記憶の随に 肆
明けたその日も、骨喰藤四郎は夢を見なかった。
結局あの後、鯰尾藤四郎は部屋へと帰って来ず、骨喰藤四郎が目を覚ましたその時も彼の姿は無かった。
骨喰藤四郎は、鯰尾藤四郎が記憶に関してあんなにも悲痛に叫ぶ姿を見たのは初めてだった。骨喰藤四郎の知る彼は、常に「なんとかなる」と言って笑っていた。
だが、考えてみれば当然のことである。鯰尾藤四郎とて記憶を失っているのだから、自分と同じように不安が無いわけがないのだ。それなのに、骨喰藤四郎は「なんとかなる」と言える鯰尾藤四郎を強い奴だと勝手に決め付けて、寄りかかっていた。
──それどころか、恐らく自分は彼の虚勢を崩した。「なんとかなる」という言葉に、確かに自分も救われていたのに、それを否定した。
いつから自分は、彼に甘えていたのだろう。どうして記憶が無いという境遇を、共有してやれなかったのだろう。
気付く機会はきっといくらでもあった。骨喰藤四郎は何度も何度も、鯰尾藤四郎が一人隠れて顔を歪める姿を見ていたのだから。他でもない骨喰藤四郎が、鯰尾藤四郎の一番近くにいたのだから。
鯰尾藤四郎の激昂を見た時から、その思いが頭から離れなくて。
──だから、朝食の場で彼の姿を見たときは、本当に安心したのだ。
何と声をかけるか迷ったが、骨喰藤四郎はとにかく鯰尾藤四郎と話がしたかった。今までのことを謝りたかった。骨喰藤四郎は鯰尾、と声をかけようとして──しかし、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎と視線が合ったその瞬間、すぐに視線を逸らした。それどころか、さりげなく骨喰藤四郎から離れるように去っていく。
その様子を見て、骨喰藤四郎は思わず足を止めた。鯰尾藤四郎はいつだって骨喰藤四郎の姿を見れば、骨喰、と言って微笑んでくれていたのに。
鯰尾藤四郎に避けられるようになったのは、その日からだった。
骨喰藤四郎は、本丸の廊下を曲がったところで鯰尾藤四郎といきなり出くわした。
「なま──」
避けられていようとも話がしたくて、骨喰藤四郎は慌てて声をかける。が、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の顔を見るや否やさっと顔色を変えると、骨喰藤四郎が動くよりも早く身を翻して目の前から走り去った。決まり手は骨喰藤四郎が重歩兵を、鯰尾藤四郎が軽歩兵を装備していた点であった。
伸ばした右手は虚しく空を切り、骨喰藤四郎は一人廊下に残される。
鯰尾藤四郎にこうして避けられ続けてもう五日目になる。普段ならば出陣や内番などで顔を合わせることが多いため、二人きりになる機会はいくらでもあっただろう。しかし、悪いことは重なるもので、先日の畑当番以来、編成の関係なのか鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が二人で内番をこなす機会が回ってきていない。
出陣はさすがに同じ部隊のままだが、その時も鯰尾藤四郎はさりげなく──まあ、同じ部隊の獅子王から「何かあったのか?」と聞かれたが──骨喰藤四郎に関わらないようにしていた。
刀剣男士の数が多いため、食事の場などは論外である。就寝の場を狙えば、とも思うのだが、寝るまで帰ってこないし起きると姿は既に無くなっているしで埒があかない。悲しいかな、骨喰藤四郎は徹夜が苦手であった。そもそも部屋にいる姿を見かけないわけであるから、部屋で寝ているかどうかも定かではないのだが、朝になると鯰尾藤四郎の布団が乱れているため、人知れず帰ってきてはいるのだろう。
ここ五日間を思い返して苦い気持ちになりながら、骨喰藤四郎は引き戻した右手を固く握り締めた。
「──いやあ、清々しいほどの避けられっぷりだな」
その背中に飄々とした声がかかり、骨喰藤四郎は振り返った。
「……あんたか」
「うむ。俺だ」
そう言って声の主──三日月宗近は、柔和に微笑むと右手を上げた。
骨喰藤四郎は、端的に言ってこの三日月宗近が苦手だ。三日月宗近自身がどうこうと言うよりも、自分が覚えていない過去の自分を知っている相手となると、どう接していいのかわからないのである。
それは、相手を覚えていないという申し訳なさからでもあるし、過去の自分と比較して現在の自分を見られたくないという想いからでもある。
「何か用か」
「なんだ、用がなければ声をかけてはいけないのか?」
「そうだ」
鯰尾藤四郎に避けられ続けている苛立ちから、ささくれだった気分のままに返答してしまう。その答えに三日月宗近はぽかんと口を開けてから──大笑いした。
「そうか、そうか。それは失敬」
そう笑われてしまっては、なんだか自分の態度がひどく子供っぽいものに思えて──まあ、事実大人の対応では無かったのだが──骨喰藤四郎は憮然とした。三日月宗近はひとしきり笑ったあと、また微笑みを浮かべた。
「……鯰尾は普段から、特に用事が無くても話しかけていたように見えたが」
鯰尾藤四郎の名前を出されて、骨喰藤四郎は押し黙った。元々が八つ当たりの上での発言だったこともあり、正論を吐かれては返答のしようがない。元より骨喰藤四郎は舌戦の類は苦手である。
「まあ、今はその鯰尾が話しかけてこないようだがなぁ」
肩を竦めながらの発言に、骨喰藤四郎は閉じられた口を更に固く引き結んだ。
そうだ。普段は、鯰尾藤四郎は何かにつけて骨喰藤四郎に声をかけてくれていた。話す内容は他愛もないことで、それこそ用もないのに声をかけてくるなど、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の間では日常だった。
それが日常で──骨喰藤四郎はそれで十分だった。鯰尾藤四郎がただ共にいるだけで。
彼と話せないことが、彼と共にいられないことが、こんなにも辛いのは何故だろう。こんなにも彼のそばにいたいと思うのは、何故だろう。
──無意識のうちに俯かせていた頭をわしゃわしゃと掻き乱されて、骨喰藤四郎は我に返った。弾かれたように顔を上げると、三日月宗近の微笑みが目の前にある。
「そんなに心細そうな顔をするな」
言いながら、続けて頭を撫でられる。骨喰藤四郎は少々むっとして、自分より高い位置にある三日月宗近の顔を上目遣いで睨んだ。
「……別にしていない」
「はっはっは、そうかそうか」
三日月宗近は鷹揚に笑うと、ぽんぽんと骨喰藤四郎の頭を優しく叩く。
子供扱いされている。骨喰藤四郎はそれを悟って少々渋い気分になった。もっとも、三日月宗近から見れば、他の刀剣男士は皆等しく年下であるため、仕方がないと言えば仕方がないのだが。
子供扱いは少々不服のはずなのに、そうやって乱暴に頭を撫でられていると、不思議と虚勢が解けていって。
「……鯰尾に、嫌われたのかもしれない……」
自然と、弱音が口から滑り落ちていた。
三日月宗近は三日月を孕んだ瞳を瞬かせて、そうかと相槌を打った。
「どうしてそう思った?」
「避けられている」
「まあ、そうだな。ものすごく避けられているな」
はっきりきっぱり告げられる。
「……俺が甘えていたからだ」
鯰尾藤四郎に虚勢に甘えて彼自身を気にも留めなかったから。その上、彼の言葉を否定した。だから鯰尾藤四郎は怒ったのだ。
「──ふむ」
三日月宗近は笑みを消すと、右手を口元に当ててそばの壁に寄りかかった。
「ではその通り、骨喰は鯰尾に嫌われているとしよう。何故お前は鯰尾に近付こうとするのだ?」
「……何故?」
問われて、骨喰藤四郎は眉を顰めた。そんなことは決まっている。
「謝りたいからだ。今までのことを」
「それは、本当に行う価値があるものなのか?」
思いもよらぬ言葉を言われて、骨喰藤四郎は返答に窮した。言葉を探す間に、三日月宗近が再び口を開いた。
「避けられている相手に接近することに、どれほどの意味がある? 相手を思うのならば、近づかないのもまた一つの思いやりだぞ」
「それはっ……」
骨喰藤四郎は言い返そうとして、しかしやはり言葉が出てこない。舌戦の類はとにかく苦手であった。
──何よりも、三日月宗近の言うことにも一理あると骨喰藤四郎は思ってしまった。
骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎に謝りたいと思うのは、近づきたいと思うのは、彼を困らせるだけの自己満足なのではないだろうか。
「なぁ、骨喰よ」
声をかけられて、戸惑いながらも骨喰藤四郎は三日月宗近と視線を合わせた。三日月の瞳は、労わるような優しさの色を宿している。
「お前は何故、鯰尾に拘る?」
何故。骨喰藤四郎は胸中で繰り返した。
「──お前にとっての、鯰尾藤四郎とは何なんだ?」
俺にとっての、鯰尾藤四郎。
その言葉が、骨喰藤四郎にゆっくりと染み渡っていく。
──鯰尾藤四郎とは、骨喰藤四郎の兄弟である。
……いや、違う。そんなことが問題なのではない。もっと、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に意味ある存在だ。兄弟であることなど、ただの一要素でしかない。
そうだ、と骨喰藤四郎は独りごちた。鯰尾藤四郎は記憶を失ったまま、人型である日々を漫然と過ごしていた骨喰藤四郎に言ったのだ。
なんとかなる、と。
最初は何を言っているのか解らなかった。記憶が無くて。自分の芯が無くて。自分の存在が不確かで。そんな、不安だらけの日々をなんとかなると言うなんて、理解できなかった。
けれど、鯰尾藤四郎はいつでも骨喰藤四郎を導いてくれたのだ。なんとかなると言って、骨喰藤四郎の手を引いてくれた。そうして鯰尾藤四郎と日々を過ごすうちに、骨喰藤四郎は段々と彼の言葉通り、記憶が無くてもなんとかなると思えるようになったのだ。
鯰尾藤四郎が、記憶も無く昨日も無い日々を、自分の存在が不確かな日々を塗り替えてくれたのだ。
──鯰尾藤四郎は、骨喰藤四郎にとって、救いだった。
「俺には……そう。記憶が無い」
意識せぬまま、骨喰藤四郎は唇を動かしていた。三日月宗近と正面から視線を合わせる。
「それでいいと思っていた」
記憶の残りかすである自分には、それが相応しいと思っていた。
けれど。
鯰尾藤四郎は。鯰尾藤四郎が。
──骨喰藤四郎に、道を示してくれたから。
「鯰尾のおかげで、俺は前を向けたんだ」
どれほど感謝してもし足りない。
言葉を紡ぎながら、骨喰藤四郎はそうか、と一つ理解をした。
どうしてこんなにも、鯰尾藤四郎と共にいたいと思うのか。彼が初めて弱さを見せたその時から強くなり続けている、この想いの理由がやっとわかった。
「俺は、鯰尾の苦しみを知りたい」
言いながら、骨喰藤四郎は拳を固く握りはっきりと告げた。
「鯰尾の力に、なりたい」
そうだ。ずっと、骨喰藤四郎はそう思っていたのだから。
骨喰藤四郎は過去の記憶を失っている。だから自分の存在が不確かなままで、それは決して変わることがない。
けれど。どうしても、鯰尾藤四郎の力になりたいと思うこの気持ちは──失われた過去は何も関係がない、″現在″の骨喰藤四郎の唯一だけれど確かな望みで。
おそらくこの望みさえも、鯰尾藤四郎が自分に与えてくれたものだから。
鯰尾藤四郎が苦しんでいるのならば、骨喰藤四郎はそれを救いたい。
かつて骨喰藤四郎自身が鯰尾藤四郎にそうして救われたように。
「……力になりたい、か」
三日月宗近は満足そうに鸚鵡返しすると、笑いを噛み殺しながら続けた。
「いやいや、世話焼きは粟田口の血筋かもしれないな」
「うるさい」
骨喰藤四郎は茶化されたような気がして、三日月宗近を再び睨んだ。
「──それは、あんたもだろう」
「……はっはっは、そうかもしれんなぁ」
途中から薄々気付いていたが、図らずも骨喰藤四郎は三日月宗近に慰められて──というか、相談相手になってもらっていた形のようだ。
なんとなく気に食わない感じもしたが、三日月宗近と話をしたことで骨喰藤四郎の中でいろいろと吹っ切れたことは確かである。骨喰藤四郎はそれまで合わせていた視線を不意に逸らした。
「……感謝する……」
蚊の鳴くような声でそう言うと、三日月宗近はぽんと骨喰藤四郎の銀髪に手を置いた。そして、思いっきりぐしゃぐしゃと髪を掻き乱される。
「はっはっはっはっはっ」
「──やめろ」
頭がぐらぐらと揺さぶられて、さすがに骨喰藤四郎は強く三日月宗近の手を振り払った。三日月宗近はやはり笑みを絶やさず、
「では、そうだな。ついでに、もうひとつ世話を焼いてやろうか」
そう、提案した。
骨喰藤四郎は、逸る気持ちを抑えて本丸を駆けていた。目指すのは馬小屋である。
──三日月宗近のついでの世話とは、内番のことだった。骨喰藤四郎は今日の内番に命じられていなかったため特に気に留めていなかったのだが、どうやら三日月宗近と鯰尾藤四郎が今日は馬当番を任されたらしい。
三日月宗近はそれを骨喰藤四郎に告げた後、代わるか、と提案してくれたのだ。骨喰藤四郎は迷わずそれに頷いた。……頷いてから、審神者の許可を取るべきか少々悩んだりもしたのが、三日月宗近が笑顔で任せろと言ってくれたために、骨喰藤四郎は甘えることにした。こうして考えると、三日月宗近は最初から──鯰尾藤四郎と同じ内番にされた時から──全て狙ってやっていたのだろう。骨喰藤四郎に声をかけたことも、会話の全ても、骨喰藤四郎が吹っ切れて、内番の交代に飛びついたことも。
不思議だな、と馬小屋へ向かいながら骨喰藤四郎は呟いた。今まで、こうして鯰尾藤四郎以外の誰かに甘えたこと、頼ったことなど無かった。
三日月宗近の温和かつ泰然とした態度が、自然と頼ろうという気にさせるのかもしれない。もしくは、かつて共に足利の宝剣であった頃の馴染みのようなものが、記憶には残っていなくとも心の隅にでも残っているのかもしれない。
あるいは──鯰尾藤四郎と話す、という骨喰藤四郎にとって今一番の目的があるから、なりふり構わないのかもしれない。
なにはともあれお膳立ては済んでいる。ただでさえ鯰尾藤四郎と話したいと思っていた上に、鯰尾藤四郎の力になりたいとはっきり自覚した直後であるため、骨喰藤四郎はこの機会を逃す気はなかった。
馬小屋の入口が見えたところで骨喰藤四郎は足を止めた。万が一にも悟られないよう、骨喰藤四郎はそっと馬小屋の中を探った。なにせ偵察も隠蔽も、鯰尾藤四郎の方が優れている。
──馬小屋の中に、焦がれていたその姿があった。
鯰尾藤四郎はぼんやりとした表情で、デッキブラシに寄りかかっている。駆け出したくなる衝動を堪えて、骨喰藤四郎はそっと馬小屋の入口に寄った。
そして。
「──鯰尾」
逃げられないように馬小屋の入口に立ちふさがりながら、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎に声をかけた。
鯰尾藤四郎は弾かれたように入口を振り返る。五日振りにきちんと合わせた顔は、怒っているようにも、動揺しているようにも、泣き出しそうにも見えた。
「ほねばみ……なんで……」
この声が自分に向けられたのも、五日振りである。たった五日でしかないのに、もう随分と長いこと聞いていなかったような気がする。骨喰藤四郎はどこからか込み上げてくる衝動を、唇を噛んでこらえた。
「代わってもらった」
言うと、なんで、と鯰尾藤四郎は繰り返す。
なんで。今日は、その質問ばかり受けている気がして、骨喰藤四郎はすこし可笑しかった。しかし笑みを浮かべることはなく、鯰尾藤四郎へ真摯な眼差しを向け──、
「──言いたいことが、あるんだ」
そう、告げた。