きらきらひかる 1
物吉が恋心を硝子の瓶に仕舞う話です。同人誌に収録。
ああ、そうか。
ボクはこのひとに会いたかったんだ。
物吉貞宗がそう自覚をしたのは、年の瀬もせまる雪の日のことである。
その頃の物吉貞宗は、数日前から始まった連隊戦と呼ばれる一風変わった出陣を繰り返していた。師走の名を冠するに相応しく、慌ただしい日々だったと言えるだろう。けれど物吉貞宗にとって慌ただしさや忙しなさとは、負担を表す言葉にはなり得ない。この目まぐるしい日々も、すべては主たる審神者の糧となる。そう思えば辛いことはなにひとつなかった。
誰かのために在れること。
それこそが物吉貞宗の喜びであり、誉であり、果たすべき使命であった。
偉大なる御方の名の下に、人々から幸運の願いを背負わされた刀。
物吉貞宗とは、刀剣男士として顕現するずっとずっと以前より、そう在るものだった。
だから物吉貞宗は戦場に立ち、刀を振るう。今の主に勝利を運ぶために。人々の祈りに応えるために。かつての主の名に恥じぬために。
そして、その日もそれは同じだった。
彼と再会した雪の日はちょうど、遥か遠い海の向こうの国では聖なる誰かの誕生日だったらしいが、物吉貞宗は然程知りもしなければまったく興味もなかった。幸運の刀としての使命を果たすべく、いつものように戦場へと赴き、勝利を飾って凱旋した物吉貞宗を迎えたのは、近侍を務める堀川国広の弾んだ声だった。
「物吉くん、来たよ!」
藪から棒にそう言って、堀川国広は有無を言わさず物吉貞宗の手を引いた。
「え、あの」
「行こう!」
わずかな戸惑いを見せる物吉貞宗に構わず、堀川国広は走り出す。物吉貞宗は武装もろくに解けぬまま、黒髪の脇差の後についていった。
冬の空気に息を白く煙らせて、手を引かれながら向かう先はきっと審神者の部屋だ。この先に待ち受けるものを、いや、刀を物吉貞宗は知っている。その刀が連隊戦の最中に顕現することは既に審神者から本丸全体へ伝えられていたから。けれど彼と再会できることが嬉しいのか、そうでもないのか、物吉貞宗にはよく解らなかった。なんせ彼と別れたのは六百年近く前のことである。刀剣男士として顕現してからも物吉貞宗が彼の名前を口に出すことは無かった。別に、口にすることを避けていたわけではない。
ただ──彼と過ごさぬ日々が、物吉貞宗の骨身に染みついてしまっていただけで。
堀川国広に導かれ、戸惑いながら駆ける廊下はどこかいつもより長く感じた。
審神者の部屋に差し掛かったところで視界に舞った花びらを、物吉貞宗は最初、雪だと思った。近頃は本丸でも出陣先でもずっと雪が降り続いていたから。
けれどそれは雪などではなかった。
新しく刀剣男士が顕現する際に、ともに舞い散る仇桜。
審神者の部屋の中央で仁王立ちする不遜な背中に、物吉貞宗は自然と歩みが止まるのを感じた。その足元で廊下の板張りがきしりと鳴った音を聞きつけたのか、鶏冠のごとく逆立てた日輪色の髪を揺らして男がこちらを振り返る。暁の陽を思わせる赫い瞳が物吉貞宗に突き刺さり、愉快そうに細められた。顎を突き出し胸を張り、二本の足で泰然と佇む堂々とした振舞いは彼の自尊心の表れである。すなわち、天下人に選ばれたという誇りと矜持。
物吉貞宗は審神者の部屋の入口で立ち尽くしたまま、微動だにできなかった。このとき堀川国広に取られていたはずの自分の手はどうなっていたか、物吉貞宗は覚えていない。繋がれていたままだったような気もするし、既に解放されていたような気もする。彼の姿を目にした瞬間(とき)から、もう外の寒さもなにもかも感じなくなっていた。ただただ呆然と、自分よりも頭ひとつ分くらい高い青年の顔を見上げていた。
その刀は、かつて物吉貞宗が同じ時代に同じ場所、同じ主の下で日々を過ごした存在。
ソハヤノツルキウツスナリ。
かつての主──時の天下人、徳川家康とともに眠りについた三池の太刀。
物吉貞宗は、彼の姿を映す色素の薄い橙の瞳をぱちりと一度瞬かせた。
彼の赫い赫い瞳も、先程から変わらず物吉貞宗を映していた。その下の唇が笑みを浮かべて、開かれる。
「よう、久々」
投げかけられた挨拶は、ひどく軽いものだった。
物吉貞宗は再びぱちりと瞬きをする。そうして瞬きを繰り返す度、かつてソハヤノツルキと過ごした日々の風景が鮮やかに瞼の裏へ蘇る。まるで、すべてが昨日のことのように。
彼の姿を見て。彼の声を聞いて。いつかの日々を思い出して。
しゃぼんのようにふわりふわりと湧き上がる喜びが、胸を満たしていって。
そして物吉貞宗は、ようやく自覚をしたのだ。
ああ、そうか。ボクはこのひとに会いたかったんだ。
当人を目の前にした途端にそう思ってしまうのだから、我ながら単純にもほどがある。けれどきっと本当は、ずっとずっと昔から自分の中に芽生えていた想いだったに違いない。
今の今まで、気づくことができなかったというだけで。
物吉貞宗は自然と浮かぶ笑みをそのまま口の端に乗せ、ソハヤノツルキに挨拶を返した。
「お久しぶりです。ソハヤさん」
時は師走。新たな春を目前にして。
天下人の霊剣は、かくて五九〇年ぶりの再会を果たすこととなる。
新たな時代、新たな場所で、新たなる自覚とともに。
ソハヤノツルキはしばらくの間、近侍の任に就くこととなった。
新しく顕現した刀剣男士は大抵近侍に任命され、審神者の指導の下、本丸での生活に慣れていく。とはいえ審神者が教えるのは近侍の仕事や出陣の流れ、本丸内の大まかな規則程度であり、慣れぬ人型(ひと)の身での生活は先達たる刀剣男士が一から指南するのが通例である。普段であれば初期刀の山姥切国広か、あるいは、平素は常に近侍を任されている堀川国広が指南役兼世話役を担当するが、ソハヤノツルキの世話役を命じられたのは物吉貞宗だった。
あの日、再会して笑い合うふた振りを見た審神者が、なんだふたりは仲が良かったんだ、なら物吉貞宗に任せよう、とその場の勢いで決定したのである。物吉貞宗は、お任せください、と冬の寒さを吹き飛ばすほどに明るく熱の籠った返事をした。
それからというもの、物吉貞宗の刀剣男士としての日々はほんの少しだけ変化した。
幸運の刀として戦うことは変わらない。脇差の友人と過ごす日々も変わらない。ただ、その時間の中にソハヤノツルキが混ざるようになった。物吉貞宗は出陣や当番に勤しむ傍ら、空いた時間のほとんどをソハヤノツルキの世話を焼くことに費やした。その理由は審神者から直々に命じられた役割だったからというのもある。けれどもそれと同じくらい、ソハヤノツルキの役に立てることが嬉しかった。礼を言いながら軽く頭を叩かれる度に、彼の名前を呼んで赫い瞳が向けられる度に、物吉貞宗の胸には温かななにかが灯るのだ。
ソハヤノツルキが顕現して、二週間ほど経った某日のことである。
ともに刀装の在庫整理をしていた堀川国広が、物吉貞宗にこう言った。
「物吉くん、最近楽しそうだよね」
「そうですか?」
「うん。なんとなくだけど」
そう言われても自分ではあまりぴんと来なかった。一体どんな表情をしているのだろうと手に持つ刀装に自分の顔を映してみても、いつもと変わらぬ面差しが光沢のある表面に浮かぶばかりである。
うーんと首を傾げる物吉貞宗の隣で笑みを浮かべていた堀川国広は、不意に眉を下げた。
「あの……ソハヤさんが来たときは、引っ張っちゃってごめんね。僕、前の主が同じだった刀は皆仲良しだと思い込んでて……あの後、にっかりさんからあの時代の刀はそうとも限らないよ、って教えてもらったんだ」
友人からの唐突な謝罪に、物吉貞宗は薄橙の瞳を丸くした。
確かに幕末──すなわち刀の時代が終わる頃──の戦場で振るわれた新選組の刀からすれば、主を同じくしていた過去は強い絆のように思えるだろう。その中でも特に、目の前の脇差にとっては。
けれど物吉貞宗のかつての主、徳川家康が生きた時代は別である。刀剣は茶器と並んで一級の贈答品であったし、時の天下人ともなれば所有した刀の数は推して知るべし。この本丸に顕現している刀剣男士も、徳川家に所有されていた過去を持つ者は何人いることか。にっかり青江が言うように『徳川の刀』という繋がりは、必ずしも刀同士を強く結びつける絆ではない。それは確かな事実だった。
だが、物吉貞宗にとってのソハヤノツルキは違う。
物吉貞宗はあの太刀と再会できて嬉しかった。会いたいと願っていたことすら知った。
そう。ソハヤノツルキに対してだけは。
「だから、悪いことしちゃったかなって思ったんだけど」
続いた堀川国広の言葉を聞いて、物吉貞宗は慌てて首を左右に振る。
「とんでもないです!」
勢いよく否定をすると堀川国広は一転して柔らかく微笑んだ。
「うん、そうだよね。物吉くん、本当に楽しそうだもんね」
「──」
ああ、そうだ。ソハヤノツルキと過ごす日々はどうしてか心が躍るのだ。
彼が時折零す憎まれ口を聞くのも、ともに馬当番をこなすのも、昔の記憶を語り合うのも物吉貞宗は楽しくて楽しくて仕方がない。再会した日に芽生えたふわふわとした感情は、今なお変わらず物吉貞宗の胸中にある。その正体は判然としないまま、けれども胸を満たす想いは春の陽だまりのように暖かく、羽毛のように心地よく、胸に抱いているその事実が幸福だった。
不思議だな、と思った。どうしてソハヤノツルキにだけこんな感情を抱くのだろう。
どうしてソハヤノツルキと一緒にいると、世界がきらきら光って見えるのだろう。
もしかしたら、堀川国広にとっての和泉守兼定のように、物吉貞宗にもソハヤノツルキという世話を焼く対象が生まれたことで、自身の献身欲が満たされているのかもしれない。
物吉貞宗はただの刀だった頃から人々のために在った。刀剣男士になってからもそれは変わらない。いや、むしろ刀剣男士になったことで誰かのためにできることがより増えたと言えるだろう。それはとても喜ばしいことだった。本丸で日々行われる家事や内番といった生活仕事は、手伝いを好む物吉貞宗の性によく合った。
聞くところによれば脇差に分類される刀剣男士は概ねそのような気質の者が多いらしい。その中でも筆頭に挙げられるのが、今まさに物吉貞宗の傍らにいる堀川国広だろう。物吉貞宗は刀装を数える黒髪の脇差へと視線を向けた。並ぶ刀装を見つめる彼の瞳は、相棒と同じ浅葱色。『和泉守兼定の相棒』という『物語』を礎にこの地に顕現した彼が、誰よりも脇差らしい脇差となりえるのも自然なことだった。
逆に鯰尾藤四郎が『物語』関係なく骨喰藤四郎やほかの兄弟の世話を焼くのは、脇差であるところも含めて彼本来の気質に依るものと思われる。
ならボクは、と胸中でひとりごちながら物吉貞宗はその手に持った特上の投石兵へと視線を落とす。誰かのために在りたいと思うこの気持ちの根源は、一体どこから湧くものなのだろう。物吉貞宗という刀が背負う『物語』故なのか、それとも物吉貞宗本来の気質なのか。
そうして思考を重ねる物吉貞宗の胸に、不意に引っかかるものがあった。
そもそも、物吉貞宗は初めから吉祥の存在とされていたわけではない。徳川家康が乱世を生き抜き泰平の世を築いたからこそ、人々は物吉貞宗に願いをかけるようになったのだ。
──いつからだろう。
物吉貞宗が、『幸運の刀』になったのは。
「特上の投石兵が十六……と。よし、これで終わりだね」
「あ、はい」
堀川国広の声に、物吉貞宗の思考はそこで打ち切られる。手に持っていた刀装を棚へと戻し、ふた振りの脇差は揃って刀装部屋を後にした。今日の物吉貞宗の仕事はこれで終了。後は審神者への報告を済ませるのみである。
暖房のきいた屋内から縁側へと一歩出ると、途端に皮膚の下まで沁み込むような真冬の寒さが襲いかかる。酉の刻を前にした空は茜の頃をとうに過ぎていた。冬至は越えたものの、それでもこの時期は一際夜の時間が長い時節だ。白い吐息を冷えた空気に滲ませながら暮色の空を見上げれば、既にいくつかの星が白く冴えている。それでも西の空には、まだほんのわずかに黄昏の気配があった。山間にその身の大半を埋めながら、けれど一際赤く輝く夕日の色に、物吉貞宗は自然と彼の瞳を思い出していた。
夜気が落ち始める縁側を、ふた振りの脇差は並んで歩き出す。
「晩御飯、楽しみだね。今日の炊事当番、歌仙さんもいるんだよ」
「そうだったんですか。だから、お昼のうどんもつゆが薄めだったんですねー」
「味付けが薄くてもうまみはしっかり出てるからすごいよね。いつか出汁の取り方を教わりたいなあ」
「あ、ボクも知りたいです!」
物吉貞宗が瞳を輝かせて食いつくと、堀川国広は顔を綻ばせた。
「だよね。今度、一緒に頼んでみようか」
「はい、是非!」
「物吉」
話を弾ませるふたりの間に割って入ったのは、近頃はよく聞き慣れた声だった。
振り返った視線の先には、予想通りソハヤノツルキの姿があった。彼は物吉貞宗に向かって軽く右手を上げる。
「行って良いよ。主さんへの報告は僕がしておくから」
物吉貞宗が何言かを口にする前に、堀川国広から笑顔でそう告げられる。友人に礼を告げてから、物吉貞宗はソハヤノツルキに駆け寄った。一歩足を踏み出すその度にあのふわふわとした感情が湧き上がり、どんどん心と体が軽くなる。
最後には半ば跳ねるような足取りで古馴染みの刀の元まで辿り着いた物吉貞宗は、満面の笑顔でソハヤノツルキを見上げた。
「お疲れ様です。もう今日の近侍の仕事は終わったんですか?」
「ああ。で、これやるよ」
言葉と同時にソハヤノツルキから投げられたなにかを受け取って、物吉貞宗は目を丸くした。
「わ、金平糖ですか?」
物吉貞宗の然程大きくもない両手のひらで包めるほどの硝子瓶の中には、色取り取りの金平糖が入っていた。硝子瓶はさながら金魚鉢のように緩やかな球を描き、窄まった上部にはコルクでしっかりと栓がされている。赤、白、黄、緑、橙。わずかに空に残された陽の光を反射する硝子瓶の中で、色彩豊かな金平糖は目にも鮮やかだ。もしもかすみ草の花束に色をつけたらこんな感じになるのだろうか。
まじまじと見つめる物吉貞宗の反応に気を良くしたのか、ソハヤノツルキは軽く口角を上げた。
「万屋で見かけてな。味見したら美味かったぜ、それ」
「今日は万屋に行ったんですね。でも、お金はあったんですか?」
刀剣男士にも給金は支払われているものの、ソハヤノツルキは顕現したばかりである。物吉貞宗の問いかけに、しかしソハヤノツルキはこともなげに、
「主に『買ってくれ』って言ったら買ってくれたぜ」
「ええっ」
物吉貞宗は目を剥いた。
この刀は見た目に反して細やかな気配りができる割に、少々世間知らずなきらいがある。再会したときに、その口から今の主にも前の主くらい偉くなってもらいたい、などと言われた際も物吉貞宗は笑顔の下で唖然としたものだった。
「じゃあボクが主様にお支払いします」
「それじゃ意味が無いだろ。俺がお前に贈ったんだ」
「ですが」
「なんだよ。嬉しくないのか?」
そういう問題ではない。そう思いつつも、物吉貞宗はふるふると首を横に振った。
「嬉しいです」
「だろ」
ソハヤノツルキは子どものような笑顔を浮かべた。
「それより、食ってみろよ」
言うなり物吉貞宗の手から硝子瓶を取り上げると、ソハヤノツルキは蓋を開けて中からひとつ金平糖を取り出した。なにをするのかと見ていれば、そのまま物吉貞宗の口元に突きつけてくる。彼の人差し指と親指に挟まれた白色の金平糖をじっと見つめ、次にソハヤノツルキを見上げると、普段と変わらぬ笑みを浮かべている。食べろということなのだろう。
──まあ、いいか。
なんとなく落ち着かない気もしたが、今はその感情に目を瞑っておく。
物吉貞宗は顔の横にかかる髪を耳にかけながら薄い唇を開いた。金平糖を持つソハヤノツルキの指先を軽く食み、これまた薄い舌で金平糖を掬い上げる。わずかに舌先が掠めた男の指は、髪をかき上げる自分のそれよりもずっと太く厚く、物吉貞宗は漠然といいなあ、と思った。
舌の上に転がした金平糖を思い切って噛み砕くと、それまでの固さが嘘のようにほろりと溶けて優しい甘さが口に広がる。物吉貞宗は花開くように微笑んだ。
「美味しいです!」
「だろ?」
満足げなソハヤノツルキからもう一粒、今度は橙色の金平糖を口元に差し出される。餌を与えられる雛鳥のような気分になりつつも、ソハヤノツルキのすこぶる上機嫌な様を前にした物吉貞宗は大人しく金平糖を口に含んだ。
こりこりと音を立てながらふた粒目の金平糖を味わって、物吉貞宗は再び唇を開く。
「金平糖ってこんな味なんですね。この体になってから南蛮菓子も色々食べましたが、金平糖は初めてです」
味としては、今春、梅酒を仕込んだときに鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎の両名とつまみ食いをした氷砂糖が一番近いだろう。要するに、その名の通りいかにも砂糖という感じである。
甘味の余韻を感じながら、物吉貞宗は微かに瞳を伏せた。
「……家康公が召し上がったものは、どんな味だったんでしょうね」
不確かな知識だが、現在の金平糖と来日した当時の物とでは製法も形状もかなり違ったはずだ。思わず零れた呟きに、ソハヤノツルキは軽い口調で返答した。
「爺はあの地位だからな。案外、今俺たちが食べたものより良いものだったかもな」
「その呼び方、やめましょうよ」
念のため釘は刺しておく。この古馴染みの太刀は物吉貞宗がその呼び方を良しとしないことを解っていて口にしているのだから、見過ごすわけにはいかない。
ソハヤノツルキは小言に肩を竦めると、金平糖の瓶を物吉貞宗の手のひらに押し付ける。飄々としたその顔を軽く睨みながら、しかし長く眉を吊り上げていることはできなかった。自身の手に乗る重みを感じて、自然と頬と心が緩んでしまう。
「本当に嬉しいです。ありがとうございます、ソハヤさん」
微笑みながら礼を述べると、ソハヤノツルキの瞳が細められた。普段は陽光のように赫く力強い瞳が、物吉貞宗の蜜色の瞳を映して柔らかな夜明けの空の色になる。物吉貞宗はその瞳から視線を逸らせなかった。今は瞬きをする間すら惜しい。小瓶を包む両の指に、自然と力が籠ってしまう。
胸を満たしていたふわふわとした気持ちはどこかへ消えてしまっていた。
代わりに、なにかを告げるかのように心臓が強く深く鼓動する。
ふた振りが瞳を重ねていたのはどれほどの時間だっただろうか。やがてソハヤノツルキは視線を逸らすように顔を伏せて、物吉貞宗の頭に手を置いた。
「……気にすんな。俺もここに来てからお前の世話になりっぱなしだからな。その礼みたいなものだ」
頭の上にある大きな手のひらが自分の髪に指を絡ませているのを感じながら、物吉貞宗は小さく笑った。
「お礼なんていりません。ボクはソハヤさんのお手伝いができて、毎日嬉しくて楽しいですから」
「……」
ソハヤノツルキの手がぴたりと止まる。訝って彼の顔を見上げると、なんだか中途半端で下手くそな笑みを浮かべていた。
「そうだな。それが──」
固い笑みのままソハヤノツルキは微かに言い淀み、しかしすぐに次の言葉は紡がれる。
「幸運の刀(ものよし)の使命、なんだな」
「……」
物吉貞宗は即座に切り返すことができなかった。頭の上から遠ざかっていく体温を惜しいと思うことすら忘れてしまう。ただただ静かに彼の言葉を受け止める中で、体の奥底から湧き上がるなにかの衝動を感じていた。
嫌だ。物吉貞宗はそう思った。
どうしても嫌だった。どうしても我慢ができなかった。
物吉貞宗が胸に抱くこんなにも幸福な想いが。
幸運の刀故の物だと、断じられてしまうのは。
「そうですね。ボクは幸運の刀です」
吉祥の存在らしく微笑みながらそう告げると、どうしてかソハヤノツルキの方が微かに眉を顰めた。まるでなにか痛みや恐怖に堪えるかのように。
しょうがないひと。そう胸中でひとりごちる。このかつて主をともにした霊剣は、すぐに自分の心と裏腹のことを言ってしまう。そしてそんな自分の心を隠し通せると思い込んでいるのだ。物吉貞宗にはすべてお見通しだというのに。
──そんなところが、愛おしかった。
あのふわふわとした想いとはまた違う、温かななにかが胸に染み渡る。その感情のままに物吉貞宗は浮かべた笑みを深くした。
「でもボクは、物吉貞宗(ボク)がなんであれ、ソハヤさんのお手伝いをしたかったと思います」
放たれた言の葉に、ソハヤノツルキは驚愕したように瞳を見開いた。微かに唇を震わせ、けれども彼の胸中が一言たりとて紡がれることは無かった。その様子に苦笑して、物吉貞宗はソハヤノツルキに指を伸ばす。ソハヤノツルキの頬を指先で撫でると、彼はなんだか泣き出しそうな顔をした。ただ触れているだけなのに、まるでこの太刀を支えているかのような気分になりながら物吉貞宗は優しく口元を綻ばせた。
どうか、そんなにもなにかに怯えた顔をしないでほしい。
「ソハヤさん」
「……ん?」
「呼んでみただけです」
「なんだよ、それ」
ソハヤノツルキは呆れたように小さく笑った。それだけで物吉貞宗は安堵する。
「なんでしょうね」
相槌を打ちながら、物吉貞宗はソハヤノツルキに差し伸べていた指先を引き戻した。
それから一歩分だけ彼から距離を取ると、改めていつものような笑みを浮かべてみせる。
「金平糖、本当にありがとうございます。大事に食べますね」
「もういいのか」
「今日はこれ以上食べたら夕餉が入らなくなっちゃうかもしれませんから。食事当番に歌仙様がいるそうなので、きっと美味しいご飯ですよー」
言いながら、その踵をくるりと返す。すっかり陽も沈んだ西の空を見つめてから、物吉貞宗は肩越しにソハヤノツルキを振り返った。
「行きましょう、ソハヤさん」
「──ああ」
そうしてソハヤノツルキと物吉貞宗は違う歩幅で、けれど同じ速度で縁側を歩き出す。
さきほどまでの空気が嘘のように、ふた振りの間に流れる空気も交わされる言葉も普段となんら変わらない。それでも物吉貞宗の手のひらには確かに金平糖の入った硝子瓶が握られている。そのきらきら光る重みを物吉貞宗は強く強く握りしめた。
誰かのために在れること。
それこそが物吉貞宗の喜びであり、誉であり、果たすべき使命である。
物吉貞宗は、天下人の霊剣として人々から幸運の願いを背負わされた刀だから。
──それでも。
それでも物吉貞宗は願ったのだ。
幸運の刀であることも、脇差であることも関係なく、確かに願ったのだ。
このひとのために在りたいと。