きみ待ち人

待つ人と待たせる人の話です。


 頭上にぴちょんと水滴が落ちてきて、鯰尾藤四郎は歌を紡いでいた唇を閉じた。
「つーめたーいぞー」
 文句なんだか歌なんだか自分でもよくわからないままに、適当な旋律に乗せて天井へ苦情を吐く。狭い風呂場にうわんと鯰尾藤四郎の声が反響した。もちろん返事などあるわけはないのだが、そこは気分というものだ。審神者もよく「でんしれんじ」とかいう機械が音を出すと、はいはい、とかなんとか言っている。
 ふうと一つ息を吐いて、鯰尾藤四郎は改めて温かい湯に包まれた全身を弛緩させた。
 近頃、時間遡行軍が頻繁に出現するようになった池田屋での戦闘は手傷を負いやすい。今日も今日とて池田屋へ出陣し、そして帰ってきた鯰尾藤四郎は中傷を負っていたため、すぐさま手入れ部屋へ押し込められた。鯰尾のところのカーブは気を使ってくださいねと冗談めかして審神者に告げたら、言ってる場合かと呆れられたが。
 手入れ部屋とは実に不思議なものである。普段使われている大浴場では、あちこちに負った刀傷に風呂の湯が実にしみた。けれど手入れ部屋はそんなことはなく、むしろ湯に触れた傷はじんわりと心地の良い熱を帯びて癒されていくのだった。普段の入浴ですら気持ちが良いのに、手入れ部屋のそれは輪をかけて快適だった。手入れの原理は鯰尾藤四郎の知るところではないのだが、気持ち良いならそれでいいよね、と楽観的に捉えている。
 もっとも、過ごしやすいのは個室のせいもあるかもしれない。鯰尾藤四郎は狭い湯船に寄りかかりながら、ぐるりと手入れ部屋を見渡した。
 刀剣男士が日々の入浴で使用する大浴場は、その名の通り広い。十人以上でも余裕で同時に利用できる。それに反して手入れ部屋は、狭い個室に小さい湯船が申し訳程度に備え付けられているだけの浴室であった。太刀以上の刀剣男士になると、手入れ部屋は狭いと愚痴をこぼしているが──例外は蛍丸くらいものだ──、脇差たる鯰尾藤四郎にはむしろ丁度いい大きさであった。ゆったりと足を伸ばせるし、深さも適当だ。その上個室とくれば、鼻歌のひとつでも歌いたくなるというものである。
 脇差で良かったとその快適さを噛み締めながら、鯰尾藤四郎は肩まで湯に浸かった。右肩に走った傷がほのかに熱を持って癒えていく。
 ぷかりと自らの黒髪が湯の上を漂っているのを見て、鯰尾藤四郎は思わずそれを凝視した。
 手入れ部屋と大浴場の違いはまだある。普段の入浴の際は、鯰尾藤四郎はこの長い黒髪を非常に持て余していた。というのも、長髪はどうも乾きにくくて困るのだ。
 しっかり拭かないと冷えて風邪をひくよと一期一振には言われているし、弟の乱藤四郎などはものすごく気を使って髪を乾かしているようだが、鯰尾藤四郎はいつもそこそこに済ませてしまっていた。入浴が遅くなったときは、髪を乾かすのが面倒で生乾きのまま床に就くことも少なくない。
 ──そのことを加州清光に言ったら、意味わかんない、そんな適当で何そのキューティクルと怒られた(?)のだが、それは置いておくとして。
 ともかく手入れ部屋は、手入れが終了すると自動的に髪も乾いてしまう。不思議と言えば不思議ではあるが、手入れが終わってすぐの出陣がざらにあることを鑑みれば、お手軽でいいのかもしれない。まだ髪が乾いてないからちょっと待ってなどと悠長なことをやっている暇はないし、濡れたまま出陣というのもなんだか間抜けな話である。やはり原理はよくわからないが、鯰尾藤四郎からすれば髪を乾かす手間が省けて有難い。
 あまりに長髪が煩わしい時は、いっそ兄弟である骨喰藤四郎くらいに短くしてみようかと考えることもある。けれど、付喪神である自身の身を省みると迂闊に手を入れるのは躊躇われた。まさかとは思うが断髪することで刀身が短くなったり、あるいは欠けたりしたらとんでもない。加えて、それが傷と判断されて手入れをしたらはい元通り、などということになっても意味がない。まあ要するに、鯰尾藤四郎はこの長髪とどこまでも付き合わねばならないのだろう。
「嫌なわけじゃないんだけどね」
 苦笑しながら独りごちた鯰尾藤四郎の脳裏に、ふと骨喰藤四郎の銀髪が思い浮かぶ。彼の髪は、日中は陽光を反射して、夜は月光を反射して白銀色に輝く。鯰尾藤四郎の髪ではとてもああはならない。決して自分の髪が嫌いなわけではないのだが、骨喰の髪は綺麗だと、鯰尾藤四郎は常日頃から憧憬を抱いていた。
 加えて骨喰藤四郎の髪は触り心地も良かった。猫っ毛というのだろうか、綿に触れているかのような柔らかさと絹のような指通りの良さを兼ね備えたあの感触が好きで、鯰尾藤四郎はよく触らせてと頼んでいた。出会った当初の骨喰藤四郎は、それはそれは嫌そうな眼でこちらを見たものだったが、最近はされるがままになっている。慣れたのか、はたまた諦めたのかは定かではないが。
 骨喰。兄弟の名を口の中で呟いて、鯰尾藤四郎は手入れ部屋の壁に視線をやった。そこには手入れにかかる残り時間が表示されている。残り2時間。鯰尾藤四郎は渋面を作った。
 骨喰藤四郎は、いつも鯰尾藤四郎の手入れが終わるのを待っている。手入れ部屋に一番近い縁側に腰掛けて、ただひたすらに鯰尾藤四郎が手入れ部屋から出てくるのを待つのが骨喰藤四郎の習慣だった。きっと今日も彼は、鯰尾藤四郎の手入れが終わるのをひとり待ち続けているのだろう。何分でも、何時間でも。
 鯰尾藤四郎は少し前に一度だけ、そんなことをしなくてもいいと骨喰藤四郎に言ったことがあった。何時間も待たせるなど、鯰尾藤四郎にはまるで骨喰藤四郎の時間を奪っているように思えた。しかし骨喰藤四郎はいつも通りの無表情で、俺が待ちたいだけだとはっきり告げた。そう言われてはこちらが頑なにやめさせるのも躊躇われて、鯰尾藤四郎は結局骨喰藤四郎の好きにさせることにしたのだった。
 ──というのは、半分は本当で半分は建前である。
 骨喰藤四郎を止めないのは、彼の意志を尊重した、それだけの理由ではない。
 骨喰藤四郎がしたいならそれでいいと思った。それは確かだ。確かではあるが──本当は、鯰尾藤四郎も骨喰藤四郎に待っていて欲しかったのだ。
 手入れ部屋から出てきた鯰尾藤四郎に、終わったか、と僅かに口元を緩めながら骨喰藤四郎が言ってくれるその瞬間が、鯰尾藤四郎は無性に好きだった。何故かなど鯰尾藤四郎にもわからないが、好きなものは好きだから仕方がない。
 骨喰藤四郎が待っていると思うと、あんなにも快適だったはずなのに、どうしてか湯船に浸かっていることが急に落ち着かなくなる。早く終わればいいのに。そう願いを籠めて時計を見ても、表示が変わる速度は一定だった。





 手入れ部屋から出てくると既に辺りは夕焼けに包まれていた。西の空の山間を見れば、朱色の太陽がその身をゆっくりと沈めようとしている。
 出陣から戻ったのは八つ時を過ぎた頃だった。手入れにかかった時間と日の落ち方から見て、そろそろ夕餉の時間が近いかもしれないと鯰尾藤四郎は適当にあたりをつけた。ほんの数時間で手入れが済むのは脇差ならではというか、太刀や大太刀ではこうはいかないだろう。
 骨喰を長く待たせるようなことが良かったと脇差である利点を再び噛み締めながら、鯰尾藤四郎は夕日に染まった縁側で兄弟の姿を探す。
「──あ」
 小柄な背中を目に留めて、鯰尾藤四郎は思わず声を漏らした。いつもの場所に骨喰藤四郎は腰掛けていた。
「お待たせー」
 そう声をかけると、骨喰藤四郎は首を巡らせてこくりと頷く──はずだった。鯰尾藤四郎は首を傾げる。今日の骨喰藤四郎は、縁側の柱に自身の身をもたれかからせたまま身じろぎもしない。
 骨喰、と兄弟の名前を呼びながら鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の隣に膝をついた。覗き込んだその瞳は閉じられていて、耳を澄ますと健やかな寝息が耳に届く。
 どうやら眠っているらしい。その様が珍しくて、鯰尾藤四郎は思わず苦笑した。
 ──本当は起こすべきなのだろうが、鯰尾藤四郎はここぞとばかりに骨喰藤四郎の寝顔をまじまじと見つめた。
 藤四郎は兄弟が多い分、兄弟の中でも似ている者もいれば似ていない者もいる。そんな中で鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎と一番似ていると、兄弟のみならず周りからも太鼓判を押されていた。しかし鯰尾藤四郎にしてみれば、骨喰藤四郎とそれほど似ている気はしない。だからと言ってほかの兄弟と似ているかと言われると、それも違う気はするのだが。
 今は閉じられている骨喰藤四郎の瞳は、色こそ鯰尾藤四郎と同じものの、その形は猫を思わせるように少し吊り上がっている。すっとした鼻梁といい慎ましやかな薄い唇といい、全体の造りとして骨喰藤四郎の顔は鯰尾藤四郎より涼しげだ。鯰尾藤四郎はそんな骨喰藤四郎の顔が、自身のそれよりもずっと好きだった。
 そして、なにより。鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の銀髪に視線をやった。
 夕日を受けた骨喰藤四郎の銀髪は、今は夕日を反射して紅く色づいている。ただ夕焼けを照り返しているわけではなく、その髪に浮かぶ色彩は夕焼けの赤と彼の銀とが混ざり合った淡い茜だ。骨喰藤四郎の髪はこんな色にもなるのだと鯰尾藤四郎はこの時初めて知った。
 やっぱり骨喰の髪は綺麗だ。鯰尾藤四郎は彼を起こさないよう、小さな声でそう呟いた。
 不意に一陣の風が吹いて、骨喰藤四郎の銀髪を撫でていく。さらさらと風にそよぐその様を見て、鯰尾藤四郎は触れたいと思ってしまった。目の前の、茜を映した銀髪に。
 寝てるなら許可を取らずに触ってもいいよねと誰にともなく言い訳をして、鯰尾藤四郎はそっと骨喰藤四郎へ右手を伸ばした。
 ──その瞬間、骨喰藤四郎の瞳がぱかりと開かれた。
 長い睫毛を震わせて紫の瞳が零れ落ちる。鯰尾藤四郎は余りに驚いた。動揺しながら反射的に立ち上がり──
「っ!!」
 ごっつ、と景気のいい音を立てて背後の柱に後頭部を思い切りぶつける。一瞬、目の前に閃光が弾けた。
「〜〜〜〜〜〜っ」
 後頭部を抑えながら、鯰尾藤四郎は声なき声を上げてその場に蹲った。痛みに悶えるうちにも、空気がわずかに揺れて骨喰藤四郎の動く気配がする。
「終わったか」
「〜〜〜〜う"ん……いちおう……」
 涼やかな声が頭上から降ってきて、鯰尾藤四郎は息も絶え絶えに返事をした。
「すまない。寝ていた」
 涙で視界を滲ませながら骨喰藤四郎を見ると、彼は欠伸を右手で隠しながら立ち上がっていた。それから今初めて気付いたかのように蹲る鯰尾藤四郎に視線を向けて、
「……どうした?」
「ちょっとね……」
 後頭部をさすりながら、鯰尾藤四郎はやっとの思いで立ち上がる。後頭部はいまだ鈍い痛みを訴えていた。
「あー……こぶができたかも……」
 鯰尾藤四郎のぼやきを聞いて、骨喰藤四郎は不思議そうな顔で手入れ部屋と鯰尾藤四郎とに視線をやった。骨喰藤四郎の言いたいことは大体検討がつく。手入れ部屋から出てきたばかりなのに、何故こぶなんぞ作っているのか。骨喰藤四郎の顔はそんな疑問を物語っていた。
「なぜ」
 口頭では実に簡潔にそれだけを聞かれる。
「なんでだろうねー……」
 鯰尾藤四郎は適当に言葉を濁した。とても、骨喰の顔に見とれて思わず手を出したら骨喰が起きたので驚いて頭をぶつけました、などと言えない。こうして思い返すだけでも恥ずかしすぎるし間抜けすぎる。
 寡黙に痛みに耐える鯰尾藤四郎を見て、骨喰藤四郎は微かに笑った。
「変な奴だ」
「あ。笑った。ひどい」
「気に障ったなら謝る」
「ううん、別にいいよ」
 素直に謝る骨喰藤四郎に、鯰尾藤四郎は笑い返す。こくりと頷く骨喰藤四郎の動きに合わせて微かに揺れる銀髪は、相も変わらず夕日を受けて淡い茜色をしていた。
 夕日が照らす縁側を、2人は揃って言葉少なに歩き出す。響いた雁の鳴き声に視線をやれば、雁の群れが夕空に列を成していた。鯰尾藤四郎はそれを見送りながら、今日の夕飯はなんだろうと考える。空を行く翼を見たせいか、つい鶏肉を想起してしまい鯰尾藤四郎はちょっぴり自己嫌悪した。情緒も何もあったもんじゃない。
 食欲に直結した連想を行う鯰尾藤四郎のその横で、不意に骨喰藤四郎が小さくくしゃみをした。鯰尾藤四郎は長い黒髪を馬の尾よろしく振りながら首を巡らせた。
「大丈夫? 体、冷えちゃったんじゃないのか?」
 暖かい季節とはいえ、夜はまだ冷える。夕暮れ時に縁側でうたた寝をすればそうもなるだろう。
「問題ない」
 骨喰藤四郎は即答したが、鯰尾藤四郎は心配そうに眉を下げた。
 やはり、骨喰藤四郎自身が望んでいることとはいえど、彼を長時間待たせるのはあまりよろしくないのかもしれない。
「……あのさ」
 少し悩んでから、しかし鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に問いかけた。
「なんで骨喰は、いつも俺のこと待っててくれるんだ?」
「──」
 骨喰藤四郎は少し驚いたように目を丸くしてこちらを見返した。責めているように聞こえたのかもしれないと、鯰尾藤四郎は慌てて両手を振る。
「あ、えっと、待っててくれるのは別に良いんだけど、そもそもなんで俺のことを待ってたいのかなって」
 そう。鯰尾藤四郎はずっとそれが不思議だったのだ。
 骨喰藤四郎がどうしてそんなにも自分を待っていたいのか、鯰尾藤四郎にはどうしてもその理由が思い浮かばない。
 本丸で生活を送るようになったばかりの頃の骨喰藤四郎は、記憶喪失を気に病んで、あまり人と関わろうとしていなかった。その頃の鯰尾藤四郎は、ひとり縁側に腰掛ける骨喰藤四郎を見て、きっと他の人と関わるよりひとりで鯰尾藤四郎を待つ方が気が楽だとでも思っているのだろうと勝手に納得していたのだが。
 しかし本丸で暮らすうちに少しずつ色んな刀剣男士と交流を持つようになり、今では同じ脇差の面々を筆頭にそれなりに仲の良い刀剣男士は決して少なくはない。それにも関わらず、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎を待つことをやめなかった。
 待つことが癖になってしまったのか。それとも別の理由があるのか。鯰尾藤四郎はそれが知りたかった。
 問われた骨喰藤四郎は返答に悩むように、僅かに眉を顰めながら口元に指を当てて考え込む。骨喰藤四郎がこうして言葉を探す姿は珍しかった。口数は少ないものの、会話をするときは淀みなく言葉を発するのが骨喰藤四郎である。
「……困る」
 しばしの間を置いて、骨喰藤四郎は端的にそう告げた。
「理由は必要だろうか」
 どうやら本気で言っているらしい。こちらを見つめる骨喰藤四郎が言葉通り困ったような顔をしていて、鯰尾藤四郎も困ってしまった。
 どう返答すべきかわからないので、どうだろうねと曖昧な言葉でお茶を濁す。
「ただ鯰尾を待っていたいんだ。理由はよくわからない」
 骨喰藤四郎のその言葉に、鯰尾藤四郎は思わずぽかんと口を開けた。
 同じだ、と胸中で呟く。
 鯰尾藤四郎も理由はわからないが、骨喰藤四郎が待っていてくれることが嬉しい。ならば骨喰藤四郎が理由もなく鯰尾藤四郎を待ちたいと思うのも、なんら変なことではなく。鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎との一致がおかしくて──そしてなんだか嬉しくて、自然と笑みを零した。
「じゃあ、しかたないね」
 そうだ。仕方がない。理由がわからないのであればもう対処のしようがないだろう。ならば、もう気にする必要もない。結局振り出しに戻っただけの気もするが、鯰尾藤四郎は少し晴れ晴れとした気分になった。
 鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎より一歩足を踏み出すと、上機嫌にくるりと体を反転させて骨喰藤四郎に向き直る。
「でもさあ、せめて体を冷やさないようにしてくれよー? 心配だし」
「気をつける」
 そう素直に頷く骨喰藤四郎がどこか愛おしくて、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎に微笑みかけた。
「──あ」
 その顔を見た骨喰藤四郎が間の抜けた声をあげて立ち止まる。前を行く鯰尾藤四郎もつられて足を止めた。
 正面から向き合った骨喰藤四郎は小さくあった、と呟いた。
「笑うからだ」
「──へ?」
 骨喰藤四郎の言うところの意味がわからなくて、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎以上に間の抜けた声を出す。骨喰藤四郎は納得するかのように自分の言葉に頷いた。
「俺が待っているのを見ると、お前は嬉しそうに笑うだろう」
 淡々と続ける。
「その顔を見たいから、俺は鯰尾を待つんだと思う」
「………………………………………………………………………………そ、そお」
 予想だにしなかった骨喰藤四郎のその言葉に、鯰尾藤四郎は簡素な返事をするのが精一杯だった。なんだか顔が熱い気がするが、多分、夕日に照らされているせいだろう。いや絶対。そうです。
 結論が出てすっきりしたのか、いつもよりどこか機嫌の良さそうな表情の骨喰藤四郎の顔をまっすぐ見られず、鯰尾藤四郎は慌てて前を振り向いた。
「鯰尾?」
「ごはんだから」
 背中にかかる怪訝そうな声を振り切るように一言呟いて、縁側をすたすた歩き出す。頭の中は骨喰藤四郎の言葉でいっぱいだった。
 つまり、何か。鯰尾藤四郎は、骨喰藤四郎が見たいと思うくらい、そんなにも嬉しそうに彼に笑いかけていたというのか。その事実だけで恥ずかしさの余り畳をごろごろできそうなのに、骨喰藤四郎が鯰尾藤四郎の笑顔を見たいがために待っているという、その理由がまた恥ずかしい。というよりも照れくさい。
 耳まで熱いのを自覚しながら──今日の夕陽の日差しはかなり強烈なようである──鯰尾藤四郎は肩越しに骨喰藤四郎をこっそり伺った。顔色一つ変えていない骨喰藤四郎と視線が合って、鯰尾藤四郎は急いで再び正面を向く。
 骨喰藤四郎は自分が何を言ったか分かっていないのだろうか。それとも分かっていて平然と口にしたのだろうか。どちらにしても、さすがはかつての足利の宝剣、並みの精神力ではない。あんまり宝剣は関係なかった。
 悔しい。鯰尾藤四郎は胸中で呟いた。
 恥ずかしいことを言ったのは骨喰藤四郎なのに、どうして鯰尾藤四郎が振り回されなければならないのか。一度そう思うと、とても理不尽に思えてくる。
 鯰尾藤四郎は勢いよく骨喰藤四郎を振り返り、
「あーもう!!」
 胸に湧いたもやもやを吐き出すように、骨喰藤四郎の頭をわしゃわしゃとかき回す。相も変わらず骨喰藤四郎の髪の毛は触り心地が良かった。
「な、なんだ」
「うるさーい!」
 赤面した顔が見られないよう、鯰尾藤四郎は困惑した様子の骨喰藤四郎に正面から勢いよく抱きつく。それからそっと骨喰藤四郎の耳元に口を寄せ、仕返しと──素直な気持ちを籠めて囁いた。
「……俺も、骨喰が待っててくれるの、嬉しいよ」
「──そうか」
 骨喰藤四郎は優しい声音で相槌を打つ。顔が見られないからなんとなくでしかないのだが、ここまで言っても骨喰藤四郎は自分のように顔を赤くしていない気がした。
 視界に映る、肩口にかかった骨喰藤四郎の銀髪はやはり綺麗で。
 鯰尾藤四郎は万感の想いを籠めて、ずるいなあと胸中で呟いた。骨喰は色々と、ずるい。
「……俺も、今度骨喰が手入れする時は待ってみようかなあ」
 そろそろ顔の熱さが取れてきたのを感じながら、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎から離れつつそう言った。
「別に良い」
 骨喰藤四郎がそう答えるであろうことはわかっていた。きっと鯰尾藤四郎が骨喰藤四郎を案じたのと同じような心配でもしているのだろう。
 鯰尾藤四郎はそれを理解しつつ、骨喰藤四郎の顔を覗き込んだ。揃いの紫眼がかち合う。
「俺が待ちたいんだよ。だめ?」
 ──この質問は、ちょっとずるいかもしれない。言いながら、鯰尾藤四郎はそう思った。
 この言葉を言われては骨喰藤四郎は反論できないだろう。
「………………駄目じゃない」
「へへー、やった」
 案の定少し困ったように言う骨喰藤四郎に、鯰尾藤四郎は悪戯っぽい笑みを向ける。骨喰藤四郎は降参するようにひとつため息をついた。兄弟はずるい。こちらを非難するように見つめる骨喰藤四郎の瞳がそう言っているような気がして、鯰尾藤四郎は少し満足した。一本ばかし、先ほどの雪辱を返せたかもしれない。
 目と鼻の先に迫った大広間からは刀剣男士らのざわめきと夕餉のにおいが漂ってくる。

 茜から藍の色へと移りゆく東の空に、一番星が輝き始めていた。