春を迎えし

新年の目標を立てる鯰尾と骨喰の話です。


 新年だな、と。
 傍らに座す骨喰藤四郎の言葉を聞いて、鯰尾藤四郎は年を越したのだと知った。本来であれば本丸にいる皆で除夜の鐘よろしくカウントダウンを取るべきだったのかもしれないが、年の瀬を迎え大宴会が催されている本丸は、できあがった刀剣男士の手により無法地帯へと変貌していた。こうなってしまっては、果たしてこの場の何人が年越しの瞬間を噛み締めることができたのか、解ったものではない。
 そしてそれは、鯰尾藤四郎も同じだった。
「あ。もう日付変わったんだ。なんか、思ってたより普通だね」
 年越しそばをすすりながら、鯰尾藤四郎はそうぼやいた。無論、彼とて新年だから急に日付変更の瞬間が華々しくなるなどとは露も思っていなかったのだが、なんの驚きや感慨もなく迎えるものだとも思っていなかった。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が、本丸で年を越すのはこれが初めてだった。去年は、大晦日だからと言って本丸の業務が常と変わることはなく、いつものように夜からの遠征へと送り出され、いつものように日付の変更を待たずに遠征先で眠りに就いた。てっきり今年も遠征へ行かされるのだとばかり思っていたが、予想を裏切り、刀剣男士は誰ひとりとして欠けることなく本丸に顔を揃えている。
 審神者の心変わりは何故か。一説には今年──ではなく、もう去年になるのか──の元旦に、大和守安定が何気なく口にした「お正月だし、ゆっくりしたいよね」という一言が審神者の心へ大いに突き刺さったのではないか、という噂もあるが、真偽のほどは定かではない。単純に、審神者自身が休みたかっただけなのかもしれないが。
「骨喰、年越しそば、本当に俺が食べちゃっていいの?」
「いい。深夜に食事はしたくない」
「繊細だねー」
「慣れないだけだ」
 骨喰藤四郎は仏頂面でそう言った。どこか機嫌が悪そうに見えるが、おそらく眠いのだろう。普段から夜ふかしをしないどころか、布団に入ればおやすみ3秒の日々を送る骨喰藤四郎に、新年を迎えろというのは大層な苦行に違いない。それを見越した鯰尾藤四郎が、夕方にたっぷりと仮眠を取らせていなければ、この兄弟がもっと前に撃沈していたことは確実である。
 鯰尾藤四郎はせっせと箸を動かしながら、傍らの兄弟に問いかけた。
「どんな気分?」
 何が。
 声には出さず、骨喰藤四郎は視線でそう問い返してくる。
「新年を迎えて」
「兄弟は」
「俺? 年越しそば美味しい」
「俺は眠い」
「だと思ったよ」
 予想通りの返答に、思わず苦笑してしまう。
 つゆに浮かぶなるとを食み、ずずずとつゆをすすってから、鯰尾藤四郎は今一度口を開いた。
「じゃあ、新年の抱負は?」
「……抱負?」
 骨喰藤四郎が眉を顰める。それは質問に困惑したというよりは、眠気に抗っている──そんな風情だったが。
「今年の目標だよ。誉をたくさん取るとか、あのすごく早い槍よりも早く動くとか」
「兄弟は」
「前向きに頑張る」
「去年と変わらない」
「そうだっけ?」
 しれっととぼけてみたものの、骨喰藤四郎がそれ以上の追求をすることはなかった。ことの真偽はどうでもいいのだろう。骨喰藤四郎は言葉を探すように、どんちゃん騒ぎを繰り広げる大広間をしばし見渡してから、こう告げた。
「なら、俺もそれでいい」
 何も思いつかなかったらしい。
「お揃いだね俺たち。って馬鹿」
 べし、と傍らの兄弟に裏手でツッコミを入れる。
「せめて俺の真似はやめようよ。もう一声、なんかあるだろ?」
「ひとこえ」
 自分のことを棚に上げまくった鯰尾藤四郎の言葉を繰り返し、骨喰藤四郎は渋面を作った。
「骨喰の場合なら、そうだなー、早起きするとかでも良いんじゃない」
「無理だ」
 兄弟のための提案は、ものの2秒で棄却される。
 鯰尾藤四郎は、つゆまで完飲したそば丼から離した唇を骨喰藤四郎に向かって尖らせた。
「なんだよー。せっかく考えたのに」
「……」
 口先だけで抗議をし、眠気に目蓋を重くする骨喰藤四郎の頬をつついていると。
「──あけましておめでとうございます」
 ふわり、と。
 聞こえもしないのに、そんな音を聞いた気がした。
 間に入るように降ってきた声に顔を上げれば、目の前に佇むのは、柔らかな微笑みを浮かべる物吉貞宗だった。その手のひらはいくつかの猪口が乗った御盆を支えている。
「あけましておめでとー、物吉」
「……あけましておめでとう」
 鯰尾藤四郎は明るく、骨喰藤四郎は眠そうに新年の挨拶を交わす。
「これ、甘酒です。鯰尾と骨喰に」
「やった。ありがと」
 差し出された猪口を受け取って、鯰尾藤四郎は相好を崩した。
「連隊戦、お疲れ様。今年、じゃなかった、去年はソハヤさんに会えて良かったね」
 物吉貞宗とソハヤノツルキはかつての主を同じくする仲である。夏頃、審神者が鍛刀に励んだ際は惨敗を喫したため、物吉貞宗は友人との再会を長らく待たされた形となってしまった。結局顕現させるに至らなかったその時は、特に落胆した風でもなかったが、年末にようやく顔を合わせたソハヤノツルキと会話をする様子は随分と仲睦まじげだった。再会を楽しみにしていたことは確かだろう。じゃっかんとぼけたところのあるこの脇差に、自覚があったかどうかはともかくとして。
 物吉貞宗はくすりと笑みを零し、
「ふふ、そうですね。でもまだまだこれからです。あのひとを兄弟に会わせてあげたいですから」
「ふうん。ソハヤさんも兄弟に会いたがってるんだ」
「……やめろ」
 と、これは会話の傍ら、鯰尾藤四郎に脇腹をつつかれてる骨喰藤四郎の抗議の声である。
 だって寝てたら困るし、まだ寝てない、とやり取りをする鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎を気にする風もなく、物吉貞宗は優しく瞳を細めた。
「ソハヤさんは少しだけひねくれてしまっているところがあるので、口では言いませんけどね。でも、ボクには会いたがっているように見えます。兄弟に会いたくないひとなんて、いないでしょうし」
「……そう、だよね。物吉も、亀甲さんに会いたいよね」
 鯰尾藤四郎は思わず顔を曇らせた。
 亀甲貞宗。物吉貞宗、太鼓鐘貞宗とは兄弟であり、少し前から延亭の時代の新橋でその霊力が確認されている。しかし未だ、本丸に迎えるには至っていない。三池派の鍛刀で資材が削られたこと、太鼓鐘貞宗の捜索でも資材が削られたこと、何よりも、時代を超える度に力を増していく時間遡行軍に対抗できる刀剣男士──つまるところ、極となった短刀の数が少ないことから、新橋での捜索に手間取っているのが現状だ。
 戦力を整えるまでは、あまり出陣することはできない。審神者は以前、そう告げた。
 自分たちが主と仰ぐ彼の言う、戦力を整えるとはどういうことか。鯰尾藤四郎は、いや、おそらく脇差である者は皆、薄々理解している。
 ──すなわち、自分たち脇差が極になることなのだ、と。
 審神者が脇差の6振りにかける期待は大きい。特に、堀川国広、骨喰藤四郎、鯰尾藤四郎、にっかり青江の4振りは、本丸の運営が始まったばかりの頃から主力として据えられ、厚樫山やそこに出現した検非違使、果ては池田屋までを戦い抜いてきた。“刀剣男士”として戦場に立った経験は、脇差に属する自分たちが郡を抜いて多いことは間違いない。
 それでも、時間遡行軍が新たに目をつけた延亭の時代は過酷な戦場だった。統率の高い太刀や大太刀ですら刀装を残して帰城するのは難しいのだから、脇差では尚更である。鯰尾藤四郎も何度か江戸の時代へ赴いたことはあるが、装備していた特上の弓兵は、夏場のかき氷よりも簡単に溶けていった。
 今のままでは、延亭の時代では戦えない。それは鯰尾藤四郎も痛感している。
 けれど、極になるということは。
 修行に旅立つということは。
 それは──。
 黙り込んだ鯰尾藤四郎を気遣うように、物吉貞宗は右手をぱたぱたと振った。
「鯰尾がそんな顔をしないでください。正直なところ、連隊戦に手一杯で、亀甲兄さんのことは少し忘れてましたから」
「えー」
 鯰尾藤四郎と違って、物吉貞宗は良くも悪くも嘘をつかない。この言葉も、まあ本心ではあるのだろう。
 彼の言う通り、晩秋の頃から秘宝の里、連隊戦と少し特別な出陣ばかりを繰り返していたのだから無理もないが。
 なんにせよ、友人がまだ居ぬ刀に思慕を募らせて、心を痛めていなかったのはいいことだ。かつては同じく兄を焦がれる身であった鯰尾藤四郎は、しみじみとそう思う。
「それじゃあボク、他のひとにも配ってくるので」
 物吉貞宗はそう言い残し、再び大広間の喧騒の中へと戻っていく。新年早々甲斐甲斐しく働く白い背中を見送ってから、鯰尾藤四郎は猪口を持つ手にわずかに力を籠めた。中身に口をつけることも忘れ、もやを溶かしたように白く霞んだ液体に視線を落とす。
 今まではあまり考えないようにしていたが──鯰尾藤四郎も、いつかは修行へと旅立つときが来るのだろうか。
 そう自問して、何を馬鹿なと自答する。それを決めるのは全部自分自身だ。審神者は一度だって、刀剣男士を無理やり修行に行かせたことなどない。行きたいと、自ら望んだ者たちだけが修行へと旅立った。だから、もしも鯰尾藤四郎がそのときを迎えるとすれば、自分が心を決めたとき。それ以外は有り得ない。
 けれど、今この瞬間でさえ、鯰尾藤四郎は解らない。
 かつての主に会って、どうするのか。どうしたいのか。
 会いたいのか。それとも、会いたくないのか。
 ──鯰尾藤四郎の胸中には、燻り続ける想いがある。それは、もう主を失いたくないという願い。
 前の主は、そして彼との記憶は、炎に巻かれて燃えてしまった。覚えているのはどんなことで、忘れてしまったのはどんなことかすら、今の鯰尾藤四郎には判別できない。けれど“あの人”が大切な存在だったこと。その想いだけは、ずっとずっと、心の中に残っている。
 だから鯰尾藤四郎は願うのだ。もう二度と、大切な人が焼かれてしまわないように、と。
 主を想うこの感情は、使われる道具故の本能なのか、それともかつての主との思い出に根ざしたものなのか、灰を被った鯰尾藤四郎の記憶は、その答えを教えてはくれない。今の自分に残されているのは、ただひたすらの想いだけ。
 会ってしまえば、きっと、すべて解る。かつての主がどんな人物だったのか。その人と築いた思い出がどんなものだったのか。自分がこれほど“主”を大切に思う理由すらも。
 けれどそこで知る真実は、過去を失くした鯰尾藤四郎が懸命に築いてきた今の世界を、ひっくり返してしまうような──そんな記憶かもしれない。
 そう思うと、怖くて怖くて、たまらなかった。
 結局のところ、鯰尾藤四郎は覚悟ができていないだけなのだ。自らの過去に正面から向き合う覚悟が。単純な、それだけに難しい問題だった。
 ──もしかしたら。
 鯰尾藤四郎は、甘酒をちびりちびりと口に運ぶ兄弟に視線をやった。
 もしかしたら、この兄弟は自分よりも先に覚悟を決めるかもしれない。明日にも審神者に修行を願い出るかもしれない。
 もしも、そうなったら──。
「……大丈夫か?」
 不意に、骨喰藤四郎がそんな声が耳に響いた。
「え?」
「顔が暗い」
 気がつけば、骨喰藤四郎の顔が鯰尾藤四郎に向けられている。それまでの眠たげ様子を一切取り払った紫眼に見つめられ、鯰尾藤四郎は一瞬呆気に取られてしまう。
「……うそ。ほんと?」
 思わず首を傾げると、骨喰藤四郎は迷いなく頷いた。
 どうやら無意識のうちに、懊悩が表情に出ていたらしい。
「あーえっと。この1年色々あったなーって」
 極への不安を言葉にするのはなんだか憚られて、鯰尾藤四郎はつい誤魔化してしまう。愛想笑いを浮かべて──しかし、それは長くは保たなかった。骨喰藤四郎から視線を逸らして俯くと、大広間の喧騒に呑まれてしまいそうな小さな声で、呟きを漏らす。
「……これからの1年も、色々あるんだろうね。きっとまた、色んなことが変わっていく」
「変わらないものもある」
 驚いたことに、骨喰藤四郎は即座にそう切り返した。
 吐露した弱音が瞬きのうちに切って捨てられた鯰尾藤四郎は、うまく返事が出てこない。思わず骨喰藤四郎に顔を向けると、彼は先ほどまでとは変わらぬままで鯰尾藤四郎は見つめていた。ふたりの視線がぶつかり合う。兄弟の瞳に、自分の顔が映る。その顔と来たら、なるほど、骨喰藤四郎の言う通り、なんだか暗く情けない顔をしていた。
 ──きっと2年前の鯰尾藤四郎であれば、この兄弟の前では意地でも笑顔を浮かべていたのだろう。
「変わるものはある。けど、変わらないものもある。だからそんな顔をしなくていい。俺は──」
 そこまで言って、骨喰藤四郎は言葉を切った。どこか虚空へ視線をやって、もう一度鯰尾藤四郎の瞳を覗き込み、
「変わらないものあるから、俺は……」
 再び言葉は切れてしまう。骨喰藤四郎は悩むように腕を組み、ひどく真剣な様子でうんうんと唸り始めた。どうやら鯰尾藤四郎になにか伝えたいことがあるらしいが、うまく言葉に昇華できないようである。
 懸命に頭を絞る兄弟の様子がおかしくて、鯰尾藤四郎は小さく噴き出した。
「……骨喰は?」
 促すように、こちらから聞いてやる。
 すると骨喰藤四郎は、天啓を得たかのように勢いよく顔を跳ね上げた。
「決まった」
「なにが?」
「抱負が決まった」
「え、今、その話!?」
 思わず素で返してしまう。まさかとは思うが、甘酒のせいで酔っているんじゃないか、と鯰尾藤四郎の胸を一抹の不安が過ぎる。
 目の前の兄弟がそんな不安を抱えているとは露知らず、骨喰藤四郎は迷いなく唇を開いた。
「今年も、来年を鯰尾と迎える」
「──」
 ああ、と。
 鯰尾藤四郎は、天を仰ぎたい気分になった。泣きたいような、笑いたいような、不思議な心持ちである。
 ああ、そうだった。
 この2年、いつだって鯰尾藤四郎の隣には彼がいた。1年前と変わらない。2年前とも変わらない。この長い2年の間、何が変わってもそれは変わらなかった。今でさえ、鯰尾藤四郎と肩を並べてくれている。
 きっと今年も、変わらない。
 変えないと──骨喰藤四郎は約束をしてくれた。
 そう思うと、嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
「……よし!」
 鯰尾藤四郎はひとつ頷くと、未だ口をつけていなかった甘酒をぐぐいと煽る。
「なんかやる気出てきた。骨喰、今年も一緒に新年を迎えよう!」
 急に溌剌とした鯰尾藤四郎に、骨喰藤四郎は首を傾げた。
「……酔ったのか?」
「甘酒で酔ってたまるかー」
 腐っても神である。まあ、かく言う自分も似たような心配をしたのだが。
「俺も前向きに頑張るって言っちゃったし。あんまり下を向いてられないね」
 自らの言葉にうんうんと深く頷く。そして、傍らの兄弟に向かって満面の笑みを浮かべると、いつものように彼の手のひらをすくい上げた。
 今年もまた、色んなことが変わっていく。鯰尾藤四郎も変わってしまうかもしれない。骨喰藤四郎も変わってしまうかもしれない。
 けれど、この兄弟が隣にいてくれること。それさえ変わらなければ、鯰尾藤四郎はきっと平気だ。
 根拠なんてありはしない。強いて言うなら、この2年間がその証である。どんなことでもどんな戦いでも、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎と共に行ってきた。そうしてふたりの今がある。
 ──そしてそれは、これからも。
 結んだ指先に願いと力を籠めながら、鯰尾藤四郎は囁くように寿いだ。

「今年もよろしくね、兄弟」
「──ああ。兄弟」