きらきらひかる 2
ソハヤノツルキから貰った金平糖。
一日一粒。そう決めて、物吉貞宗は日々の合間に金平糖を硝子瓶から取り出した。
口に含む度、自然と笑みが零れるのはその甘さのせいなのだろうか。
そうして瓶の中身が減るごとに。
彼への想いが強くなるようだった。
遠い遠い場所から響くような、冷たい雨音を聞いていた。
絶え間ない雨音に混じり、屋根瓦から滑り落ちた雫が時折ぽつりと大きな音を立てる。
ここ数日続く雨は、今日もまた本丸全体に降り注いでいた。空を覆う濁った雲は重たく厚く、昼間だというのに室内は夕方のように昏い。灯りを必要とするほどでもないが、だからこそ晴れの日とは違う薄暗さが却って引き立ってしまうような気がした。薄い幕を引いたように雨が降りしきる中庭では、雫を受けて咲き誇る紫陽花だけが世界に与えられた色彩だった。
「……雨だなー」
障子を開け放したままの室内から縁側を臨み、浦島虎徹はしみじみとそう言った。
「雨だねぇ」
「雨ですねー」
ともに卓袱台を囲むにっかり青江、物吉貞宗も浦島虎徹のぼやきに続く。
ソハヤノツルキが顕現してから五カ月。暦は五月も下旬を迎え、雨の降り止まぬ季節を迎えていた。審神者曰く、例年に比べると少々早い梅雨入りらしい。
本日、脇差の六振りは非番である。近頃は新しく顕現した刀剣男士や修行から戻った短刀の育成に時間が充てられているため、既に練度を最大限まで上げた脇差に出陣の機会はほとんどない。近侍を務める堀川国広は審神者のそばに控えているが、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は弟たちと巨大なてるてる坊主を作るとかで屋敷内のどこかへ消えていった。
特に用事もなければ当番もない残りの三振りの脇差は、こうして寝室たる脇差部屋で暇を持て余しているわけだ。
浦島虎徹は卓袱台に肘をつきながら、深く息を吐いた。
「堀川、洗濯物が溜まってしょうがないって言ってたよ」
「天気は僕たちにはどうしようもないからね。季節のものだと楽しむしかないさ」
「それはそうなんだけどさー。でも俺、夏が好きだから梅雨は余計にもどかしくなっちゃうよ」
言いながら、浦島虎徹は卓袱台の上に突っ伏した。
「そんな浦島くんに良いことを教えてあげようか」
「良いこと?」
にっかり青江の囁きに、浦島虎徹は卓袱台に突っ伏したまま傍らの友人を見上げた。
「目を閉じて。そして雨音に耳を傾けてごらん」
助言通りに浦島虎徹は大人しく瞳を閉じる。
にっかり青江は薄く笑みを浮かべたまま浦島虎徹の耳元にそっと唇を寄せ、
「段々揚げ物を揚げる音に聞こえてくるだろう?」
「……ほんとだ」
戯れのようなふたりの会話を聞き流しながら、物吉貞宗は降りしきる雨を見つめていた。
ここ数日、ずっと雨の音が止んでいない。尽きることのない単調な雨音が鼓膜に滲み、心の奥底まで沁み込んでいくかのような感覚が常に纏わりついている。それは今も同じで、物吉貞宗は無意識のうちに自らの腕を撫で上げた。
「にっかりさんのやつちょっと面白かったけど、やっぱり俺、早く晴れてほしいなあ。物吉は雨、好きなのか?」
「え?」
突然の問いかけに、物吉貞宗は目を丸くした。
未だ卓袱台に上半身を預けたままの浦島虎徹は、碧水の瞳で物吉貞宗を見上げて言った。
「さっきからずーっと雨を見てるな、と思って」
言われてみれば確かにずっと庭を見ていた。
そのことを自覚して、物吉貞宗は苦笑を浮かべた。
「雨は嫌いじゃないですけど……梅雨は少しだけ気分が落ち込んじゃうかもしれませんね」
「そっかー。でも確かに物吉って、晴れです、って感じするもんな」
「浦島くんほどじゃありませんよー。とっても晴れがお似合いです!」
「へへ、そうかなー」
浦島虎徹は無邪気な照れ笑いを浮かべた。
友人と笑い合うと、少しだけ憂いが晴れて心の底から活力が芽生えるような気がした。やはり笑顔は大事である。
物吉貞宗は両手をぐっと握り、
「こうして無為に過ごしていてもますます落ち込んじゃうだけですね。ボク、お手伝いできることが無いか、探してきます!」
意気込み十分に立ち上がると、ぱちぱちぱち、と友人たちから拍手を送られる。
「それじゃ、いってきますー!」
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃい」
浦島虎徹とにっかり青江に見送られ、物吉貞宗は元気良く脇差部屋を出発する。
反射的にまず審神者のところに向かいかけて、物吉貞宗は足を止めた。審神者のところには堀川国広がついている。物吉貞宗が訪ねたところで手伝うべきことは無いだろう。ならばどうしようかと立ち止まったまま思案する物吉貞宗の耳朶を雨音が打つ。我に返った物吉貞宗はぷるぷると首を振り、雨音を振り切るように歩き出した。
物吉貞宗は決して雨が嫌いなわけではない。雨そのものは天の恵みだと思うし、雨の日の時間がゆっくりと流れるような空気は好きだ。ただ、梅雨という季節が好きではなかった。この時期特有の重たい湿気が満ちる中、連日雨が降り止まず世界が停滞するような、けれどなにもかもが雨とともに流されてしまうようなこの季節が。
──どうしても、あの頃を思い出してしまうから。
雨音に誘われるようにかつての記憶が蘇る中で、同時に思い浮かぶ面差しがあった。
あの刀ひとに会いたい。
そう願うのは、彼もまた同じ過去を共有している者だからなのだろうか。
沸き立つ願いのままに、物吉貞宗の足は自然とある部屋へと向かっていた。
「すみませーん」
明るい挨拶をしながらその部屋の障子を開くと、鎮まった赫い瞳が向けられる。薄暗い室内でひとり卓袱台にかけていたのは、物吉貞宗の探し人の兄弟、大典太光世だ。ソハヤノツルキから遅れること一週間、この天下五剣がひと振りもまた連隊戦の最中に顕現していたのである。
雨雲に負けないほどに暗く重たい空気を纏う大典太光世に見つめられた物吉貞宗は、輝く笑顔を浮かべた。
「こんにちは、大典太様」
「……ああ」
微かな声だが返事はあった。物吉貞宗はますます笑みを深くする。
顕現したばかりの頃の大典太光世は、隙あらば兄弟の世話を焼きに現れる物吉貞宗の存在に戸惑っていたようだが、近頃は随分と言葉を交わしてくれるようになった。そのことが物吉貞宗には嬉しかった。
大典太光世は読んでいた本を一度閉じ、
「兄弟なら、今は出ている」
「ソハヤさん、なにか当番でしたっけ?」
「宗三左文字に、厨へ連れていかれた……急な遠征で人手が足りなくなった、と」
「そうだったんですね」
その様子が想像に容易くて、物吉貞宗は笑みを零してしまう。
「……そろそろ戻るとは思うが、なにか、用か?」
「いえ、用事というほどのものでは。でもお部屋にお邪魔しても良いですか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます!」
物吉貞宗は満面の笑顔で三池派の部屋へと足を踏み入れた。迷うことなく卓袱台へと向かい、大典太光世の正面に当たる場所で茶の準備を始める。
この三池派のふた振りが暮らす部屋には茶を淹れるための道具が一式揃っていた。以前、物吉貞宗がまとめて持ち込んだものだ。道具と言っても茶道で用いられるような大仰なものではなく、湯呑み、急須、湯冷まし、それから砂時計といったあくまで最低限の道具のみ。各部屋での火器類の使用は固く禁じられているため、湯を沸かすのも『電気ケトル』と呼ばれる電気式の薬缶を使っている。ちゃんとした道具が揃えられればそれに越したことはないのだが、気軽に茶を嗜む程度であればこれで十分。茶を淹れる際に肝要なのは、道具そのものよりも淹れ方である。適量の茶葉と適温の湯と適切な時間。それさえ守れば、大抵の茶は美味しく入るものだ。
物吉貞宗は使いかけの茶葉を手に取って、動きを止めた。
「新しいお茶ですね。買われたんですか?」
「……前田が」
短い言葉だったが、説明としてはそれで事足りた。どうやら前田藤四郎からの貰い物らしい。
よくよく見てみれば青々とした色味と良い、葉の統一感と良い、なんだか高そうな茶葉である。これを使うのはやめておきましょう、と物吉貞宗はその茶葉を元の場所に戻すと別の茶葉を手に取った。
計量した茶葉を急須に入れた物吉貞宗は、電気ケトルの湯が沸くのを待つ間、部屋の片づけに取り掛かることにした。まめに様子を見に来ているため然程ひどい状態なわけではないのだが、それでも少々物が散らかっている。脱ぎ捨てられたままの出陣服を衣類掛けにかけたり、洗濯を終えて畳んだまま放置された内番服を箪笥に仕舞ったりしている間に湯が沸騰する音が耳に届く。物吉貞宗は再び卓袱台の横へと移動した。
湧いたばかりの湯を湯冷ましへと注ぎながら、物吉貞宗は胸を撫で下ろしていた。探し人は不在だったが、ここに来て良かった。こうして物吉貞宗にできることがあるのだから。
そんな思いを抱きながら物吉貞宗が茶の準備を進めるうち、不意に立ち上がった大典太光世が桐箪笥から紙製の箱を取り出した。卓袱台に乗せられた箱を見てみれば、流麗な字体で和三盆と書いてある。
「……次にお前が来たら、茶請けにしようと兄弟が言っていた」
大典太光世の呟きに、物吉貞宗は数度瞳を瞬かせた。
「でも、ソハヤさんは」
「残しておけば……文句は言わないだろう」
「ボク、言うと思います」
「……俺もだ」
思うらしい。
が、どうやら食べる意思を変えるつもりはないようだ。大典太光世は迷いなく和三盆の封を開ける。それを視界の端に捉えながら、物吉貞宗はふたつの湯呑みに煎茶を注いだ。
「どうぞ」
「……すまない」
湯呑みを受け取りながら、大典太光世は指先で和三盆の箱を物吉貞宗の方へと寄せた。
食え。そう視線で促される。
「ありがとうございます」
物吉貞宗は微笑んで和三盆へと指を伸ばした。大典太光世はそれを見届けると再び読書へと戻っていく。
それきり部屋の中には沈黙が落ちた。
普段の物吉貞宗は物静かな空間を気まずく思うことは無いが(そもそも物吉貞宗には「気まずい」という感覚がよく解らない)、今は音が途絶えるとどうしても雨音が耳につく。とはいえ読書をしている大典太光世に話しかけるわけにもいかない。
状況的にも性分的にもじっとしているのが落ち着かない物吉貞宗は、二煎目の用意を始めることにした。どうせなら、ソハヤノツルキが戻ったときにすぐ茶を淹れられるよう備えておくのも良いだろう。煎茶の良いところは抽出時間が短いところだ。ちゃんとした茶葉で淹れる場合、紅茶ではこうはいかない。
新たに急須を用意して茶の準備を進めていると、部屋の外から力強い足音が聞こえた。物吉貞宗は思わず閉ざされた障子を振り返る。
「戻ったぜ、兄弟」
予想に違わず、障子を開ける音とともに物吉貞宗の待ち人が顔を出す。
ソハヤノツルキは物吉貞宗に目を留めて、
「物吉。来てたのか」
「お邪魔してます」
ぺこりと頭を下げる物吉貞宗から卓袱台へと視線を移したソハヤノツルキは、そこに在る和三盆を見て目を吊り上げた。
「──って、待てよ兄弟! なんでそれ勝手に開けてるんだよ!」
やはり文句を言った。予想通りの反応に、大典太光世と顔を見合わせた物吉貞宗は思わず笑みを浮かべてしまう。怒りを露わにしているにも関わらず何故か見つめ合う兄弟と古馴染みの脇差を前にして(あろうことか脇差の友人の方は満面の笑顔である)、ソハヤノツルキは鼻白んだ。
大典太光世は開いた本はそのままに、不機嫌に仁王立ちするソハヤノツルキを見上げた。
「……物吉貞宗が来たら、茶請けにすると言っていたのは兄弟だろう」
「そうだけど、勝手に開けんなよ」
「とっても美味しかったですよー。ごちそうさまでした!」
上機嫌に笑いながら物吉貞宗が口を挟むと、ソハヤノツルキはどこか不服そうな顔をしながらも押し黙る。彼は口を閉ざしたまま、ずかずかと大股で室内を横切ると大典太光世の正面、すなわち物吉貞宗のすぐ傍に腰を下ろした。それを見た物吉貞宗は、それまでとはまた違った意味合いの笑みを口の端に乗せる。
「ソハヤさんの分のお茶も淹れますね。少し待っていてください」
ソハヤノツルキが戻ったことで、室内の空気が陽を射したように明るくなる。物吉貞宗はふたつの急須に湯を注ぎながら肩の力を抜くように浅く息を吐いた。
「……どうかしたのか?」
「え?」
不意に横からかけられた柔らかな声に、物吉貞宗は手を止めた。
「調子、悪いのかと思ってよ」
言いながら、ソハヤノツルキの手が物吉貞宗の頬に伸ばされる。顔を覗き込む赫い瞳は、その優しい声と同じくらい気遣いの色を宿していた。
物吉貞宗は頬に添えられた温度に瞳を震わせた。ソハヤノツルキの体温が自身に移りゆくごとに、雨音が沁み込んでいた胸に温かな気持ちが広がっていく。
どうしてか物吉貞宗は声を挙げることができなかった。彼の優しさが嬉しいはずなのに、少しだけ視界が滲んでしまう理由も解らなかった。胸から弾き出された雨音が、雫となって出てこようとしているのだろうか。
物吉貞宗の瞳に生まれた涙の気配に気が付いたのか、ソハヤノツルキの顔色が変わる。それを宥めるように物吉貞宗はソハヤノツルキの手のひらに自らの手を重ねた。太刀の大きな手のひらに頬を摺り寄せ、安らかな気持ちで微笑みを浮かべる。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「物吉」
引き留めるように名を呼ぶ声に一度頷いて、物吉貞宗はそっとソハヤノツルキの手のひらを外す。もう少しこうしていたいのは確かなのだが、煎茶の抽出時間を計っていた砂時計がそろそろ砂を落としきる頃合いだった。
「お待たせしました、ソハヤさん」
ソハヤノツルキに向かって湯気の立つ湯呑みを差し出すと、彼は未だ案じるような瞳で物吉貞宗を見つめた。そのことを嬉しく思いながら、物吉貞宗は赫い瞳に笑顔を返す。嘘でも強がりでもなく、本当に大丈夫だと伝えるように。
それから今度は大典太光世に向き直り、物吉貞宗はもうひとつの急須を掲げた。
「大典太様もよろしければ二煎目をどうぞー」
「……ああ。すまない」
そう言って大典太光世から差し出された湯呑みに茶を注いでいると。
「失礼します。物吉くん、いますか?」
響いた声に開け放たれたままの入口を見遣れば、そこには堀川国広が佇んでいた。
彼は物吉貞宗を認めると顔を綻ばせ、
「あ、やっぱりここにいた。主さんが呼んでるから、来てもらっても良いかな」
「わっかりましたー。大典太様、ソハヤさん、お邪魔しました」
物吉貞宗は元気よく腰を浮かせたところで一度ソハヤノツルキを振り返り、
「ソハヤさん、二煎目を淹れるなら三十秒で、三煎目を淹れるなら一分ですからね」
「解った解った。さっさと行ってこい」
面倒くさそうなソハヤノツルキの声を背中に受けながら物吉貞宗は堀川国広の隣に並ぶ。近侍を務める黒髪の脇差は少しだけ心配そうな顔をした。
「取り込み中だった?」
「いえ、大丈夫です。ボクがソハヤさんに会いたかっただけなので」
世間話でもするかのような口調でそう言うと、室内から大きく咳き込む音がした。振り返ればソハヤノツルキがその背を丸めて噎せている。
「ソハヤさん」
白湯を用意するために室内へ戻ろうとして、ソハヤノツルキがこちらを見ぬまま左手を振った。良いから行け、ということらしい。物吉貞宗は足を止めたまま目を丸くした。
「……じゃあ、行きます」
念のためそう告げると、顔すら合わせず大きく頷かれてしまう。
その態度に少々むっとはしたものの問答している暇はない。失礼しますと改めて挨拶をした物吉貞宗は、堀川国広とともに三池派の部屋を後にする。改めて隣に並んだとき堀川国広が何故か苦笑を浮かべていたが、あれはなんだったのだろう。
湿気のせいかなんだか柔く感じられる縁側を踏みしめながら、物吉貞宗はぽつりと、
「主様、なんの御用でしょうか」
ほとんど独り言に等しい呟きに、しかし堀川国広からは返事があった。
「うーん……僕も話があるとしか聞いてないんだね。近侍の交代とかではなさそうなんだけど。まあ、行けば解るよ」
「そうですね。行けば解ります」
堀川国広の言葉に物吉貞宗は笑顔で頷いた。
ふた振りの脇差は和やかに言葉を交わしながら縁側を進む。
庇の向こうの世界では、降り止まぬ雨がその勢いを増していた。
物吉貞宗が部屋を訪ねると、審神者はすぐさま人払いをした。
近侍の堀川国広にすら下がっているよう言いつけて、部屋に残されたのは審神者と物吉貞宗のふたりのみである。普段であれば、こういった呼び出しの場においても情報共有のために初期刀の山姥切国広か近侍の者(これは大抵堀川国広である)が控えているため、近侍でもないのに主とふたりきりというのは随分珍しいことだった。
物吉貞宗は部屋に入ってすぐに審神者の湯呑みの中身が空であることに気が付いた。茶を淹れるかと問えば、じゃあ頼むよ、と審神者は破顔する。物吉貞宗は足取りも軽く本日三度目の茶の用意に取り掛かった。
審神者の部屋には一風変わった茶が多い。緑茶や焙じ茶はもちろんのこと紅茶や烏龍茶、他にもなにがなんだかよく解らないものもある。物吉貞宗が淹れ方を知っているのは日本茶とせいぜい紅茶ぐらいのため、結局今回も煎茶を淹れる。今度、審神者に烏龍茶の淹れ方を聞いてみましょう、と物吉貞宗は心に留めた。
ふたり分の茶を用意して差し出すと、審神者はありがとうと礼を言ってから物吉貞宗にも座るよう勧めた。
審神者の向かい──中庭を臨む縁側を背にして物吉貞宗は置かれた座布団に腰を下ろす。背中からは強い雨の音が断続的に響いていた。
「物吉貞宗。きみは恋をしている」
前置きひとつ無く、藪から棒に審神者は言った。
物吉貞宗はしばし瞬きだけを繰り返す。それからこてりと首を傾げて、
「……こい、ですか?」
「そう。自分でも気が付いていないかな。きみの心に生まれている大きな感情に」
言われて物吉貞宗はそっと自らの胸に手を当てる。心とやらがそこにあるのかは解らないが、確かにこの半年の間に、物吉貞宗の中には今まで無かった感情が芽生えていた。それも胸いっぱいを満たすほどの大きさで。
「この温かくてふわふわした気持ちですか?」
そう答えると審神者は少しだけ笑った。なんだか痛そうな笑顔だった。
「その恋心を捨てて欲しい」
厳かに告げられた一言を、物吉貞宗は静かに受け止める。
不思議と疑問や動揺は抱かなかった。ただただ単純に、ああそうか、この気持ちは抱いてはいけないものなのだなあと思うだけだった。
審神者は落ち着いた声で続ける。
「きみたち刀剣男士は想いを具現化させた存在だ。信仰という形で外的干渉も受けるが、人間よりも精神存在に近いきみたちは内的干渉にも引きずられやすい。要するに、きみたちの『感情』だよ」
真剣必殺が力を発揮するのも、刀剣男士の怒りという感情に霊力が呼応しているためだと審神者は言った。
「この世に在る、ありとあらゆる感情の中でも『恋』とは劇薬だ。きみの心に良い影響も悪い影響も及ぼす。もしも悪い影響を受けて心が歪んでしまえば……」
主はそこで一度言葉を切り、しかし迷いを振り切るように毅然と顔を上げた。
「物吉貞宗。きみの刀剣男士としての存在をも脅かしてしまう」
「つまり刀剣男士は恋愛禁止なんですか?」
「その言い方だとちょっと緊迫感が減るから控えるように」
審神者は仕切り直すように咳ばらいをして、
「物吉貞宗。きみは自分の『物語』に疑問を抱かなかったかな?」
問いかけられて、物吉貞宗は微かに息を呑む。
思い当たる節があった。ソハヤノツルキから金平糖を貰ったあの冬の日だ。
あの日、物吉貞宗は『幸運の刀』の始まりを夢想した。
自分には『幸運の刀』ではないときがあったはずだ、と。
まさか、それが──。
顔を曇らせる物吉貞宗を見て、審神者は慌てて手を振った。
「心配しなくて良いよ。実は、それ自体は悪いことじゃない。修行に行った短刀たちをきみも見ただろう。彼らは自分の『物語』を見つめ直しに行ったんだ」
物吉貞宗はほうと安堵の息をつく。けれど審神者は一転して固い表情を浮かべた。
「恋も同じだ。それだけなら決して悪いことじゃない。けれど今のきみはそのふたつの要素が噛み合ったせいで極めて不安定な状態にある。刀剣男士から寄る辺となるべき『物語』を奪うわけにはいかない。だからきみには、その恋心を捨ててもらうしかない」
憂いの籠った吐息が深く深く吐き出され。
「すまない。物吉貞宗。本当にすまない」
審神者は項垂れるように顔を伏せた。
「私はきみの恋心を、奪う」
そう告げる主の膝の上では固く握られた拳が震えていた。
ああそんな、と物吉貞宗は小さく首を横に振る。
そんな──そんな顔をしないでほしかった。
「良いですよ、主様」
物吉貞宗はむしろ朗らかにそう言った。
「消してください。すべて。主様がそんな顔をする必要はありません」
柔らかな声で、しかし決然と告げる物吉貞宗の心は凪のように静かだった。目の前の主からは、どこまでも自分を案じてくれていることが痛いほどに伝わってくる。それなのに、どうして物吉貞宗が悲しみに暮れることができようか。
それに審神者は、自身にさえ判らなかった物吉貞宗の胸中を明かしてくれた。
「……そう。そうだったんですね」
自然と呟きを漏らしながら、物吉貞宗は自らの胸にそっと手を添える。そこはいつもと変わらぬ鼓動を刻んでいた。
ソハヤノツルキを想う度、この胸を満たしていたものの名を。
物吉貞宗はようやく知った。
「ボクは、恋をしているんですね」
何気なく。本当に何気なく、そんなことを口にして。
審神者から知らされたその事実を実感した途端。
物吉貞宗は──何故か急に世界が華やいで見えた。
全身が言いようのない高揚感に包まれる。思わず両手で包んだ自らの頬は妙に熱くなっていた。それまで薄暗かったはずの室内は光が降り注ぐかのように明るく煌めき、冷たい雨音は遠く遠く霞んで消えた。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
物吉貞宗の胸中を満たすのはひたすらの歓喜のみ。
ああ、そうだったのか。ふわふわとしていて、春の陽だまりのように暖かくて、羽毛のように心地よくて、こんなにも幸福な想いの名こそ恋なのだ。
物吉貞宗は、ソハヤノツルキに恋をしているのだ!
あのひとのために在りたいのも。彼の役に立てることが嬉しいのも。彼に会いたくなってしまうのも。
ぜんぶぜんぶ、物吉貞宗が恋をしているから。
「ありがとうございます、主様!」
弾けんばかりの笑顔を浮かべ、物吉貞宗は心の底からの感謝を告げた。
審神者は驚いたようにぽかんと口を開けている。物吉貞宗はにこにこしながら続けた。
「主様のおかげで、この気持ちの名前を知ることができました。とっても嬉しいです!」
「……私は、それをきみから奪おうとしているんだよ」
「はい、構いません。ボクの役割は主様に幸運を届けることです。ボクがその使命を投げ出すことをあのひとは望まないでしょう」
物吉貞宗は『天下人の霊剣』であり、故に『幸運の刀』となった。例え自らの想いを捧げても、物吉貞宗には応え続けなければならない願いがある。刀剣男士としてこの地で果たすべき使命がある。
ソハヤノツルキへの想いを自覚した今は尚更だ。
彼もまた、『天下人の霊剣』としてあの地で彼の役割を果たしてきた。
歴史が移ろいゆく中で、例え主が異なろうとも。在るべき場所が離れていても。
かつての主の名の下に、己が課せられた使命を互いに全うすること。
それこそが──天下人の霊剣であるふた振りの、なにより大事な繋がりだった。
だから、恋心を失うことに躊躇は無かった。物吉貞宗は幸運の刀で在らねばならない。
ソハヤノツルキへの想いに名前があったこと。その名前を知られたこと。
それだけで、物吉貞宗には十分だった。
「主様が悩まれる必要はありません。大丈夫です。この想いが無くなったからと言って、ボクとソハヤさんのなにかが変わるわけではありませんから」
本心から思ってそう告げるものの、審神者は未だ迷いがあるようだった。苦しそうな表情で物吉貞宗を見つめている。物吉貞宗にとっては想いを失くすよりも、主がそんな顔をしていることの方が辛かった。
「お願いします。ボクのために主様にそんな顔をさせてしまうのは、我慢できません」
物吉貞宗は誰かのために在る刀だ。
だから。
「主様。笑顔が一番、ですよ!」
身を乗り出して満面の笑顔を浮かべる。
審神者は最後にもう一度だけすまないとだけ呟いて、ようやく頷いてくれた。
その様子に安心し、物吉貞宗は座布団へ元の姿勢で正座する。
「……でも、恋心ってどうすれば失くせるんでしょう?」
物吉貞宗は純朴に首を傾げながら尋ねた。
もし、その恋心を胸に押し込めてくれと言われても、物吉貞宗は我慢できる気がしなかった。だって、その想いは勝手に溢れて自ずと嬉しくなってしまうのだ。
「そういう術がある。精神と肉体の関係について説明すると長くなるから割愛するけれど、人間よりも精神存在に近い刀剣男士なら、特定の想いを弾き出すのは案外簡単なんだ」
「主様はそんなことまでできるんですね。さすがです!」
それは心からの賛辞だったのだが、審神者は複雑そうに苦笑を浮かべた。
「ただ、それでも人間の手では神の想いを完全に消し去ることはできない。封印することが精いっぱいさ。だから物吉貞宗、きみから取り出した恋心をしまう器が必要になる。できるだけきみの持ち物を使う方が封印が馴染むのだけれど、なにか持っているかな?」
「器……ですか」
「蓋ができるようなものだと尚良いかな。こういうのは、イメージが重要なんだ」
右手の人差し指を唇に当てて思案する物吉貞宗に、審神者はそう付け加えた。
「一番大事なのは、その器に思い入れがあることだよ。想いを入れるものだからね」
冗談を言っているのかと思ったが、審神者の顔はいたって真剣である。
「もしも無ければ私が用意をしよう。私からきみに器を贈れば、それだけで『主からの贈り物』という意味と想いが宿ることになるからね」
審神者の声に耳を傾けながら、物吉貞宗は夢想するように視線を虚空へ投げかけた。
蓋ができるもの。思い入れがある器。
──その条件にぴたりと当て嵌まるものが、物吉貞宗の脳裏に浮かんだ。
「主様。ボク、ちょうどぴったりの物を持っています!」
物吉貞宗は手のひらを合わせて微笑んだ。つられるように審神者も微かに口の端を上げ、
「そう。それじゃあ急だけど、明日の夕方に行おうか」
「今じゃなくて良いんですか?」
反射的に問いかけると、審神者は少しだけ悲しそうな笑みを浮かべた。
「うん。明日にしよう。だからそれまでは、その想いを大事にするんだよ」
「……はい。解りました」
審神者の様子から、物吉貞宗は自分が失言したらしいことを察した。今度は主の言葉に素直に頷いてから、ふとあることを思いつく。
儀式が行われるのは明日の夕方。審神者はこの想いを大事にしろと言った。
それならば。
「──主様」
物吉貞宗は審神者の顔を真正面から見つめ、薄い唇を動かした。
「ひとつだけ、お願いをしても良いですか?」