。
 それらを忘れている自分が。

 ──本当は、炎の夢と同じくらい、鯰尾藤四郎にとって怖いことだった。