マエストロにはほど遠い

骨喰が鯰尾の髪を結う話です。


 ひらり、と一ひらの花弁が骨喰藤四郎の頬を掠めた。
 特に意味があったわけではないが、落ちていくそれをなんとなく目で追うと、花弁は不規則な軌道を描きながら傍らの兄弟へまた一枚降り積もる。三枚目、と骨喰藤四郎は淡く色づいた花弁の数を心に留めた。
 散りゆく桜の花びらをその身に受けながら、鯰尾藤四郎はのんきな寝顔を晒していた。



 本丸の庭には桜がある。骨喰藤四郎は、その桜を美しい以外の言葉で表現する術を知らない。
 日本人はみんな桜が好きなんだよ、といつだったか審神者が言っていたが、桜に心が惹かれてしまうのは神もまた同じらしい。それは、咲き誇る姿の見事さ故か、はたまた散ってゆく儚さ故か、あるいはその両方か。
 骨喰藤四郎がこうして縁側で花見を始めてから、そろそろ二刻ばかりになる。花見を始めた切欠はなんだったか、骨喰藤四郎はよく覚えていない。春だから、とかなんとか鯰尾藤四郎が主張していたような気はするが。
 そんな花見の提案者は、骨喰藤四郎の傍らで縁側から足を投げ出したまま、今やすっかり眠りこけている。おそらく桜を鑑賞していた時間は一刻と無いだろう。花より団子ならぬ花より布団というやつかもしれない。あまり上手くはないな、と骨喰藤四郎は自らの言葉遊びに辛めの批評を下した。
 すこーと穏やかにもほどがある寝息を立てる兄弟の寝顔は、完全に弛緩しきっている。見た目相応に幼気な寝顔を見ていると、戦場では鋭く引き締まった顔を覗かせる兄弟と同一人物ではないように思えて、骨喰藤四郎は小さく瞬きをした。それで彼の顔がいきなり変わるわけもないし、変わってしまっても困るのだが。
 それにしても、お世辞にも寝心地が良いとは言えない縁側で、よくもまあここまで安眠できるものだ。骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎の寝顔を観察しながら、胸中で感心する。春眠不覚暁、という漢詩が脳裏を過ぎるが、あれは夜だか明け方だかの話だったような気もした。
 確かに、桜を揺らすまだ少し冷たい風と、それに反するように暖かな春の陽射しとが相まった陽気は快適で、本能に近い部分から眠気が湧いてくる。何よりも、どこまでも幸せそうに眠る兄弟の顔を見ていると、自分もこのまま彼の隣で横になりたいという願望が芽生えてしまう。とはいえ誰が通るとも知れぬ縁側で、二人揃って熟睡するのもまずい。春霞に朧めく太陽を見上げながら、骨喰藤四郎は欠伸を噛み殺した。
「……ん」
 不意に、曖昧な呻き声を漏らして鯰尾藤四郎はうっすらと目を開けた。寝ぼけ眼のまま身体を起こすと、隣の骨喰藤四郎に寝ぼけた視線をやる。
「……いまなんじ?」
 骨喰藤四郎は首を振った。解らないという意思表示である。
 そっか、と鯰尾藤四郎はどうでもよさそうに相槌を打って、大きな大きな欠伸をした。大口を開けるその仕草は、五虎退が連れる虎の欠伸にどこか似ている。そんなことを骨喰藤四郎は思った。
「うあー、髪ぼさぼさ」
 がしがしと頭を掻いてから、鯰尾藤四郎は自らの髪を束ねる髪紐を強く引いた。緋い髪紐が蝶の形から一本の線へと変わる間に、鯰尾藤四郎の黒髪が扇状にその背に広がる。鯰尾藤四郎はゆるく癖のついた長髪を手櫛で整え無造作に髪を束ねると、あっという間に元の髪型に結い直した。
 てきぱきと──というよりは、ちゃっちゃかと、といった方が擬態語としては正しそうな手際で蝶結びまで作り終えて、鯰尾藤四郎は再び欠伸をした。目尻に涙が滲む。
「兄弟は器用だな」
 思わずその動作の一部始終に目を奪われた骨喰藤四郎は、感嘆の言葉を漏らした。素直な褒め言葉に、鯰尾藤四郎はどこか眠そうな顔のまま苦笑する。
「別にこのくらいは誰にでもできるって」
「俺にはできない」
 ──多分、だが。
 骨喰藤四郎とて内番服や出陣服に蝶結びを取り入れてはいるが、自分の見える場所で蝶結びをするのと、見えない場所でやるのとでは話が違うように思う。実のところ、骨喰藤四郎は自身の蝶結びですらそれなりに練習を積んでこなすようなったのだ。
 しかし鯰尾藤四郎は、出陣服の蝶結びのみならず、自身の死角にある髪紐でさえあっという間に蝶結びにしてしまう。骨喰藤四郎にはとてもできる気がしない。
 ──前から思っていたが、鯰尾藤四郎だけでなく、脇差の面々は手先が器用な者が多いように骨喰藤四郎は感じている。堀川国広は言わずもがな、にっかり青江は大抵のことはそつなくこなすし、浦島虎徹もああ見えて細かい作業が得意だ。劣等感を抱くというわけではないが、骨喰藤四郎は脇差の中では一番手先が不器用だと自負している。刀装作りは得意だが。
 鯰尾藤四郎は、あー、と納得の声を漏らした。
「まあ骨喰は髪の長さが足りないからやりにくいかもな。じゃ、俺の髪でやってみる?」
「……いや」
 無理だと思った理由はそこじゃない。別にできないままで良い。そもそも他人の髪を結えるようになっても意味はないし、それは骨喰藤四郎が思い描いた器用とはほど遠い。
 胸中に浮かんだ様々な反論が言葉になる前に。
 鯰尾藤四郎は再び自らの髪紐を解くと、笑顔で骨喰藤四郎の掌にそれを押し付けた。
「やってみて」
 鯰尾藤四郎に優しく微笑みかけられ、骨喰藤四郎は手渡された髪紐を握りながら黙り込んだ。どうやら鯰尾藤四郎の中で、これは決定事項らしい。
「……文句は言うな」
 自棄糞気味にそう言って、骨喰藤四郎は鯰尾藤四郎の後ろに膝をついた。がんばれー、とのんきな声援が飛ぶ。
 恐る恐る掬い上げた鯰尾藤四郎の黒髪は、わずかに青みがかった黒色をしていて、それはどこか夜を思わせる。鯰尾藤四郎の髪の中に、花びらが一枚潜り込んでいるのを見つけて、骨喰藤四郎は四枚目、とまたその数を心に刻んだ。夜のごとく流れる黒髪の中、淡い桜色を残すその花びらは星のようにも見えた。
 よく考えてみると、常日頃からぴょこぴょこと揺れ動くお下げは骨喰藤四郎の目を引いてはいたものの、こうして鯰尾藤四郎の長髪に触れるのは初めてのことだ。骨喰藤四郎はその手のひらに掬い上げたひと房の黒髪をまじまじと見つめる。
 それにしても長い髪だ。つくづくそう思う。自身の肩にかかる程度の髪でさえ時として疎ましく思うことがあるのに、この髪の長さでは、特に出陣のときは戦闘の邪魔になるのではないかと骨喰藤四郎は常々気になっていた。しかし、邪魔じゃないかと聞いて、鯰尾藤四郎が「そう、邪魔なんだよ。やっぱり切った方がいいかな」と言い出して──それもきっと、草むしりをするかのような口調で言うのだ──本当に切られてしまって困るのは骨喰藤四郎の方だ。蛇がいるとも知れぬ藪はつつかないに限る。
 骨喰藤四郎は、彼の長髪をことのほか気に入っていた。
「あの……骨喰? やってる?」
 胡乱げな問いが聞こえて、骨喰藤四郎は我に返った。手を止めてまじまじと鯰尾藤四郎の髪を観察していたから当然と言えば当然なのだが、鯰尾藤四郎はちっとも自分の髪がいじられないことを訝しんだらしい。
「やっていなかった」
「ええー」
 骨喰藤四郎の素直な報告に、鯰尾藤四郎は脱力したような声を上げる。
「今からやる」
 宣言し、骨喰藤四郎は改めて兄弟の髪に手を伸ばした。まずうなじの辺りで大雑把に一纏めにし、髪紐でそれを括る。括った髪紐を一度、ぎゅ、と強く引いて、骨喰藤四郎は息を吐いた。ひとまず纏めることは出来たようである。
 しかし。
「あっ、出来た?」
 骨喰藤四郎のため息を完成させた合図だと思ったか、鯰尾藤四郎は弾んだ声で振り返り──ばら、と黒髪が再びその背に広がる。
「……」
「……」
 にっこりと。
 誤魔化すように輝く笑顔を浮かべる兄弟の頭頂に、骨喰藤四郎は迷いなく手刀を繰り出した。
「ったー……何すんだよ」
「突っ込みだ」
 なお、参考資料は大和守安定と加州清光の二人である。
「……なるほど」
 鯰尾藤四郎は深々と頷いた。どうやら納得してくれたらしい。
「前を向いてろ」
「はーい」
 大人しく、というよりはどこか楽しそうに返事をする兄弟の髪を、骨喰藤四郎は改めて手に取った。
 先ほどと同じ要領で、まずは長髪をひとつに纏める。しっかりと片結びをし終えたところで、今度こそ蝶結びへの挑戦の幕が火蓋を切って落とされた。
 普段、自分のものを結ぶ時とは左右が反転するのは解っている。骨喰藤四郎は左右を意識しながら、そしてそれ以上に一度結んだ片結びが崩れてしまわぬように最新の注意を払いながら、自らの指を操って鯰尾藤四郎の髪に蝶を宿していく。
 そうして完成した蝶結びを見て、骨喰藤四郎は硬直した。
 違う。
 あからさまに左右の紐で余った長さが違う。
 結び方ばかりに気を取られて、完成した時の釣り合いまでは考えていなかった。骨喰藤四郎は慌てて左右の均整を取ろうとするが、そうすると輪の大きさが異なってしまうことは自明の理である。これはつまり、そもそも髪を縛る時点で髪紐の余りを考えなければならない、そういうことだ。
 今更ながらにそれに気付いた骨喰藤四郎の頬を、一筋の汗が滑り落ちていく。
「どう? 今、どんな感じ?」
「……こっちを見るな」
 少し首を傾けた鯰尾藤四郎に、骨喰藤四郎は硬い声で返答した。また盛大に振り向かれて、一から始めることになってはかなわない。
 骨喰藤四郎の真剣極まりない声に、鯰尾藤四郎は小さく笑った。
「いいね〜」
 ──いったい何が良いと言うのか。蝶結びをやり直しながら、骨喰藤四郎は頭の片隅でひとりごちた。
 髪結いの様子など、鯰尾藤四郎からはまったく見えないはずなのに。
 適当に放たれたはずのその言葉は、けれど確かに喜びの色を宿していた。



 それからしばし。
 骨喰藤四郎は出来上がった蝶結び全体を固く引いて、ようやくその言葉を口にした。
「終わった」
「ほんと?」
 鯰尾藤四郎は喜色混じりの声を上げてその場に立ち上がると、縁側に膝をつく骨喰藤四郎を振り返った。今束ねたばかりの長髪が、骨喰藤四郎の前で揺れる。
「ほら、骨喰にもできただろ」
 そう言って、何故か得意気な顔を浮かべる鯰尾藤四郎に──しかし、骨喰藤四郎は仏頂面をした。
「できたうちに入らない」
 そう、とても入らない。
 鯰尾藤四郎から見えるわけもないが、やっと完成した蝶結びは、それでも少し左右の均整が崩れている。あれだけ時間をかけてこの有様である。あるいは、見えないからこそ言えるのかもしれないが。
 まったく、何故鯰尾藤四郎は手早く、しかもあんなに左右対象な蝶結びを作れるのか、骨喰藤四郎には不思議で仕方がない。作業を終えた骨喰藤四郎が得たものは、やはり自分は兄弟より余程不器用だという確信のみだった。
「俺がこれでいいって思うからいいんだよ」
 鯰尾藤四郎は、それでも笑顔のままそう言った。
 お下げの具合を確かめるかのように、くるくると何度も身体を回転させる。それはまるで何かの踊りのようで、鯰尾藤四郎の上機嫌な様子は、彼の言葉に嘘がないことを表していた。少なくとも、骨喰藤四郎にはそう見えた。
 くるくると。くるくると。
 不規則な軌道を描いて落ちていく桜の花びらの中、鯰尾藤四郎の長髪もまた、不規則に揺れる。
 拍子だけは一定に、しかしその躍動だけはどこまでも自由に。
 骨喰藤四郎はそのどこか幻想的な光景を縁側から見つめながら、自らの両手を小さく握りしめた。つい先ほどまでこの指であの髪に触れていたことが、あの髪を結ったのが自分だということが、まるで嘘のようだった。
「骨喰」
 不意に足を止め、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の名を呼んだ。慣性に従って、黒髪だけがふわりと宙に漂う。
「また、やってくれる?」
 ──正直なことを言えば。
 骨喰藤四郎はその言葉に、すぐさま首を横に振りたかった。
 不器用な骨喰藤四郎が時間をかけて不格好な蝶結びを作るより、鯰尾藤四郎がさっさと仕上げてしまう方がどう考えても良いに決まっている。骨喰藤四郎がわざわざ髪を結ぶことに、利点があるようには思えない。
 けれど。
 目の前の彼が、とても嬉しそうに笑っているから。
「……わかった」
 骨喰藤四郎は、鯰尾藤四郎の言葉に頷いた。
「絶対だからな」
「わかった。絶対だ」
「約束だからな」
「わかった。約束する」
 戯れ言のように言葉を交わし合う。鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の約束という言葉を聞いて、満足そうに微笑んだ。
 散る桜吹雪の中、紫眼の双眸を細める鯰尾藤四郎は何故かいつもより眩しく見える。
 夜のような黒髪と、首元から僅かに覗く緋色の色彩が、その日の骨喰藤四郎の網膜に焼き付いた。