falling down
一歩目くらいのソハ物です。
「ソハヤさん!」
突如頭上に響いたのは喜色を滲ませた昔馴染みの声だった。
声につられるようにしてソハヤノツルキが通りがかった桜の木を見上げたのと、重なる枝葉が大きく揺れたのはほぼ同時。
一度瞳をしばたたかせた次の瞬間──樹上から、物吉貞宗が降ってきた。
ソハヤノツルキはぎょっと瞳を見開きながらも咄嗟に両腕を広げた。物吉貞宗が修行から戻って以来身に纏うようになった外衣が、風を孕んで翼のように痩躯の左右に翻る。なんで出陣服なんだ、という疑問は抱く暇も無かった。こちらに向かって落下する色素の薄い橙色の瞳と視線が合った。そう思った瞬間、重力がソハヤノツルキの両腕を襲う。抱えきれない重さではない。そのはずだった。けれど物吉貞宗を受け止めた途端、ソハヤノツルキは動揺してしまった。軽い。柔らかい。温かい。少し固い。なにかの香り。自身を襲う様々な感触に戸惑って、ソハヤノツルキは体のバランスが崩れるのを感じた。それでもなんとか堪えようとした刹那、ソハヤノツルキは腕に抱えた物吉貞宗の顔がすぐ近くにあることに気が付いた。猫毛のように柔らかな髪の毛先が頬をくすぐる。髪と同色の睫毛が縁取る薄橙の瞳は、ソハヤノツルキの赫い瞳を映して普段よりも朱に染まっていた。少し視線を下げれば淡く桜に色づく薄っぺらな唇が何言かを紡ごうと微かに震える様さえ見て取れる。さきほどからソハヤノツルキの肺に雪崩れ込む梔子の香りは、目の前の脇差から匂い立つものなのだ。
一瞬のうちに様々な感覚と認識が流れる中で。
──走馬燈ってのは、本当にあるのかもしれねえな。
頭のどこかで一部でそんなのんきなことを考えつつ、崩れたバランスそのままに、ソハヤノツルキは物吉貞宗もろとも背中から地面へと倒れこんだ。
「すみませんでした……」
なんとかふたりとも立ち上がって、開口一番物吉貞宗はそう言った。
見るからに落ち込んでいる脇差の様子に、反射的に気にするなと口走りそうになるのをソハヤノツルキはぐっと堪えた。今回は相手が自分だったから良いものの、誰彼構わずこんなことを繰り返されては困る。
「お前、なんであんなところにいたんだよ」
物吉貞宗の髪や服についたままの桜の葉っぱを取ってやりながら(物吉貞宗は少しだけ座りの悪そうな顔をした)、ソハヤノツルキは呆れ声で問いかけた。心の片隅では、これが葉ではなく花びらであればさぞ見映えがしたに違いない、などと考えていたりもするのだが、それはともかくとして。
なぜか桜の木に登っていたこともだが、本丸内で出陣服を着ているところも気にかかる。この本丸の刀剣男士は、出陣や手合わせでも無い限り動きやすい内番服で過ごすのが常である。
「あ、えっとですね」
「ものよしさーんっ!」
物吉貞宗がなにかを口走りかけた瞬間、かん、と下駄が固いものを打つ音がした。
音の方へと目をやれば、屋根を蹴って宙へと躍り出た今剣が物吉貞宗を指さして、
「みつけましたー!」
と、叫びながらソハヤノツルキと物吉貞宗の元へと降ってくる。
空中でくるりと一回転してから華麗に着地を決めた今剣に向かって、物吉貞宗は微笑みを浮かべた。
「見つかっちゃいましたねー」
「ふふふ、これでふたりめです!」
今剣は自慢げに胸を張り、ソハヤノツルキへと満面の笑顔を向ける。
「そはやさん、こんにちは!」
「よ、よう」
展開についていけないソハヤノツルキはぎこちなく右手を上げるに留めた。
その様子を見ていた傍らの脇差はくすりと笑みを零して言った。
「ボクたち、かくれんぼしてるんです」
「かくれんぼ、だぁ?」
眉を顰めて鸚鵡返しをすると物吉貞宗はこくりと頷いて、
「はい。修行帰りの脇差と短刀6振りずつで部隊を組み、制限時間内に本丸に隠れた脇差を見つけられたら短刀の勝ち、見つけられなかったら脇差の勝ちという取り決めで」
「さっきほねばみさんをみつけたので、もうさんぶんのいちはみつけてます!」
「わざわざ出陣服でやってるのか?」
「出陣服じゃないと本気が出せないじゃないですか」
「かくれんぼは、あそびじゃないんですよ」
「そりゃあ初耳だぜ」
ソハヤノツルキは適当な相槌を打った。
まあ実際、短刀は偵察の、脇差は隠蔽の訓練を兼ねているところもあるのだろうが。
「──と、あんまりじかんをむだにできませんね。それじゃあぼくは、ほかのひともさがしてきます!」
「頑張ってくださいね!」
たったの二足で再び屋根へと上がり何処かへと駆けていく今剣に、物吉貞宗は明るい声援を送る。
お前が応援してどうする。そう思わないでもなかったが、物吉貞宗らしいと言えばらしい。
「しかし、かくれんぼしてたのに俺に声をかけてどうするんだよ」
「ほんとですよね」
呆れた響きを声に乗せたソハヤノツルキのもっともな指摘に、物吉貞宗は苦笑した。
「ソハヤさんを見かけたらなんだか嬉しくて、つい声をかけちゃいました」
えへへと声を漏らしつつ、はにかんだような笑みを浮かべる物吉貞宗の頬は淡く薔薇色に色づいている。細められた薄橙の瞳が、まるで蜜を流したように色濃く蕩けてソハヤノツルキへと向けられた。
「あー…………」
ソハヤノツルキは脇差の笑顔から視線を逸らして中途半端な呻き声をあげた後、
「戦場ではするなよ」
「しませんよ」
戦慣れした幸運の刀は聞き捨てならぬとばかりに頬を膨らませた。
「それより、鬼に見つかったってのに、こんなところで油を売ってていいのか?」
照れくささを誤魔化すようにそう言うと、物吉貞宗は手のひらをぱちんと合わせた。
「そうでした。見つかったら開始地点に戻らなきゃいけないんです」
「じゃあ、早く行けよ」
ソハヤノツルキが細く小さな背中を軽く叩いて促すと、物吉貞宗ははいと素直に頷いた。しかし一歩踏み出したところで彼は踵を返して立ち止まり、ソハヤノツルキを見上げた。
「あの……」
なにかを言いかけながらこちらを見つめる物吉貞宗の表情はわずかに曇っていた。普段は良くも悪くも竹を割ったような言動をするこの脇差が言い淀む姿は珍しい。神妙な様子に、ソハヤノツルキは彼の言葉を待つことにした。
先ほどまで肩を並べて言葉を交わしていたふた振りは、今度は黙したまま真正面から見つめ合う。
しばしの時を置いてから、物吉貞宗は顔を伏せた。白い顔に微かに影が落ちる。
「──さっきは本当に、すみませんでした」
「ああ、いや、別に」
予想外の更なる謝罪に虚を突かれたソハヤノツルキは曖昧な返事しかできなかった。
ソハヤノツルキが思っていた以上に物吉貞宗は気に病んでいるようだが、先ほどの発言を聞いてしまうと咎める気は一切湧かない。
さすがにそれをそのまま口にするのは憚られるが、せめて彼の憂いを取り除こうとソハヤノツルキは口の端を軽く上げる。
「平気だって。お前、軽いしな」
「でも、潰しちゃいました」
「あれは少し驚いただけだ」
彼が降ってきたことに、ではなく五感を冒した諸々の感触に、である。
「……すみません」
けれど物吉貞宗は前者の意味で解釈したらしい。目に見えて項垂れてしまう。
普段は活力に満ち満ちた彼が消沈すると、頭につけた冠でさえくすんで見えるような気がした。
ソハヤノツルキはひとつため息をついた。浮かない顔で俯き続ける物吉貞宗へと両手を伸ばしてその痩躯を抱え上げると、わ、とどこか気の抜けた声が上がる。物吉貞宗の膝裏と背中に腕を回し、ちょうどソハヤノツルキの腕に腰かけるような形で落ち着かせてからソハヤノツルキは物吉貞宗を見上げた。葉桜を背にこちらを見下ろす少年の顔は驚きに満ちている。
「ソハヤさん?」
「こんな脇差がひとり降ってくるくらい、なんとでもねえよ」
「……ボク、からかわれてます?」
決してそんな意図があったわけではないのだが、ソハヤノツルキは敢えて否定をしなかった。
返事をよこさず笑みを浮かべ続ける旧知の太刀の様子に物吉貞宗はかすかに眉を顰めたが、それも一瞬のことだった。すぐにいつものように、しかしどこかいつもより柔らかな表情で口元を綻ばせる。
ソハヤノツルキは物吉貞宗が笑顔を見せたことに安堵しながら、彼を支える腕に力を籠めた。
それにしても、こうして物吉貞宗を抱えてみるとつくづくその華奢な肉体には驚かされる。眼前にある物吉貞宗の大腿と、今まさにそれを乗せているソハヤノツルキの腕の太さを比べてもそう大きくは変わるまい。ソハヤノツルキにしてみればこんなにも細く頼りない四肢でこの脇差は戦場に立ち、敵を屠っているのだ。根源の解らない感慨に耽りながらソハヤノツルキは視線を細い脚からやはり細い腰、上半身、腕へと滑らせていく。本当にどこもかしこも小枝のようである。無論、物吉貞宗とは本丸で共同生活をしているのだから、その白い衣服の下には戦士らしくしなやかな筋肉が備わっていることをソハヤノツルキは知っている。けれどもこうしていとも簡単にソハヤノツルキの腕で抱えられてしまうのもまた事実だった。きっと組み敷くことさえ容易にできてしまうのだろう。
肩を過ぎたところでソハヤノツルキの赫い瞳は物吉貞宗の薄い橙色の瞳を捉えた。物吉貞宗は一度ぱちりと瞳を瞬かせた後、どこか落ち着きなく体を揺らした。
「ソハヤさん、ボク、もう行かないと」
「……ああ、そうだな」
頷くが、どうしてかこの体温を手放す気にはならなかった。
物吉貞宗は困惑したような表情を浮かべてソハヤノツルキを見つめた。人刀問わず笑顔と献身を振りまくこの脇差の瞳には、今は自分しか映っていない。そう思うと、自然と彼を抱く両腕に力が籠ってしまう。
「あ、の」
物吉貞宗はぎこちなく声を震わせた。微かに漂う梔子の香りがソハヤノツルキの胸に爪を立てる。
なんだか、ぐっと世界のすべてが遠くなる気がした。物吉貞宗を支える感覚ですら希薄になっていく。脇差が背にしているはずの蒼穹も葉桜も目には入らない。ソハヤノツルキは、戸惑いが滲む少年の容貌と梔子の香りだけを感じていた。
ソハヤさん。物吉貞宗の唇がそう動いた。けれどそれが声になっていたのか、ソハヤノツルキには解らなかった。
すぐ目の前の音すら遠い世界の中で。
「……兄ちゃん、いくらなんでもやる気無さすぎるぜ」
『!』
突如割って入った声に、ソハヤノツルキと物吉貞宗は同時に体を震わせた。
急速に意識を現実へと引き戻されつつ声の方を振り向けば、屋根に腰かけた太鼓鐘貞宗が半眼でこちらを見つめている。言葉と態度から察するに、彼もまたかくれんぼに参加している短刀のひと振りなのだろう。
ソハヤノツルキは慌てて物吉貞宗をその両腕から解放した。地面に降りた物吉貞宗は太鼓鐘貞宗に向かって両手を振りながら弁明をする。
「ち、違うんですよー。ボク、さっき今剣くんに見つかってるんです」
「なんだよ、そうなのか?」
兄の言葉に太鼓鐘貞宗の眦から険が解かれる。彼は屋根の上に立ち上がると両手を腰に当てた。
「それならそれで紛らわしいから、さっさと開始地点に戻ってくれよな!」
「は、はい。すみません」
「んじゃ、後でな!」
引き留めたのは自分だと擁護のひとつでもしてやれれば良かったのだが、ソハヤノツルキが口を挟む前に太鼓鐘貞宗は風のように去ってしまう。相変わらず修行から戻った短刀の素早さには舌を巻く他ない。ソハヤノツルキとて太刀の中では機動に自信がある方なのだが、極めた短刀の機動は文字通り格が違う。
もっとも今回の場合で言えば、時間制限のある勝負をしている上に、太鼓鐘貞宗は泰然などという言葉には程遠い性格をしているため当然なのだが。後で太鼓鐘貞宗に一言添えておこうとソハヤノツルキは心に留めた。
「それじゃあソハヤさん、失礼します」
「……ああ」
物吉貞宗は極めて礼儀正しくお辞儀をする。弟に窘められてしまった物吉貞宗をこれ以上ここに留まらせるわけにはいかないだろう。ソハヤノツルキは甘んじて彼の別れの挨拶を受け入れた。本当はもう少しだけ、あの距離で自分だけを映すあの瞳を見ていたかったのだが。
深く頭を下げていた物吉貞宗の顔がゆっくりと上がり、ソハヤノツルキに向けられる。
きっと最後に笑顔をひとつ残して去るつもりなのだろう。彼はいつだって誰にだって『そう』している。それが物吉貞宗の性格であり在り方だということをソハヤノツルキはよく知っていた。
だから、今回もそうなのだとソハヤノツルキは思った。
──けれど。
じっとこちらを見つめていた物吉貞宗の頬が、不意にわずかに朱へ染まる。その様子にソハヤノツルキが違和感を抱いた刹那、薄い橙の瞳がどこか慌てたように逸らされた。物吉貞宗は何も言わず、笑顔を浮かべることもなく、素早く踵を返すと駆け足でその場を去っていく。
ソハヤノツルキはぽかんと口を開けて、小柄な背中を見送った。
見る見るうちに遠ざかる脇差とは裏腹にソハヤノツルキはそこを微動だにできなかった。
古馴染みの見たことも無い反応に、唯一できたのは降参するように天上を仰ぐことのみ。
「な、んだよ、それ」
見上げた視界の先では、物吉貞宗が降ってきた桜の木が風にその葉を揺らしていた。