あまくかおるひ
バレンタインの話です。
厨房に、甘い香りが満ちている。
鯰尾藤四郎が厨房を訪れたのは、そのにおいの元はなんだろうという知的好奇心からだったのか、それとも花に誘われる虫のごとき理由だったのか。それは定かではないが、鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎と共に厨房を訪れたのだった。
「何やってんの?」
「あれ、鯰兄に骨兄」
エプロンをつけた乱藤四郎が振り返る。厨房の中では、他に後藤藤四郎、厚藤四郎、薬研藤四郎の姿もあった。全員が全員エプロンをつけてはいるのだが、その姿が馴染んでいるのは乱藤四郎のみである。
弟たちの目の前には銀色のバット。その中に、茶色い何かが煉瓦のように薄く敷かれている。
乱藤四郎は可愛らしく微笑んで、
「トリュフ作ってるんだ。明日バレンタインだし、いち兄にあげようと思って」
「ああ……なるほど」
鯰尾藤四郎は納得した。女っ気のない本丸では縁遠すぎて、すっかり頭から抜け落ちていたが、そういえば明日は十四日だ。
「骨兄はバレンタインって、知ってるか?」
後藤藤四郎がどこか期待を籠めた目で骨喰藤四郎を見上げた。催しごとには疎そうな骨喰藤四郎は、しかし大きく頷いて、
「ああ。男にチョコレートをぶつけて災厄を祓う儀式だろう」
なんだか別の行事が混ざっている。
「その儀式が行き過ぎて生まれたのがアマゾネスだ」
「薬研、さらっと嘘つかないー」
刀剣男士のくせに歴史を捏造する薬研藤四郎のつむじを鯰尾藤四郎は半眼でつついた。骨喰藤四郎が信じてしまっては困る。薬研藤四郎はくすぐったそうに鯰尾藤四郎の指から逃げ出して、すまんと謝罪した。
後藤藤四郎は兄がどうやらバレンタインに詳しくないと見て取ると、したり顔で人差し指をぴこぴこ振りながら語りだした。
「簡単に言うと、女が好きな男にチョコをあげる日だな。発祥は異国だけど二百年以上前から続いてるらしいぜ?」
「……女が男に?」
骨喰藤四郎は不思議そうに呟いて、その場をぐるりと見渡した。
男である。ものの見事に全員男である。
鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の胸中を察して苦笑した。
「まあ、お世話になってるひとにあげるってこともあるみたいだから」
この本丸においては、受け取る者が男である以外に何ひとつとして『バレンタイン』が正しく行われていないわけだが、それは別に構わないだろう。それで誰かが不幸になるわけでもなし。それどころか兄弟が仲睦まじく過ごす切欠になるのだから、良いこと尽くしと言える。鯰尾藤四郎はそう考えていた。
「……そうか」
骨喰藤四郎は少し思案する素振りを見せて、頷く。納得してくれたようである。
「おい乱、こっから先はどうすんだ?」
厚藤四郎がバットを覗き込み、乱藤四郎の髪を引いた。乱藤四郎は眉を釣り上げる。
「引っ張らないでよ! えっとねえ、切れ込みを入れたあとはひとつひとつ丸めていくみたい」
「ひとつひとつ……」
繰り返して、鯰尾藤四郎は目を瞬かせた。なんだか大変そうな作業だ。
同じことを思ったのか、骨喰藤四郎が傍らの薬研藤四郎に視線を送った。
「四人でここまでやっていたのか?」
「湯煎だの切ったりだのは危ないからな。弟たちにはさせられないさ。……まあ、どうせあいつらも戦場で刀を振り回してるんだが」
自らの言葉に笑う薬研藤四郎の後を厚藤四郎が引き継いで、
「代わりにあいつらには買い出しに行ってきてもらったからな、これは俺らの仕事ってわけだ」
「──じゃあ、俺たちの仕事でもあるってことか。ね、骨喰」
「ああ」
「えっ!」
乱藤四郎が声を上げる。驚愕に目を見開く弟の顔を、横目でちらと伺って、
「いち兄に贈るなら俺たちが何もしないわけにはいかないだろー。……っていうか、声をかけてくれれば良かったのに」
鯰尾藤四郎が苦笑すると、弟たちは沈黙した。意味ありげに視線を交わし──
「……ま、良いんじゃないか」
薬研藤四郎のその一言で、ふたりの参戦が決まったのだった。
匙で掬い、ラップで包んで、小さく丸める。話を聞いた時点ではさぞかし面倒な作業に違いないと思ったが、予想に反してお手軽なものである。それどころか、鯰尾藤四郎はこの作業を楽しんでいた。ちょっとだけ土遊びのようだし、兄弟と共に料理をする今の時間が心地よい。
「……できた!」
最後に包んだひとつをころんとバットに転がして、鯰尾藤四郎は歓声を上げた。
「兄貴たちのおかげで捗ったぜ。ありがとな」
「そんなそんな」
厚藤四郎の言葉に、鯰尾藤四郎はぱたぱた右手を振る。作業自体は手軽だったとはいえ、トリュフの数はかなりのものだった。後藤藤四郎曰く、兄弟の人数分の板チョコを用意したというのだから、その量たるや推して知るべし。鯰尾藤四郎は、チョコだけでいち兄を倒せそう、と思ったりもした。
「で、これを可愛くします」
乱藤四郎は得意満面といった風情で胸を張った。傍らにある茶こしを取って粉糖をトリュフにまぶしていく。雪が積もったように真白くなるトリュフを見て、鯰尾藤四郎は感嘆の声を上げた。
「あ。すごい。綺麗」
「でしょー? ……厚、リボンとって」
「ほいよ」
透明の袋に数個のトリュフを詰める乱藤四郎に、厚藤四郎が赤と紫のリボンを渡す。鯰尾藤四郎は首を傾げた。どうしてその色なのだろう、と怪訝に思う。一期一振に贈るならば、もっと相応しい色があるのでは──
そんな疑問を断ち切るように。
「はい、鯰兄。骨兄。ハッピーバレンタイン」
微笑む弟にトリュフを突き出され、鯰尾藤四郎はしばし固まった。
「………………………………あ、俺っ?」
「そうだよー。ほら、骨兄も」
「……俺も、か?」
戸惑いながら、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は乱藤四郎からトリュフを受け取る。鯰尾藤四郎は赤いリボンがかけられたものを。骨喰藤四郎は紫のリボンのものを。
「鯰兄も骨兄も、いつも出陣頑張ってるだろ? 俺たちからってことで」
そう、後藤藤四郎が言う。
「え、でも」
躊躇う鯰尾藤四郎の肩を、厚藤四郎がばしんと叩いた。
「いーから受け取っとけって! 手伝い賃だと思ってくれてもいいしな」
「……う、うん」
ぎこちなく鯰尾藤四郎は首を縦に振る。頷いたのは、厚藤四郎の平手が存外に痛かったからでもあった。
「ま、これからもよろしく頼むぜ」
まとめるように、薬研藤四郎が微笑んだ。
なんとなく。脇差部屋へと戻った鯰尾藤四郎はトリュフの入った袋を両手で掲げてみる。
高いところにあるそれは、より一層輝いて見える気がした。
「……なんか」
鯰尾藤四郎は、傍らの兄弟に声をかける。
「チョコもらうのってこんなに嬉しいんだね」
「そうだな」
骨喰藤四郎も同意する。喜怒哀楽をあまりはっきりとは示さないこの兄弟も、今は嬉しそうに少しだけ微笑んでいた。その笑顔を見て、鯰尾藤四郎はなぜだかより一層喜びがこみ上げる。
「……来年は」
ふと、骨喰藤四郎が顔を上げた。弟たちからの贈り物に注ぎ続けていた視線を、鯰尾藤四郎に合わせる。
「俺も、鯰尾にチョコを贈りたい」
「ほんと? じゃあ、俺も贈らなきゃね」
鯰尾藤四郎は優しく微笑みを返す。来年も、やはり『バレンタイン』としては正しくない光景になりそうだが、それでいい。この兄弟と幸福にひと時を過ごせるのであれば、それだけで鯰尾藤四郎は十分だった。
「……あ、でも、別に今年だってできないわけじゃないよな」
鯰尾藤四郎はぽつりと呟いた。手のひらに握ったままの袋を開けて、トリュフをひとつ取り出した。
「はい骨喰。あーん」
「……」
骨喰藤四郎は眉を顰めた。鯰尾藤四郎の行動が理解できなかったのか、それとも恥ずかしかったのか、どちらかはよくわからないが。
「俺たちも一応作るの手伝ったから、ね」
さすがに全部を与えるわけにはいかないが、ひとつばかり骨喰藤四郎に与えても弟たちは文句を言わないだろう。骨喰藤四郎はしばし迷うように視線を泳がせて、それでもやがて、銀の髪を耳にかけながら口を開いた。兄弟の小さい口にぽいとトリュフを投げ入れて、鯰尾藤四郎は笑みを作る。
「おいしい?」
「……おいしい」
咀嚼しながら、骨喰藤四郎は頷いた。そして自分の持つ袋を開けると、鯰尾藤四郎と同じようにトリュフをひとつ抜き取った。
「鯰尾」
「あ、くれるの? ありがと」
鯰尾藤四郎は骨喰藤四郎の指先からトリュフを食む。ふわりと口の中で優しい甘みが広がった。甘いとか、美味しいとか、そういった味よりも、優しいという印象が真っ先に浮かぶような──そんな味だった。
「おいしい」
自然と笑みを零しながら、鯰尾藤四郎はそう呟く。
どこまでも平和な、二月の或る日のことだった。