記憶の随に 伍
鯰尾藤四郎は呆然と馬小屋の入口を見つめていた。そこに立つ銀髪の少年は、この五日間避け続けてきた人物で。
五日間聞いていなかった彼の声に自身の名を呼ばれ、鯰尾藤四郎はなんで、と呟いた。
なんで、骨喰藤四郎がここにいる?
なんで、自分に声をかけてきた?
なんで──そんなにも強い意志を持った瞳で、自分を見ている?
「──言いたいことが、あるんだ」
静謐な声でそう告げられ、鯰尾藤四郎はびくりと体を震わせた。聞きたくない。反射的にそう思った。この場からすぐに逃げ出したくて、しかし唯一の出入り口には骨喰藤四郎が佇んでいる。その紫眼が、自分を捉えている。
「鯰尾、俺は──」
「聞かない」
骨喰藤四郎の言葉を、鯰尾藤四郎は反射的に声を上げて阻んだ。デッキブラシを握る手に汗が滲んでいる。
嫌だ。聞きたくない。骨喰藤四郎の口から否定の言葉が聞きたくなくて、鯰尾藤四郎はこれまで彼を避け続けてきたのだ。それなのに、どうして彼は目の前にいて、自分は逃げられなくて、彼は言葉を紡ごうとしているのか。
「……やだ。聞かない」
抑揚に欠けた声でそう言うと鯰尾藤四郎は顔を俯かせた。骨喰藤四郎の言葉から、紫眼から、逃れるように。
「だが──」
「嫌だ!!」
骨喰藤四郎が狼狽したように言い募ろうとしたのを聞いて、鯰尾藤四郎はデッキブラシを投げ捨てると両手で耳を塞いだ。からん、と音を立ててデッキブラシが床に転がる。
聞かない。聞きたくない。固く固く、願いと力を籠めて耳を塞ぐ。
──鯰尾藤四郎とて、ずっと骨喰藤四郎を避け続けていられるわけがないのはわかっている。何より、鯰尾藤四郎自身、骨喰藤四郎に謝りたいと思っているのだ。声を荒げたこと、彼の状態を慮ってやらなかったこと、今までずっと自分の理想を押し付けていたこと、その全てを。
けれど、鯰尾藤四郎は怖かった。きっと骨喰藤四郎は怒っている。骨喰藤四郎から怒りの言葉をぶつけられるのではないかという恐怖は、骨喰藤四郎への罪悪感を上回り、鯰尾藤四郎を五日間逃げ回らせた。どうしても、骨喰藤四郎と向き合うことは怖かったのだ。そしてそれは今も同じで。
こうして聞かない姿勢を示していれば、骨喰藤四郎は諦めて去ってくれる。鯰尾藤四郎はそう考えていた。
普段から骨喰藤四郎は押しの強い性格ではない。こちらが意思を曲げなければ、きっと諦めるに違いないのだ。あるいはそれは、予想ではなく願望だったのかもしれない。
──けれど。
鯰尾藤四郎の両腕は強い力で掴まれて。そうして引かれた腕は呆気なく耳から離れて行って。
「鯰尾」
聞きたくなかった──聞き慣れた声が、耳に響く。
思わず顔を上げると、そこには見慣れた骨喰藤四郎の顔が間近にあった。彼の瞳に映る自分の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「……ぁ」
離してくれと言うべきか、聞きたくないと言うべきか。予想外な骨喰藤四郎の行動に戸惑っていると、骨喰藤四郎が口を開いた。
「──今まですまなかった」
その唇から飛び出た言葉は、彼が取った行動よりも鯰尾藤四郎にとって更に予想外の一言だった。
骨喰藤四郎に掴まれた腕を振り払うことも忘れ、鯰尾藤四郎は呆然と彼を見返した。骨喰藤四郎はいつも通りの無表情で――しかし、その紫眼はいつも通り雄弁で。鯰尾藤四郎には、骨喰藤四郎の瞳に強い決意の色と、それと同等の謝意が宿されているのが判った。
しかし、解らない。骨喰藤四郎がどうして自分に謝罪をしているのか、全く解らない。
「なん……」
「俺は」
今度は骨喰藤四郎が、鯰尾藤四郎の言葉を遮るように声を上げた。
「今までずっと、鯰尾に甘えていた」
骨喰藤四郎は、落ち着いた口調でそう続けた。
「鯰尾に助けられておきながら──鯰尾の言葉を否定した」
言いながら、骨喰藤四郎がゆっくりと鯰尾藤四郎の腕を放していく。それは違う、と鯰尾藤四郎は思った。骨喰藤四郎の言うことは違う。骨喰藤四郎が謝るべきことなど何もない。そう言いたいのに、鯰尾藤四郎の唇は震えるだけで、肝心の言葉が出てこない。
「俺は多分、ずっと鯰尾に俺の苦しみまで背負わせていた」
違うと、そのたった三文字が言えればそれでいいのに、荒れ狂う胸中に反して喉はやはり凍りついたままで。代わりに、鯰尾藤四郎は小さく首を振ることしかできなかった。
「……本当に、すまなかった」
骨喰藤四郎はそう言って、深く頭を下げた。
「──ち、がう……」
自らに向かって頭を垂れる骨喰藤四郎の姿を見て、鯰尾藤四郎は喘ぐように声を発した。それを皮切りに、ようやく喉が言葉を取り戻す。
「ちがう……違う……」
何度も何度も首を振りながら、鯰尾藤四郎は一度離れていった骨喰藤四郎の腕を掴んだ。
引き止めるように、縋るように。
「……鯰尾?」
「違うんだ」
訝しげに顔を上げた骨喰藤四郎の声に被せて、鯰尾藤四郎ははっきりとそう告げた。
「骨喰が謝ることなんて、何もない。俺が、全部骨喰に押し付けてただけなんだ」
世話を焼いていたことも。過去を振り返らないことも。
「本当は、俺が一番過去に執着してたんだ。骨喰が言ってたように記憶がないことは……本当は、怖くて。でも、平気な振りをしてた……」
──それらから目をそらせば、きっと傷つかないでいられると思っていた。
骨喰藤四郎は何も言わない。顔を上げて骨喰藤四郎の顔を見るのが怖くて、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の腕に縋りながら、顔を伏せたまま続けた。
「なんとかなるって思いたかっただけなんだ……骨喰にそう言って、骨喰もそう言ってくれれば、そう思える気が、して……」
みっともなく声が震える。鯰尾藤四郎は頭のどこかでなんだか泣いてるみたいな声だな、と他人事のように思った。
「……ごめん、骨喰」
そうだ。本当に謝らなければならないのは、自分の方だ。謝罪の言葉を告げると、骨喰藤四郎が息を呑む音が聞こえた。
「……俺は、自分を安心させるために骨喰を利用してた。最低な奴なんだよ……」
──結局、鯰尾藤四郎が行ってきたことは、誰のためにもならなかった。
骨喰藤四郎を傷つけただけではない。自分にさえも、嘘をついていたことに鯰尾藤四郎は気づいてしまった。畢竟、記憶がないことは怖いままで。炎の夢は苦しくて。自分を誤魔化すことは限界で。
そのことを理解してしまった今、鯰尾藤四郎は一体、どうやって記憶が無く過去も無い恐怖と向き合えばいいのだろう。
鯰尾藤四郎は絶望的な気分のまま、ゆっくりと顔を上げた。黙したまま紫眼を戸惑いに揺らす骨喰藤四郎と真正面から見つめ合う。
──嗚呼。一体。
「……俺、どうすればいいのかな……」
泣き笑いの表情で、そう問いかけた。
──その刹那、骨喰藤四郎の瞳に再び強い意志が宿ったような気がした。
「鯰尾」
骨喰藤四郎は、鯰尾藤四郎を支えるように肩に手を添えた。
「……謝らなくていい」
労わるような優しい声音で囁かれ、鯰尾藤四郎は目を瞬かせた。言葉の通り、骨喰藤四郎の表情に怒りは微塵も浮かんでいない。
「俺も、ずっと怖かった。記憶が無いことの全てが」
「……うん」
鯰尾藤四郎は力なく相槌を打った。
知っている。だからこそ、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に自分を重ねていたのだから。
「だが、鯰尾は俺に言ってくれただろう。──なんとかなると」
鯰尾藤四郎は小さく身体を震わせる。その言葉は、鯰尾藤四郎にとって欺瞞であり──同時に、願いだった。
「その言葉のおかげで、俺は前を向けるようになった。鯰尾のおかげで、俺は過去の記憶の残りかすでは無くなったんだと思う」
言いながら、骨喰藤四郎は右手で鯰尾藤四郎の手を取った。壊れ物でも扱うかのように優しく、しかししっかりと握られる。
「──俺は鯰尾に救われた」
「……ほね、ばみ……」
意識せぬうちに、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の名を呼んでいた。骨喰藤四郎はその声にひとつ頷いた。
「だから、今度は俺が言おう」
骨喰藤四郎はそう言うと、力を抜くように口元を綻ばせた。
──それは、鯰尾藤四郎が初めて見た骨喰藤四郎の笑顔だった。
「記憶が無くても、昨日が無くても、なんとかなる」
ぽろ、と。
見開かれた鯰尾藤四郎の瞳から、雫がこぼれ落ちた。
そうだ。鯰尾藤四郎はずっとそう言っていた。そうであれますようにと願いを込めていた。
「──っ」
骨喰藤四郎に何か言いたくて、でも言葉が出てこない。その代わりに、涙だけは次々と溢れてくる。喉はしゃくりをあげるばかりで、鯰尾藤四郎は言葉どころか声を出すことすらままならなかった。
「──ぅ……」
鯰尾藤四郎は結局何も言えなくて。
骨喰藤四郎の肩口に顔を埋めて、ただひたすらに、泣いた。
──骨喰藤四郎も何も言わず、ただいつものように黙ったまま、鯰尾藤四郎のそばにいた。
一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。泣き腫らした鯰尾藤四郎はひとつ鼻をすすって、呟いた。
「──骨喰があんなに喋ったの、初めて聞いたー」
「茶化すな」
不満げに、というか少し恥ずかしそうに骨喰藤四郎が唇を尖らせるの見て、鯰尾藤四郎は微笑んだ。ひとつ息を吐いて、再び骨喰藤四郎の肩口に額を預ける。
「……ありがと、骨喰」
「──ああ」
骨喰藤四郎は相槌を一つ打って、優しく鯰尾藤四郎の背中を叩いた。そうされると、不思議と安心して全身から力が抜けていった。
思えば、人の姿を取るようになってから声を上げて泣いたのは初めてだった。顔も目もあちこち熱を持っているが、不思議と心は晴れやかで、胸のつかえが取れたような清々しさがある。鯰尾藤四郎の現在の状況は何も変わっていなくて、やはり記憶が無いことも炎の夢も怖いはずなのに。それでも確かに、鯰尾藤四郎は肩の荷が下りたような気分になっていた。
今までずっとあの言葉で自分を偽ってきたのに、骨喰藤四郎に言われたら、不思議と偽りでもなんでもなく、本当にそうあれるのではないかと思えた。骨喰もこんな気分だったのかな、と鯰尾藤四郎は胸中で独りごちた。もしもこの歓びを、自分が知らぬうちにも骨喰藤四郎に与えられていたのだとしたら、それは鯰尾藤四郎にとってひどく嬉しいことだった。
「鯰尾」
「ん?」
耳元で骨喰藤四郎に囁きかけられ、鯰尾藤四郎は顔を上げた。骨喰藤四郎は少し言い淀んだが、やがて、
「──鯰尾が頼ってくれて、嬉しかった」
ずっと、力になりたかったんだ。そう言って、言葉通り嬉しそうに骨喰藤四郎は微笑んだ。
「あ、あー……」
鯰尾藤四郎は中途半端に呻くと、骨喰藤四郎から視線を逸らすように天井を見上げた。恐らく骨喰藤四郎は、先ほどの「どうすればいいのかな」という発言のことを言っているのだろう。あれは鯰尾藤四郎からしてみれば大分恥ずかしい──というか、情けない発言であるためすぐさま忘却の彼方へと追いやりたいところなのだが、骨喰藤四郎にとっては大事な一言だったようである。確かに、今まで鯰尾藤四郎は一人でなんでも抱え込んできた。それは認めよう。兄である一期一振にすら明確な弱音は吐いたことはなかったため、ある意味初めて他人に漏らした弱音が先の発言だったわけである。しかしそうなると、益々恥ずかしく思えてくるわけで。
──加えて骨喰藤四郎が、鯰尾藤四郎に頼られたことをとても嬉しく思ったという、その事実もあるわけで。
やばい。めっちゃ照れる。
鯰尾藤四郎は顔が紅潮するのを感じて、思わず手で顔を覆った。
「どうした?」
「……さてと! それじゃあ馬当番をこなしますか!」
鯰尾藤四郎は誤魔化すように骨喰藤四郎から離れると、笑顔でそう言った。まだ顔は熱かったがそこはご愛嬌である。
そうだな、と素直に頷く骨喰藤四郎の声を聞きながら、自らが投げ出したデッキブラシを手に取ろうとして、鯰尾藤四郎は瞬きをした。よく考えると、今日の内番は本来三日月宗近と行う予定であったわけだから、鯰尾藤四郎が率先して馬小屋の掃除を務める必要はなかったのだ。しかし、この馬小屋に来たその時から、鯰尾藤四郎は無意識にデッキブラシを手にとっていた。それほど、骨喰藤四郎との日々が身についていたということなのだろう。
参ったなあ、とどこかくすぐったい気分になりながら、鯰尾藤四郎はデッキブラシをしっかりと握った。
そして肩越しに骨喰藤四郎を見やると、骨喰藤四郎は藁を手に取り、いつものように馬の毛づくろいを行おうとしていた。
「──そうだな」
「……?」
呟くと、相変わらず嬉しそうに馬と触れ合っていた骨喰藤四郎が不思議そうな顔をしてこちらを振り返る。
──鯰尾藤四郎が見る夢は、紅い。それは多分、これからも変わることはない。
その紅さも、熱さも、苦しさも、何かが崩れていく感覚も、怖いままではあるけれど。
こうして隣を見れば──誰よりも大切な彼がいる。
そのことを実感して、鯰尾藤四郎は笑った。
「記憶が無くても、骨喰がいれば、なんとかなるよな」
その言葉に、骨喰藤四郎は呆気にとられたかのように数度目を瞬かせて。
「──もちろんだ、兄弟」
そう言って、大きく頷いた。