パラダイムシフト

骨喰が鯰尾の看病をする話です。


 その日は朝から世界が揺れていた。

 鯰尾藤四郎は起き上がって、まず、それまで自分が寝ていた布団が曲がったような不安定な感じを受けた。おかしいな、と思いつつ鯰尾藤四郎は立ち上がり、踏みしめた部屋の畳が厚いスポンジのように柔らかく感じられて、やっぱりおかしいと思った。
 けれどそれらが何を示すのか、鯰尾藤四郎は深く考えなかった。思考がまるで靄がかかったかのようにぼんやりとしていたため、考える気が起きなかったとも言う。まあなんとかなるよね、と鯰尾藤四郎はいつも通り軽く考えて、いつも通り着替えを始めた。
 寝間着を脱いで、いつも通りの黒灰色のシャツに腕を通し、黒のスラックスを履く。なんだか体が熱い気がするが、まあどうということはない。浮ついた世界と同じくらい浮ついた頭のまま、鯰尾藤四郎はネクタイを締めた。
 髪を纏めようと長髪に手をかけたところで、寝室の扉が開かれる。何の気なしにそちらへ視線をやると、もう完全に着替えまで終えた堀川国広が部屋へと入ってきた。
「あ、おはよう、鯰尾」
 そう挨拶する堀川国広が右手に手ぬぐいを持っているのを見て──洗面所へ行ってきたのだろう──、鯰尾藤四郎は内心でしまったと思った。着替える前に顔を洗うべきだった。というか、普段はそうしているのに今日は何故か着替えを先にしてしまった。
「骨喰はまだ寝てるんだね」
 堀川国広は、手ぬぐいを備え付けられた物干し台にかけながら、未だ丸まっている唯一の布団へ視線をやった。
 脇差の寝室には、それぞれ右端と左端に二段寝台が取り付けられている。部屋の入り口から見て、右の二段寝台をにっかり青江と堀川国広が、左の二段寝台を骨喰藤四郎と鯰尾藤四郎が使用していた。余談ではあるが、上段を使用しているのはにっかり青江と骨喰藤四郎だ。
「まあ、骨喰だからね」
 苦笑しながら、鯰尾藤四郎はそう言う。骨喰藤四郎は脇差の中でも随一の朝の弱さを誇っていた。
「骨喰、もうすぐ朝ご飯だよ」
 堀川国広が寝台の横に立って、骨喰藤四郎へそう声をかける。しかし返事はない。堀川国広はひとつため息を吐くと、寝台にかけられた梯子へ足をかけて骨喰藤四郎の眠る寝台へ上がった。そして、今度は布団を揺すりながら同じ言葉をかける。すると今度は、返事なのか文句なのか、小さい呻き声が布団の間から漏れ聞こえる。これもいつも通りの風景だった。
 鯰尾藤四郎は寝間着を畳みつつ、反対側の空いた寝台へ視線をやった。
「そう言えば、にっかりさんは?」
「さっき洗面所にいたよ」
 答えながら、堀川国広は淀みが無ければ遠慮も無い手際で骨喰藤四郎の布団を引き剥がした。骨喰藤四郎は布団の中で子猫のように丸まっていたが、布団を引き剥がされるとさすがにうっすらと目を開けた。それから実に億劫そうに上半身を起き上がらせ、朝に似つかわしい爽やかな笑みを向ける堀川国広を不機嫌に睨んだ。
「おはよう、骨喰」
「………………おはよう」
 渋々、と言った感じで朝の挨拶を交わす。
 骨喰藤四郎は瞼をこすりながら、堀川国広に続いて寝台から降りてくると、鯰尾藤四郎へ視線を留めた。鯰尾藤四郎はその視線を受けると、兄弟へと微笑みかける。
「おはよー、骨喰」
「……どこか悪いのか?」
 寝ぼけ眼のままの骨喰藤四郎に突然そう言われ、鯰尾藤四郎はぽかんと口を開けた。堀川国広も驚いたように目を丸くしている。
 鯰尾藤四郎は首を横に振った。纏めていないままの長髪が動きに合わせて広がる。
「別に。何で?」
「なんとなく」
 なんとなく。最強の理論である。起き抜けに一体何を言い出すのか、と鯰尾藤四郎は内心で脱力した。あるいは起き抜けだから、かもしれないが。
 しかし。
「──たしかに、なんだかちょっと顔が赤くない?」
 堀川国広から骨喰藤四郎の援護射撃を繰り出され、鯰尾藤四郎は、え、と声を上げた。
「うそ。全然平気だけど」
「熱でもあるんじゃないの?」
 堀川国広が心配そうな視線を向けてくる。
「いや、熱なんて無いよ」
 堀川国広に向かって鯰尾藤四郎は手を振って──

 その額に、ひたり、と冷えた掌が背後から回される。

「──ああ、これは熱があるね」

「うひいいいいいいいい!?」
 耳元でぼそりと囁かれ、鯰尾藤四郎は悲鳴を上げながらその場から慌てて飛び退いた。振り向けば、それまで自身がいた場所に、にっかり青江が熱を看ていた姿勢のままで佇んでいる。
 にっかり青江は薄い笑みを浮かべた。
「そんな幽霊に会ったみたいな声を上げなくても」
「幽霊みたいな計り方するからでしょがっ!!」
 心の底から絶叫する。
 鯰尾藤四郎はにっかり青江の入室にも、背後に立たれたことにもまるで気が付かなかった。恐るべしにっかり青江!鯰尾藤四郎は内心──で戦慄する。
「まあそれはさておいても、鯰尾君、結構熱がありそうだよ。今日は休んだ方が良いんじゃないかな?」
 熱を計った右手をひらひらと振りながら、にっかり青江はそう言った。
「いやいやいやいや別にいつも通りだし──」
「背後に回った僕に気が付かない時点で全然いつも通りじゃないよ」
「うっ!?」
 思わず呻く鯰尾藤四郎。
「でも、それはにっかりさんがすごいとかで」
「確かに僕はすごいけど」
 と、にっかり青江はあっさりと認めてみせた。
「でも鯰尾君、僕が部屋に入ってきたことにも気が付かなかっただろう? 堀川君と骨喰君は気が付いていたよ」
「えっ──」
 鯰尾藤四郎は絶句した。確認を取るように堀川国広と骨喰藤四郎へ視線を送ると、二人とも首を縦に振る。
「……今日は出陣やめておいた方が良いんじゃない?」
 堀川国広が案じるようにそう言った。口を出してはこないものの、骨喰藤四郎も物言いたげに鯰尾藤四郎に視線を向けている。
 鯰尾藤四郎は、なんだか落ち着かない気分になった。人から心配されることは、どうにも据わりが悪い。
 そんな内心の動揺を隠すように、誤魔化すように、鯰尾藤四郎は笑顔を浮かべた。
「──ま、なんとかなるって」
 いつも通り軽くそう言うと、視界の隅で銀色が動いた。
 ──そう思った瞬間、鯰尾藤四郎の天地はひっくり返った。天井が視界いっぱいに広がって、そのことに気が付いたときには鯰尾藤四郎は背中から寝台に転がされていた。ぐふ、と口から肺の空気が少し漏れる。
 倒されたところでようやく、足払いをかけられたと鯰尾藤四郎は気が付いた。上段の寝台へ頭をぶつけなかったことも驚きだが、寝台へうまいこと転がされたことも驚きであり──角度が計算された、実に巧みな足払いだった──、何より足払いをかけられたその事実が驚きだった。色んな驚きを込めて横を見れば、半眼になった骨喰藤四郎がこちらを冷えた目で見下ろしている。
 ──あ。やばい。
 鯰尾藤四郎は内心で冷や汗をかいた。これは、怒っている顔だ。
「……国広。今日の鯰尾の出陣は無しだ」
「え、あ、うん」
 さすがに突然の足払いには堀川国広も驚いたようで、骨喰藤四郎に声をかけられると目を白黒させながら首肯した。
「俺は主にそう伝えてくる。鯰尾を頼んだ」
 そう言って、ずんずんと扉の方へ進む骨喰藤四郎の背中に、鯰尾藤四郎は慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待った待った!」
「寝てろ」
「あっはい」
 こちらを振り返ることもなく冷えた声で告げられて、鯰尾藤四郎は大人しく布団に横になる。骨喰藤四郎は部屋の扉を開けながら、鯰尾藤四郎に冷たい一瞥をくれた。
「兄弟が笑って言う『なんとかなる』は、信用ならない」
 音を立てて扉が閉められる。鯰尾藤四郎はぼーぜんと今や物言わぬ扉へ視線をやり、それから相部屋の二人へ助けを求めるように視線をやった。
「どうしよう。骨喰が怒ってる」
 それは、割と本気の相談だったのだが。
「……まあ、大人しく寝てるしかないんじゃないかな?」
「同感」
 にっかり青江と堀川国広の両名は、薄情にも笑ってそう言ったのだった。





 なんとはなしに寝苦しさを覚えて、鯰尾藤四郎は覚醒した。うっすらと目を開ければ、ぼやける視界に天井、というか上段の寝台の裏側が見える。
 結局あれから堀川国広によって布団へ寝かしつけられて、そのまま意識を失ってしまったようである。あっさりと意識を手放す程度には体は疲弊していたということなのだろう。寝台に横になったままで室内に視線をやると、誰もいない部屋の中、微かな音を立てて秒針を刻む掛け時計が目に付いた。起床した時間から既に4時間ばかり経っている。普段ならもうとっくに出陣している時間だ。
 上半身を起こすと、やはり世界は揺れていた。それもさっきより確実に悪化している。起き抜けの時は自分の体調が悪いなど思いもしなかったが、こうしていると自分の不調がしみじみと感じられる。頭は重いし体は熱いし視界はぼやけている。神でも体調が悪くなるんだな、と鯰尾藤四郎はどこか暢気なことを考えた。
 しんと静まりかえった部屋を見回して、鯰尾藤四郎は少し心細くなった。普段はほとんど気にならない時計の秒針の音だけが、その存在を主張している。
 今頃、骨喰たちはどうしているのだろう。鯰尾藤四郎は熱で朦朧とする頭を支えるように右手で抑えながら、そんなことを思った。堀川国広とにっかり青江は普段から異なる部隊に配属されているため、動向を気にするのは今更と言えば今更なのだが、今日だけは妙に気になってしまう。何より、自身の兄弟である骨喰藤四郎の動向は、無性に気になった。
 ひとりでも彼は大丈夫だろうか。怪我をしていないだろうか。そんな、骨喰藤四郎への心配と同時に。
 ──自分のことを気にしているのではないだろうか。いや、もしかしたら自分のことなど気にせず、いつも通り淡々と出陣しているのではないか。そんな、不安が心に沸き上がる。
 鯰尾藤四郎としては、気にされるのは少し居心地が悪い。けれど、それと同じくらい、骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎を気にしていないことは嫌だった。つまりどうして欲しいのかは、鯰尾藤四郎自身にもよくわからないのだが。
 ただ、はっきりわかっていることはある。
 ──今、この部屋にひとりでいるのは。
「……なんか、さびしいなあ」
 熱を持った吐息と共に、弱音を吐き出すと。
「──起きたか」
 扉を開ける音に声を乗せながら、骨喰藤四郎が部屋へと入ってきた。鯰尾藤四郎は目を丸くして、兄弟を見つめた。
「……ほねばみ? なんで?」
「今日は、俺も出陣が無くなった」
 いつも通り、淡々とした口調で告げられる。右手に湯気の立つ桶を抱えながら、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎の寝台の横に腰を下ろした。
 鯰尾藤四郎たちが使用している二段寝台には、下に引き出しが備え付けられており、そこに着替えなど収納している。つまり、引き出しの分だけ下段の寝台も少々高くなっていた。
 普段並んで立つときよりも低い位置にある骨喰藤四郎の頭を見下ろしながら、鯰尾藤四郎は重ねて問う。
「なんで?」
「……主が、俺も休みで良いと」
 骨喰藤四郎自身も戸惑っているのか、眉を顰めてそう言う。
 主の考えはよくわからないが、これは鯰尾藤四郎にとって僥倖だった。骨喰藤四郎がこの部屋にいることが、無性に嬉しい。寂しいと口に出してしまった分、余計に──
 ふと。鯰尾藤四郎は固まった。
 もしや、骨喰藤四郎に、先ほどの呟きが聞かれていたのではないだろうか?
 ただでさえ熱のせいで熱い顔が、さらに熱くなった気がする。
「骨喰」
「なんだ」
「……聞いてた?」
 掛け布団を握りしめながら、おそるおそるそう聞くと。
「なにがだ」
 不思議そうに問われて、鯰尾藤四郎はひとまず安心した。
「顔が赤い」
「熱があるからね」
 骨喰藤四郎に真顔で指摘されて、鯰尾藤四郎は笑顔でそう返答する。が、その言葉を聞いた骨喰藤四郎は心配そうに顔を歪めた。しまった、と内心で後悔する。徒に骨喰藤四郎を心配させるような言葉を吐いてしまった。
「──とりあえず、着替えろ」
 そう言って骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎に寝間着を差し出した。
「熱があるときは汗を吸いやすい服が良いらしい」
「そうなんだ」
 鯰尾藤四郎は感心した。
 現在、鯰尾藤四郎が着ているのは普段出陣する際の服だ。骨喰藤四郎に転がされたその時のままで寝ているから当然なのだが。上はネクタイ、下はスラックスと来れば寝心地はまあ、そりゃ良くない。汗を吸いやすい云々をさし置いても、何にせよ着替えた方が良いだろう。
「寝間着に着替える前に、汗を拭っておけ」
 骨喰藤四郎は言いながら、湯が張られた桶から取り出した手ぬぐいを絞った。
「食欲はあるか」
「あ、うん」
 体調が悪いとは言え、鯰尾藤四郎の食欲は思いの外落ちていない。何より、三食摂る習慣がついているため、なんとなく食べなければ落ち着かなかった。
「食事を取りに行ってくる」
 言外に、その間に着替えておけという意味が込められているのだろう、温かい手ぬぐいと着替えを手渡され、鯰尾藤四郎は大人しくそれを受け取った。口を挟む暇が無かったとも言う。
 てきぱきと世話を焼く骨喰藤四郎の姿を見て、鯰尾藤四郎はひとつ瞬きをした。
 骨喰も、意外としっかりしてるんだ。



 骨喰藤四郎が部屋へと戻ってきたとき、その手には土鍋が握られていた。鯰尾藤四郎の寝台の傍らに再び座すと、骨喰藤四郎は無言で土鍋から黄金に色づく卵粥をよそり、鯰尾藤四郎へ差し出した。
「ありがと」
 湯気の立つ粥に何度か息を吹きかけてから、鯰尾藤四郎は粥を口に含んだ。
「……あー、おいし」
「そうか」
 ほふ、と気の抜けた吐息と共に呟くと骨喰藤四郎が相槌を打つ。
「なんか、いつもより薄味な気がする」
 鯰尾藤四郎はせっせと粥を口に運びつつ、何の気なしに感想を漏らした。
「病気の時はその方が良いんだ」
 あっさりと骨喰藤四郎が答える。鯰尾藤四郎は口の中の粥を嚥下して、骨喰藤四郎へ顔を向けた。
「……骨喰、なんか詳しくない?」
 骨喰藤四郎は空になった椀を鯰尾藤四郎の手から取り上げると、再び土鍋から卵粥をよそいながら、
「主から色々聞いた」
 そう言われて鯰尾藤四郎は得心が行った。人型を取るようになって日の浅い刀剣男士だらけのこの本丸、病気に対して有効な対処法を一番知っているのは他ならぬ審神者だろう。
 ──鯰尾藤四郎は知る由もないが、本丸では熱を出した鯰尾藤四郎をどう世話するかで、実は意見が割れていた。手入れの時のように憑代となっている刀の姿に戻ってもらい、冷却水にでもつけておけば熱が下がるんじゃないか、などという荒業すぎる提案も上がったりしたのだが、結局人型のまま看病するのが一番だろうという意見に落ち着いたのだ。その上で、骨喰藤四郎は審神者に熱を出したときの対処を詳しく聞きに行ったのである。
 納得する一方で、主の名前を聞いた鯰尾藤四郎の心臓は少し跳ね上がった。結局鯰尾藤四郎は出陣ができなくなってしまい、それに骨喰藤四郎を巻き込んだ。その上、自分で報告にすら行けていない。
「……主、怒ってた?」
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎から視線を逸らすと、囁くような声で問いかけた。
「いや、笑っていた」
「わらっ!?」
 思わず骨喰藤四郎の方を振り向いて声を上げる。骨喰藤四郎は卵粥の入った椀を鯰尾藤四郎に差し出しながら、顔色一つ変えずに続けた。
「刀も熱を出すんだなと」
「確かに俺も似たようなことを思ったけども!」
 笑われるのは、それはそれで複雑な鯰尾藤四郎である。
「……まあ、怒られるよりはいいかなあ」
 ため息を吐きながら、鯰尾藤四郎は卵粥を口に含んだ。
「──主は怒っていなかったが」
 骨喰藤四郎が半眼になる。
「俺は怒っている」
「う」
 先ほどの足払いや冷えた視線を思い出して、鯰尾藤四郎は呻いた。目が覚めてからは怒った様子を見せていなかったため、もう忘れたかと思っていたのだが、そうは問屋が卸さないようである。
「何故いつも強がる」
「……いやー、強がってるつもりは、ないんだけど」
 刺さるような視線を感じながら、鯰尾藤四郎は誤魔化すように粥を頬張る。ただでさえ薄味な卵粥は、何故か輪をかけて薄味に感じられた。
「ていうか」
 ひとまず粥を飲み下してから、鯰尾藤四郎は口を開いた。鯰尾藤四郎にも言い分はある。
「普通に考えて、休むのはまずいだろ。編成とか変わるし」
 実際のところ、今日鯰尾藤四郎が休んだことで編成に変更があったのはまず間違いないだろう。鯰尾藤四郎はなまじっか第一部隊──厚樫山ピクニック部隊と呼ばれることもある──に所属しているため、出陣回数が多く、その分鍛えられている。その穴を埋める人員は、そう数が多いわけではない。ましてや骨喰藤四郎までこうして休んでしまっている。
 それを気にするな、というのは土台無理な話であった。
「みんなに、迷惑が掛かるから」
「鯰尾は、他のやつが休んだらそう思うのか」
 その言葉に、鯰尾藤四郎は慌てて首を振った。
「まさか、思うわけ無いよ」
「周りも一緒だ」
 淡々とした声で告げられ、鯰尾藤四郎は返答に詰まった。
「体調が悪いときくらい、自分のことだけ考えろ」
「……だって……」
 骨喰藤四郎の視線から逃れるように、顔を俯かせる。
 何と言っていいのか、よくわからない。鯰尾藤四郎は、人を頼ることが無性に苦手だった。苦手というよりも、嫌っていると言った方が良いだろう。
 人を頼るということは、自分の弱さを見せるということだ。他人に限った話であれば、それが悪いことだとは鯰尾藤四郎も思わない。たとえば、骨喰藤四郎が弱さを見せれば、鯰尾藤四郎は力になりたいと思う。頼ってくれれば、嬉しいと思う。
 だが、鯰尾藤四郎はそれが出来ない。どうしても声を上げることが出来ない。
 ──鯰尾藤四郎は、普段から「なんとかなる」と言って、過去が無い恐怖を誤魔化していた。あるいは、それが何においても癖になってしまったのかもしれなかった。
「──いつも、そうだ」
 まるで鯰尾藤四郎の胸中を見透かしたかのように、骨喰藤四郎が呟いた。鯰尾藤四郎は思わず骨喰藤四郎へ視線を向ける。
 しかし、骨喰藤四郎はその顔を俯かせていて、鯰尾藤四郎と視線が合うことはなかった。そのことが、何故か今は無性に悲しい。銀糸のような髪が、微かに彼の顔に影を落としている。
「俺は兄弟の『なんとかなる』という言葉は好きだ」
 そう、静かに言う。
「だが、鯰尾が『なんとかなる』と言って誤魔化すのは、大嫌いだ」
「……ごめん」
 普段はあまり感情の出ないその声が、少し震えているように聞こえて、鯰尾藤四郎は素直に謝罪した。
 骨喰藤四郎はやはり視線を合わせないまま、膝に乗せた拳を堅く握った。

「──少しは心配を、させてくれ」

 その言葉を聞いて、鯰尾藤四郎は思わず息を呑んだ。そうだ。鯰尾藤四郎は、骨喰藤四郎が弱さを見せれば、力になりたいと思っている。頼ってくれれば、嬉しいと思う。

 ならば、目の前の骨喰藤四郎も、それは同じなのではないか?

「……うん。ごめん」
 申し訳なさと。戸惑いと。嬉しさと。色んな感情がない混ぜになったままに謝罪の言葉をこぼしながら、鯰尾藤四郎は、惹かれるように傍らの兄弟の頬へ手を伸ばした。
「──泣かせてごめん」
「泣いていない」
 即答する骨喰藤四郎の頬を、透明の雫が滑り落ちていく。
「うん。ごめん、骨喰」
 鯰尾藤四郎は熱を持った掌で、雫を拭った。
「──もう、寝ろ」
 骨喰藤四郎は誤魔化すようにそう言うと、鯰尾藤四郎の手にある椀をひったくった。それからごしごしと自分の袖で顔を拭い、顔を上げて鯰尾藤四郎としっかりと視線を合わせる。
「泣いていない」
「うん、そうだね」
 思わず、笑いながらそう返す。骨喰藤四郎はどこか不満げな表情になった。
 これ以上身を起こしていると色んな意味で骨喰藤四郎が怒りそうだったので、鯰尾藤四郎は大人しく布団へ横になった。そうして寝転がると、空腹が満たされたからか、起きたばかりであるはずなのに心地よい眠気が鯰尾藤四郎を包んでいる。
 力を抜くように深く息を吐きながら隣へ視線をやると、骨喰藤四郎は食事の後かたづけをしていた。おそらく食器類を纏めて、台所へ持って行くつもりなのだろう。鯰尾藤四郎は、普段ならば、あるいはほんの数分前ならば引き留めることはせずにそのまま見送っていたに違いない。
 けれど、今は。
「……骨喰」
 布団から少し手を出して、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の手に触れた。
 ──少しだけ、素直になってみよう。そう思うのは、泣かせてしまった負い目なのか、彼の気持ちが嬉しかったからなのか、それはよくわからないが。
 目を丸くしてこちらを見返す兄弟に、鯰尾藤四郎は微笑みかけた。
「ひとりだと寂しいから、そばにいて欲しいな」
 ──その言葉を聞いた骨喰藤四郎は、ひとつ瞬きをして。
 返事の代わりに、伸ばされた掌を強く握り返した。
 




 明けて翌日。起き上がって世界が揺れていないことを確認し、鯰尾藤四郎はおお、と感動した。昨日の養生の甲斐あって、体調は万全のようである。
 いつも通り顔を洗って、いつも通りの出陣服に着替えて、髪を纏める。そうすると自然と背筋が引き締まるような気がした。
「あれ、鯰尾、もう大丈夫なの?」
 洗面所から戻ってきた堀川国広が、着替えを終えた鯰尾藤四郎を見て声を上げた。
「うん、もう大丈夫」
「……本当に? 鯰尾、いつも無理するからなあ」
 堀川国広に疑わしげにそう言われ、鯰尾藤四郎は苦笑した。まさか、骨喰藤四郎だけでなく、堀川国広にまでそう思われていたとは。
 鯰尾藤四郎を見てくれている人は、自分で思っているより多かったようである。
「本当に大丈夫だよ」
 言って、鯰尾藤四郎は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「無理したら、また足払いが飛んでくるからね」
 堀川国広はその言葉を聞くと、そっか、と呟きながら微笑みを浮かべた。それから、未だ丸まっている唯一の布団へ視線をやると、
「……その足払いの人は、まだ寝てるみたいだけど」
「うん、俺が起こすー」
 鯰尾藤四郎は宣誓するように右手を挙げた。昨日とは正反対に軽い体で梯子を上る。
 そして布団の上に仁王立ち──は無理なので、膝立ちになると、骨喰藤四郎の掛け布団に両手をかけた。

「骨喰、おはよー!!」

 元気いっぱいにそう言いながら、鯰尾藤四郎は布団を一気に引き剥がした。