きらきらひかる 3


「ソハヤさん。今日、ボクと出かけてもらえませんか?」
 物吉貞宗はにっこりと笑みを浮かべて、ソハヤノツルキにそう提案をした。

 審神者の呼び出しから一夜明け、物吉貞宗は朝餉の席についていた。隣には亀甲貞宗、正面にはソハヤノツルキ、彼の隣には大典太光世が座っている。食卓を囲む相手は日と時によってまちまちである。今日はたまたま兄弟刀と席を並べたが、徳川の刀や脇差の友人、はたまた時代も主もまったく異なるような刀とともに食事をすることもある。
 とはいえこれはあくまで物吉貞宗の話で、ほとんど必ず同じ相手と食事を摂っている者も少なくはない。身近なところで言えばもうひとりの兄弟である太鼓鐘貞宗は大抵伊達の刀と一緒だし、友人の鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎のふた振りも、顔を揃えていない場面はまず見かけない。
 誘いを受けたソハヤノツルキは味噌汁の椀を一度置き、
「今日? どこまでだ?」
「万屋です。荷物の引き取りがあるんです」
 亀甲貞宗に醤油差しを渡しながら物吉貞宗はそう答えた。
 生活用品は万屋にあるもので揃えるのが基本だが、嗜好品や娯楽品といった万屋で取り扱いがないような商品は審神者が政府に発注し、万屋の店頭で引き取ることになっている。頻度は大体月に二、三回。要望が多ければ毎週発注をかけることもある。物吉貞宗はあまりこの制度を利用したことはないが、極端に問題があるものでなければ大抵政府の認可は降りるようだ。以前、脇差部屋名義で頼んだたこ焼き機が本当に届いたときは、いや届くんかい、と鯰尾藤四郎が突っ込みを入れていた。
 発注したものや数によっても変わってくるが、少年体型の脇差ひと振りでは持ち帰れない量になることもある。それを知るソハヤノツルキは快諾した。
「ああ、良いぜ」
「ありがとうございます」
「万屋か。兄弟、なんか必要なものあるか?」
「……特には」
 ソハヤノツルキが明るく聞くと、大典太光世が沈んだ声で返答する。
 見た目と表面上の性格だけ見れば正反対な兄弟のやり取りをにこにこしながら見つめていると、横から亀甲貞宗が醤油差しを差し出しながら微笑んだ。
「気を付けて行ってくるんだよ。これ、ありがとう」
「はい、兄様!」
 醤油差しを受け取った物吉貞宗は兄の言いつけに頷いた。
「で、いつ出るんだ?」
「えーっと……午前は洗濯のお手伝いをするつもりなので、お昼過ぎでも良いですか?」
 今日は数日振りに雨が止んでいる。久々の曇り空に、溜まった洗濯物を解消しようと堀川国広が張り切っているのだ。どうやら彼は既に洗濯に取り掛かっているらしく、普段であればそこが自分の居場所と言わんばかりに控えている和泉守兼定の傍らに、黒髪の脇差の姿は無かった。
 物吉貞宗は今日も丸一日非番を与えられているのだが、洗濯物の量が量である。できるだけ手伝いをしたかった。
「解った。多分部屋にいるから、終わったら声をかけてくれ」
「わっかりましたー」
 元気良く頷いて、それまでにこにこと笑っていた物吉貞宗は、ふと赤みがかった薄橙の瞳を解けるように柔らかく細めた。
「楽しみにしてますね」
 素直な想いを言葉にすると、ソハヤノツルキは箸の先からぽとりと沢庵を落とした。



 洗濯の手伝いを終え、昼餉も済ませた物吉貞宗は三池派の部屋へ行く前に審神者の部屋を訪れた。
 荷物を受け取る際に必要な発注書を管理しているのは他でもない審神者である。本日近侍を務めている浦島虎徹は未だ昼餉中らしく、審神者の部屋にほかの刀の姿は無かった。
「はい。これが今回の発注書」
「ありがとうございます!」
 審神者から紙を受け取った物吉貞宗は、朗らかな笑顔を浮かべた。
「主様のおかげでソハヤさんと出かけられることになりました。楽しんできますね!」
 昨日、物吉貞宗が審神者に告げたのは明日の買い物当番を任せてほしい、という要望だった。もしもソハヤノツルキが断らなければふたりで少し出かけたい。物吉貞宗は、そう願い出たのだった。
 ふたりきりになるなら遠征もあると審神者は言ってくれたのだが、物吉貞宗の方から丁重に断った。大切な出陣の最中に浮ついた気持ちでいるのは刀としての矜持が許さないし、なによりも相手に失礼である。
 ささやかな時間で良かった。もうちょっと、あとほんの少しだけ、この気持ちのまま彼との時間を過ごすことができれば。
 物吉貞宗はそれで良かったのだ。
 まっすぐに感謝を告げられた審神者は苦笑を浮かべ、
「こんなことくらい構わないよ。でも、午後からで良かったのかな。一応午前も空けておいたのに」
「良いんです。お手伝いもしたかったですし、万屋で一日潰すのも難しいですから。お心遣いありがとうございます」
 そうか、とひとつ頷いて審神者は口の端を緩めた。
「……楽しんでおいで」
「はい! お土産を買ってきますね!」
「いや、お土産は別に良いけど」
 そんな会話をして審神者の部屋を後にした物吉貞宗は、足取りの軽さはそのままに今度は三池派の部屋を訪ねた。言われた通りに声をかけると物吉貞宗の顔を見たソハヤノツルキはすぐに立ち上がり、ふたりは連れ立って玄関に向かう。
 発注書を持つ物吉貞宗だけは小ぶりな鞄を肩にかけているが、ソハヤノツルキは完全に手ぶらである。帰りには荷物が多いであろうことを考えれば、それが正解だろう。
 本丸を発って万屋へと向かう道すがら、物吉貞宗は空を見上げて上機嫌に笑った。
「雨が降ってなくて良かったですー」
「だな。随分と久しぶりな気がするぜ」
 相槌を打つソハヤノツルキの声も幾分軽い。晴天を臨む、とまでは行かないが雨が降っていないだけ御の字である。ちゃんと全部乾くまでこのままなら良いんですけど、と物吉貞宗は洗濯物に思いを馳せた。
 物吉貞宗とソハヤノツルキが歩く道には最近の長雨を示すようにいくつもの水溜まりができている。物吉貞宗が目の前の大きな水溜まりをぴょんと跳んで避けると、ソハヤノツルキは長い足で水溜まりを跨いだ。ふたりは顔を見合わせて笑みを交わすと、また肩を並べて歩き出す。ソハヤノツルキは普段よりも少しだけ歩く速度を緩めて。物吉貞宗は普段よりも少しだけ歩く速度を速くして。ふた振りは同じ速度で歩いていく。それはこの本丸で過ごすうち、いつの間にか身についていた習慣だった。
 万屋までは然程距離もない。他愛もない話をしているうちに着いてしまう。
 店の暖簾をくぐり店員に発注書を渡すと店の奥からいくつかの紙袋が持って来られる。そのうちのひとつに大き目の箱があるのを見て、ソハヤノツルキは顔をしかめた。
「おい、なんだあれ」
「あれは多分、扇風機ですね」
 四つに分かれている打刀部屋のどこかの部屋で扇風機が壊れた、という話は物吉貞宗も耳にしていた。『壊れた』のか『壊した』のかまでは知らないが。
「後は主様が頼まれた新茶とか……あ、歌仙様も抹茶を頼まれてましたね」
「そういやお前、茶は点てないよな」
「やったことはありませんねー」
 多少の知識はあるものの、茶道となると礼儀作法も意識しなければならない。歌仙兼定や平安生まれの刀のように茶の湯を嗜むことが多いなら身に着けようかとも思うのだが、物吉貞宗は精々部屋で喉を潤す程度であるため、きちんと学んだことは無かった。
「お茶は点てませんけど、今、主様からほかの国のお茶の淹れ方を教わろうと思ってるんです。覚えたらソハヤさんにも淹れますね」
 そう言って笑みを浮かべると、ソハヤノツルキも軽い笑みを返した。
「美味いのを頼むぜ」
 言いながら、いつものようにぽんと頭を叩かれた。
「──ひぁっ」
 物吉貞宗は思わずびくりと体を震わせてしまう。
 ソハヤノツルキは友人の見慣れぬ反応に思い切り眉を顰めた。
「……あ?」
「お、驚いただけです」
 太刀を宥めるように物吉貞宗はそう弁解をした。
 物吉貞宗自身も正直なところ自分が驚いたことに驚いている。ほんの昨日まで、ソハヤノツルキが触れてくることはふたりの間柄の気安さの象徴以外のなにものでも無かった。けれど今は違う。物吉貞宗にとって、ソハヤノツルキは恋する相手だ。
 物吉貞宗は知らなかった。
 好きな人が触れてくる。それだけで、こんなにも胸が破裂してしまいそうになるなんて。
 一緒にいられるだけで物吉貞宗の心はいっぱいいっぱい満たされる。ソハヤノツルキに触れられるとその想いが溢れてしまいそうで、なんだか身構えてしまった。
 けれど物吉貞宗のそんな胸中がソハヤノツルキに伝わるはずもない。彼はどこかぎこちない脇差と自身の手のひらとを見比べて、ぼやいた。
「驚いたって……触っただけだろ」
 彼の不満を見て取った物吉貞宗は慌てて両手を振った。
「心構えさえあれば大丈夫だと思います。どうぞ!」
 ぎゅっと強く目を瞑り、ぴしりと背筋を整える。
「……どうぞって言われてもな」
 困ったように呟きながらもソハヤノツルキは物吉貞宗の頭に手を伸ばす。触れた瞬間、物吉貞宗は微かにぴくりと反応してしまったが、声を上げることはしなかった。それでも閉じる瞼にはより力が籠る。ソハヤノツルキの手のひらは躊躇いがちに、ゆっくりと物吉貞宗の頭を撫で始めた。
 大きくて温かな手のひらが心地良い。初めは緊張に早くなっていた鼓動が段々と落ち着いてくる。胸中どころか足の爪先から頭のてっぺんまで、体中がふわふわとした気持ちに包まれていって物吉貞宗はほうと息をついた。全身から力が抜けて、自然と口の端が緩む。固く閉じていた瞼をゆっくりと開くと薄橙の瞳にソハヤノツルキが映り、またひとつ幸福な想いを胸に抱いた。
 ふた振りの視線が重なったその刹那。
 ソハヤノツルキは螺子が切れたように静止して、次の瞬間、弾かれたように手を引いた。
「……ソハヤさん?」
 もう撫でてはくれないのだろうか。
 そんな疑問とともに太刀を見上げると、彼は明後日の方向を見ながら、
「いや。万屋だろ。ここ」
「それもそうですね」
 他の客がいないとはいえ、店内でふたりとも立ち止まっては迷惑である。
 物吉貞宗は彼の言葉に納得した。
「ほかに用事は無いのか?」
「あ、主様にお土産を買っていきたいんです。一緒に選んでください!」
 別にいい、と言われたことは既に忘却の彼方である。
「主ねぇ。ただでさえ部屋に物が多いし、食い物の方が良いんじゃないのか」
「ボクもそう思います」
 ソハヤノツルキの助言に頷きながら店内を見渡していた物吉貞宗は、和菓子の並ぶ一角に興味が惹かれた。
「……お菓子は良さそうですね。新茶もありますし」
「そうだな。茶請けになる」
 ふたりは揃って陳列棚を覗き込んだ。どら焼き、最中、大福、柏餅、練り切り。硝子のはめ込まれた陳列棚には取り取りの和菓子が並んでいる。
 物吉貞宗は白い指先でなんとなく硝子を指でなぞった。
「端午の節句は過ぎてしまいましたが、時期としては柏餅ですよね。それとも新茶に合わせるなら練り切りの方が良いでしょうか」
「そこは好みだろ。茶の味も年によって変わるしな」
「そうなんですよねー。主様はどちらもお好きですし……」
 物吉貞宗はしばしふたつの和菓子を見比べた後、満面の笑顔をソハヤノツルキに向けた。
「両方選んでしまいましょうか」
「やめとけ」
 と、首を横に振られてしまう。物吉貞宗はむうと眉を顰めて、再び陳列棚に向き直り、
「……練り切りにします」
 審神者はそれほど季節の移ろいに拘るわけではないが、柏餅はどうにも端午の節句の印象が強い。この時期の花を象った練り切りであれば、ほどほどに五月らしくて時節遅れの感が無いだろう。
 土産も決まって満足した物吉貞宗は、ふと顔を上げた先で和三盆を目に留めた。
「──そう言えば、昨日はごちそうさまでした。和三盆、本当に美味しかったです」
 改めて礼を述べると、しかしソハヤノツルキは複雑そうな顔をした。
「お前が美味かったなら良いけどよ……あれは俺には甘すぎた。茶が無いと無理だ」
「えー、美味しかったですけどねー」
「ま、お前は甘いものが好きだからな」
「はい。でも、辛いものも苦いものも渋いものも同じくらい好きですよ」
 要するに大体なんでも好きである。
「そうなのか? 甘いものが特に好きなんだと思ってたぜ」
「どうしてですか?」
「前に金平糖をやったとき、えらい喜んでただろ」
 思わぬ発言に、物吉貞宗は目をしばたたかせた。
 ──それは、つまり。
 わずかに小首を傾げながら、傍らの太刀を見上げる。
「ボクが甘いものを好きだと思って、和三盆を用意してくれたんですか?」
「っ!」
 指摘されてから失言だったと思ったのか、ソハヤノツルキは一瞬硬直した後で勢いよくそっぽを向いた。
 物吉貞宗が呆気に取られていたのはほんのわずかな時間だった。再び幸福な気持ちに囚われながら、物吉貞宗は太刀の横顔をその瞳に映す。彼の言葉は、彼の振る舞いはいつだって物吉貞宗を陽だまりの中に連れ出してくれるかのようだった。
 ──もしもソハヤノツルキに恋をしていなかったら、物吉貞宗がこんなにも幸福な気持ちを抱くことは無かったのだろうか。
 だとしたら、ソハヤノツルキに恋をしたことは一生分の幸運だ。
 物吉貞宗は彼の顔が見たくなった。ちゃんと顔を合わせながら、感謝の言葉を伝えたい。
 指先をソハヤノツルキの袖にかけて引くと、表情だけは億劫そうにしながらも彼はこちらを振り向いてくれた。
「ありがとうございます」
 ソハヤノツルキをまっすぐに見つめ、物吉貞宗は花開くように微笑んだ。
 喜びを宿した薄橙の瞳を向けられたソハヤノツルキは何度か頭を掻いてから、深いため息を吐いた。



 荷物の引き取りと買い物を終えたふた振りは、万屋の軒先で足を止めた。
 二対の瞳で見上げる曇天からは小さな雫の群れが落ちてきている。それほど強い雨でもなさそうだが、濡れずに帰れる距離でもない。ソハヤノツルキは扇風機(仮)が入った紙袋を持ち、物吉貞宗は他の品々が入った紙袋を抱えている以上、走って帰るというのも無理である。
 ソハヤノツルキは空に向かって手のひらを向けた。
「降ってきたな」
「ボクに任せてください!」
 呟きに、物吉貞宗は満面の笑顔で肩掛け鞄に右手を突っ込んで、
「折り畳み傘です!」
「準備良いな。脇差ってのは、どいつもこうなのかね」
「さあ。どうでしょうねー」
 適当な相槌を打ちながら物吉貞宗が傘を広げると、傍らの太刀がそれを取り上げる。傘を差したソハヤノツルキから行くかというように笑みを向けられて、物吉貞宗は顔を綻ばせながら差し出された傘の中に身を躍らせた。
 しとしとと雨が降る中を、ふたりは並んで歩き出す。ひとつの傘を分け合ったふたりの間に沁み込んでくるのは、傘の表面を断続的に叩く雨音と、熱の籠った重たい水のにおい。物吉貞宗は自身を襲う梅雨の象徴から逃れるように、紙袋を抱える腕に力を籠めた。その動きに気が付いたのか、ソハヤノツルキが赫い瞳を向けてくる。
「濡れるか?」
「いえ、大丈夫です」
 物吉貞宗は首を横に振ってから、傍らの太刀を見上げた。
「でも、もう少しだけソハヤさんに寄ってもいいですか?」
 問いかけて、答えを聞く前に物吉貞宗はその痩躯をそっとソハヤノツルキに寄せた。
 距離を詰めるとより強くソハヤノツルキの霊力を感じる。今なおかつての主とともに在るためなのか、六百年前とほとんど変わらない彼の霊力を。
 その霊力をすぐそばで感じていると、心のどこかが緩むような気がした。梅雨の気配とソハヤノツルキの霊力に囲まれて、物吉貞宗の感覚がかつての日々に還っていく。ただの天下人の霊剣でしかなかったあの頃の日々に。
「……あの日も、こんな天気だったのでしょうか」
 緩んだ気持ちに引きずられるように、物吉貞宗の唇は自然とそんな呟きを漏らしていた。
「覚えてねえよ」
 嘘ばっかり。物吉貞宗は口には出さず、素気の無い返事をした太刀を非難する。
 元和二年四月十七日。
 この日、物吉貞宗とソハヤノツルキのかつての主──徳川家康はこの世を去った。
 ただしこの日付は旧暦の場合だ。本丸で現在使われている新暦に則れば、六月一日に当たるという。
 物吉貞宗の前の主は、こうして雨が続く季節に少しずつ弱りながら逝ってしまった。彼が生きた時代を思えば十分幸福な最期だったと言えるだろう。それでも物吉貞宗は季節が梅雨を迎える度に、こうしてあの頃を偲んでは心に寂寞を募らせる。
 かつての主の最後の日が晴れていたのか雨だったのか、物吉貞宗は覚えていない。曇りだったかもしれないし、もしかしたら全てだったかもしれない。
 ただひとつはっきりしているのは、あの日を境にソハヤノツルキと物吉貞宗は主を違えることになったということだけ。
 そして五九〇年の月日を経て、ふたりはこうして同じ道を歩いている。
「今でもたまに、ふと信じられなくなるんです」
 物吉貞宗は微かな声で呟いた。傘を打つ雨音にかき消されてしまうのではないか。そう思うほどに小さな声だった。
「こうして人型(ひと)の肉体を得たこと。また勝利を運ぶお手伝いができること。それから、またソハヤさんに会えたことが」
 傘を持つソハヤノツルキの指がぴくりと震えた。
「……そうだな」
 わずかに間を置いて返ってきたのは感情の薄い声だった。こういう声を出すときほど彼の胸中には万の言葉が渦巻いていることを物吉貞宗はよく知っている。本当に解りやすいんですから。胸中でそう苦笑する。
 肩越しに見上げた太刀の顔が険しく見えて、物吉貞宗は敢えて冗談めかして言った。
「ちょっとだけソハヤさんが羨ましいです。ずっと家康公のおそばにいられたんですから」
「──物吉っ!」
 瞬間、ソハヤノツルキは紙袋を投げ捨てると空いた右手で物吉貞宗の肩を掴んだ。そのまま強い力で身体ごとソハヤノツルキの方に振り向かされる。燃えるような激情を宿した赫い瞳を据えられて、物吉貞宗はわずかにその身を竦ませた。
「お前は……!」
 強い口調でなにかを言いかけて、しかしソハヤノツルキは言い淀む。
 お前は、と頼りなく震える唇が同じ言葉を繰り返した。けれどそれは音にはならない。強い感情を宿していたはずの赫い瞳が段々と躊躇いの色を濃くしていくのを見て、物吉貞宗は駄目です、と小さく首を振った。
 聞き逃したくなかった。彼の言葉はなにひとつ。
 物吉貞宗は自身の肩を掴む大きな手のひらに自らの手を重ねた。ふたつの手のひらの間で物吉貞宗とソハヤノツルキの体温が溶け合う。言ってください。そんな願いを籠めてソハヤノツルキを見つめると、彼は眩しそうに、あるいは微笑むように瞳を細めた。
 もう一度だけソハヤノツルキの唇が動き、声にならない言葉が紡がれる。それがなんの言葉だったのかまでは物吉貞宗にも解らなかった。
 そして彼はこう言った。
「『あの日』から、お前は幸せだったのか?」
「──っ」
 動揺に、重ねた手のひらが力を失くして落ちていく。
 答えなんて返せるわけがなかった。
 物吉貞宗が自分の幸せを考えたことなど、ただの一度も無かったから。
 皆さんに幸運を運べることがボクの幸せです。そんな言葉で誤魔化すのは簡単だった。その答えとて決して嘘ではない。けれど目の前の太刀がそんな返答を求めているのではないことくらい、物吉貞宗は解っている。
 きちんと答えなければならない。自らに言い聞かせ、物吉貞宗は彼の問いに向き合う。
 問いかけに迷いなく頷くことはできなかった。物吉貞宗に名を与え、『物語』を与えてくれた主とともに在りたかったことは確かだから。
 けれど首を横に振ることもできない。物吉貞宗を代々の守り刀とした尾張の人々は、自分のような小さな脇差に願いと祈りをかけて、大事に大事に扱ってくれたから。
「……ごめん、なさい」
 結局──物吉貞宗はなにも答えられなかった。
 肯定も。否定も。解らないと言うことすら。
「ごめんなさい、ソハヤさん。ごめんなさい……」
 声を震わせ謝罪を繰り返すと、ソハヤノツルキはそっと物吉貞宗を抱き寄せてくれた。肩に置かれていた手が、支えるように背中に回される。
「……悪い。忘れてくれ」
 らしくもなく力の無い声だった。物吉貞宗は、太刀の厚い胸板に押し付けた頭を必死で左右に振った。
 そんなことを言わないで欲しい。どうか今の言葉を否定しないで欲しかった。
 おかげで物吉貞宗は、知ることができたから。
「ボクのこと……ずっと、心配してくれてたんですね」
 安堵にも似た吐息とともに、物吉貞宗はそう呟いた。彼から返事は無かったが、背中に回っていた腕へわずかに力が籠められたような気がした。
 あのときだ。物吉貞宗は、それをようやく理解した。
 物吉貞宗が『幸運の刀』になったのは──徳川家康が生涯を閉じたあの瞬間(とき)だ。
 正確に言えば、物吉貞宗がそう謳われるようになるのはもっとずっと後の時代のことである。けれど物吉貞宗の『幸運の刀』としての運命は、元和二年のあの日から始まっていたのだろう。
 そして──その運命に身を投じた物吉貞宗を、ソハヤノツルキは案じてくれていた。
 徐ろに顔を上げると、滲んだ視界には気遣わしげな太刀の顔が映る。
 物吉貞宗が微笑みを浮かべたのは、彼を安堵させるためではない。
 嬉しかったのだ。
 この古馴染みの太刀が、離れていた間も物吉貞宗を想ってくれていたことが。
 ソハヤノツルキと物吉貞宗が徳川家康の下にあったのは一体いつからだったのか。ただの鉄の塊だった頃の記憶は曖昧で、物吉貞宗にもはきとは解りかねる。それでも、彼とともに在った時間は人間の一生よりもずっとずっと短い時間だった。
 ──それなのに、このひとは。
 嬉しくて嬉しくて、本当に嬉しくて、なのに何故かひどく胸が痛かった。
 そんな感情がソハヤノツルキに伝わってしまったのだろうか。彼は眉を顰めると物吉貞宗の背中に回していた腕を今度は後頭部に添えた。無理に笑わなくていいと言うように、そっと物吉貞宗の顔を伏せようとしてくる。別に無理はしてないんですけど、と胸中で苦笑しつつも物吉貞宗はその力に抗わず、全身の力を抜いて彼の胸元に額を預けた。
 傘を叩く雨音はもう聞こえない。雨や曇りを通り越し、いつの間にか陽光すら射し始めているらしく、道に生まれた水溜まりはきらきらと水面を輝かせている。それを視界に捉えながらも、物吉貞宗もソハヤノツルキも傘を閉じようとは言わなかった。互いに口を閉ざしたまま、ひとつの傘の下で身を寄せ合う。
 ソハヤノツルキの右手は変わらず物吉貞宗の頭に添えられている。物吉貞宗はソハヤノツルキの手のひらが好きだった。触れる度、物吉貞宗の身体と心に温かな熱をくれるこの手のひらが。物吉貞宗は誰かのために在る幸運の刀のはずなのに、ソハヤノツルキからはいつも与えられてばかりだ。昨日も。あの冬の日も。今、このときも。
 ──だから物吉貞宗は、この刀に恋をしたのだろう。
 そのことに気が付いた瞬間、再び胸が鈍く痛む。やはり審神者の言う通り、この感情は劇薬なのだ。彼を想えば想うほど物吉貞宗の心は幸福で満たされ、しかし底には澱にも似た痛みが降り積もる。
 瞳から溢れそうな雫はきっと彼への想いが形となったものだろう。零してはいけない、と思った。物吉貞宗は唇を噛み、溢れそうな想いを涙とともに胸の底へと仕舞い込んだ。

 恋をしている。
 物吉貞宗は、恋をしている。
 この日限りの恋を。





 差していた傘が閉じられたのは、本丸の玄関に着いてからのことだった。
 ソハヤノツルキは傘に残る雨滴を払った後、きちんと畳んで物吉貞宗へと返却する。それを受け取った物吉貞宗は癖毛を揺らしてお辞儀をした。
「今日は付き合っていただいて、ありがとうございました」
「俺も楽しかったぜ」
 ソハヤノツルキは笑みを浮かべてそう言った。それから自らが持つ紙袋に視線を落とし、
「この扇風機は打刀部屋のどこかに運べば良いんだな?」
「はい。どなたかがご存知だと思います。ボクはこのまま主様にお荷物を渡してきますね」
「解った。んじゃ、また後でな」
 ソハヤノツルキは軽く左手を振ると、物吉貞宗に先んじて框に上がる。やたらと紐の多い洋靴を脱いでから後に続いた物吉貞宗は、その瞳に遠ざかりゆく太刀の背中を映した。
 彼を追いかけたのは、無意識だった。
 白く細い指先がソハヤノツルキの服の裾を掴んで初めて、物吉貞宗は自分が彼に手を伸ばしていたことを自覚する。一度前につんのめってから、ソハヤノツルキは驚いた顔で物吉貞宗を振り返った。
 赫い瞳に見つめられ、物吉貞宗はようやく自分の望みを理解した。
 もう少しだけ。本当に、後もう少しだけで良い。
 この恋心を失う前に、彼と言葉を交わしたかった。
「……あの。さっきの質問、なんですけど」
 そう言葉を紡ぐと、ソハヤノツルキは身体ごと物吉貞宗に向き直る。その顔がどんな表情を浮かべているのかは、俯く物吉貞宗には解らなかった。
 縋るように彼の服の裾を握りしめたまま、物吉貞宗は顔を上げて薄い唇を開いた。
「いつか答えを見つけたら、もう一度、ボクに尋ねてくれますか?」
 意を決して投げかけた言葉に、ソハヤノツルキは息を呑んだ。物吉貞宗は見開かれた赫い瞳から絶対に目を逸らさない。強く強く眼差しを送り続ける。
 強張っていたソハヤノツルキの目元が段々和らいでいく。まるで雪が溶けていくように。
「──ああ。聞かせてくれ」
 その迷いのない返事に、物吉貞宗はまた少しだけ目頭が熱くなるような気がした。
 どうしてか、こんなときばかり上手く笑えない。
 物吉貞宗は口元だけ無理やり引き上げながら、つまんでいた服の裾をそっと離した。指先から縁(よすが)が遠ざかるのを見届けて、物吉貞宗は今一度頭を深く下げる。
「ありがとうございます。では、失礼します」
「物吉」
 踵を返したところで、今度は物吉貞宗の方が呼び止められる。
 肩越しに彼を振り返ると、ソハヤノツルキはなんだか困惑したような顔をしていた。
「お前……どこかに行くのか?」
 彼の質問の意味が解らず、物吉貞宗は立ち止まったまま瞳を瞬かせた。ソハヤノツルキはもどかしそうに髪をかき上げてから、緩く首を横に振る。
「いや、悪い。なんとなくそう思っただけだ。どこにも行かないならそれで良い」
 ソハヤノツルキの言葉に物吉貞宗は苦笑してしまう。
 審神者の荷物が入った紙袋を抱えたまま、物吉貞宗は不安の色を宿した赫い瞳に真正面から相対した。
「ボクはどこにも行きませんよ。明日も明後日も、その先だってここにいます」
「……そう、だよな。当たり前だ」
 ソハヤノツルキは当たり前だ、と譫言のように繰り返す。それからいつものように破顔して、
「引き留めて悪かったな」
「いえ、お互い様ですから」
 物吉貞宗はひとつ微笑みかけて、再びその身を翻した。動き出す足に迷いはない。まっすぐに審神者の部屋を目指して歩いていく。
 もうなにも心残りはない。
 これからも『幸運の刀』で在るために。
 物吉貞宗は、自ら望んで恋心を手放すのだ。



 審神者の部屋へと向かう途中、物吉貞宗は一度脇差部屋に立ち寄った。
 中を覗いてみれば無人である。どうやらほかの脇差は皆、席を外しているらしい。物吉貞宗は折り畳み傘を脇差部屋の前の縁側に広げてから、部屋に備え付けられた引出箪笥の前に立つ。大きさとしてはちょうど物吉貞宗の胸元くらいのこの箪笥は、本丸で最初の脇差、堀川国広がひとりで部屋を使用していた頃から置かれているものらしい。その上には、様々な小物が並んでいる。遠征先で拾った綺麗な石だとか、かっこいい石だとか、ドライフラワーだとか、木彫りの熊だとか、どれも脇差個々人が集めたものだ。部屋の内装に拘りを持たない面々が多いため、統一感は皆無である。子どものおもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さだが、物吉貞宗は却ってそこが気に入っていた。
 その中の、以前自分が置いたあるものを手に取って、物吉貞宗は笑みを浮かべた。
 これで準備は万端である。よし、とひとつ頷いて、足取りも軽く主の部屋へと向かう。
「主様ー。戻りましたよー」
 開け放たれた襖からひょっこりと顔を出すと、審神者は作業の手を止めて顔を上げた。
「おかえり、物吉貞宗」
 迎えの言葉を入室の許可だと判断し、物吉貞宗は審神者の元まで歩み寄る。
 文机にかけたまま物吉貞宗を見上げた審神者は苦笑した。
「少し、心が不安定になっているね」
「……すみません」
 思い当たる節がありすぎる。物吉貞宗は素直に謝罪をした。
「大丈夫。責めているわけじゃないよ。それが恋というものだ」
 物吉貞宗から紙袋を受け取りながら、審神者は優しい声音でそう言った。
「楽しかった?」
 問いかけに、物吉貞宗はぱっと顔を輝かせる。
「はい、とっても! ソハヤさんと色んなお話ができました。こちら、お土産です!」
「……ああ。うん。ありがとう」
 練り切りが入った方の紙袋を渡すと、審神者はなんだか微妙な笑顔を浮かべた。
「──さて、さっそくだけど器は持ってきたかな?」
「はい。こちらです」
 物吉貞宗は、両手に収まるほどの硝子瓶を主に向かって差し出した。
 金魚鉢のように緩やかな球を描く硝子瓶の口は、コルクでしっかりと栓がされている。
 それは冬にソハヤノツルキから贈られたものだった。中に入っていた金平糖は随分と前に食べきっていたが、捨ててしまうのはどうにも惜しく、そのまま取っておいたのである。まさか、こんなことに使い道があるとは想像だにしていなかったが。
 審神者は硝子瓶を手に取って、うん、と頷いた。
「これなら大丈夫そうだね」
「本当ですか? 良かったです!」
 物吉貞宗が歓喜の声を上げる間にも、審神者は座布団を持ちながら文机から立ち上がる。
 部屋の中央に並べられた二枚の座布団のうち片方にかけるよう勧められ、物吉貞宗は座布団の上に薄い尻を下ろす。ふかふかとした真新しい座布団は客人用のものだ。物吉貞宗の知る限り、この本丸に客が訪れたことなど一度も無いのだが。
 審神者は庭に面した障子を閉めた。普段であれば、そこの障子が閉められるのは真冬の夜ぐらいだ。夕方と呼ぶには少し早い時間だが、外は薄曇り。障子を閉め切ってしまうと室内はそれなりに薄暗くなる。物吉貞宗の正面に座った審神者は小さな燭台に火をつけた。揺らめく灯りに照らされて、わずかに視界が明るくなる。
 最後に、向かい合うふたりの間に置かれたのは、空っぽの硝子瓶。
 そして主はこう言った。
「じゃあ、始めようか」
「はい。よろしくお願いします」
 三つ指をついて頭を垂れていた物吉貞宗は、不意にある懸念が浮かんだ。
「主様。恋心を失くして、ソハヤさんとの思い出が無くなることはありませんか?」
 不安をそのまま口に出すと、審神者は軽く笑った。
「心配要らないよ。私が取り出すのは想いだけだ。記憶は脳に刻むもので、想いはそこに抱くものだからね」
 そこ、と物吉貞宗の胸を指す。
「……そうでしたか。それなら良かったです」
 物吉貞宗はふんわりと微笑み、自らの両手を胸元に重ねた。
 たとえ恋心を失くしても、物吉貞宗はあの刀が優しいことを覚えていられる。
 彼と重ねた言葉も。彼と交わした約束も。
 すべて物吉貞宗の記憶に残される。
「さあ、目を閉じて」
 審神者に促されるがまま物吉貞宗は薄橙の瞳を閉じた。室内の空気がわずかに動き、自身の胸の前になにかが翳される気配がするが、これはおそらく審神者の手のひらだろう。
 瞑目する物吉貞宗の前で、審神者が笑みを零す声がした。
「大きな感情だね。春の空みたいに広くて、暖かくて、優しい恋心だ」
「えっと。恐縮です」
「目を閉じたままで良い。相手のことを思い浮かべられるかな」
「はい」
 言われた通り、閉じた瞼にソハヤノツルキの顔を思い描く。それだけで物吉貞宗の胸中には、すぐ傍らの燭台で揺れる小さな焔のような優しい熱が灯る。
 それは、この場所でソハヤノツルキと再会してからずっと感じてきた温度。
 思い出す。かつてともに過ごした日々を。
 思い出す。この地で交わした言の葉を。
 気が付けば閉じた瞼の間から、ぽろ、と透明の雫が滲み出ていた。一筋の涙は陶器のように白い頬を滑り、腿に置かれた物吉貞宗の手の甲に落ちる。ちっとも悲しくなんてないはずなのに、涙は一粒、もう一粒と流れていった。
 どうして泣いているんだろう。物吉貞宗は狼狽した。
 まるで心と身体が切り離されているかのように、涙が勝手に溢れてしまう。
「あの、すみません。悲しくも、辛くも無いんです。本当です。でも、止まらなくて」
 物吉貞宗は目を閉じたまま慌てて弁解をする。審神者は、うん、と静かな声で頷くだけだった。当たり前の話だが、主の表情は解らなかった。
「それで良い」
 審神者のその呟きは、一体なにへ向けられたものだったのだろう。
 主の声が耳に届くのと同時に、胸元を中心にして、ぐ、と前に引っ張られるような感覚がした。物吉貞宗が反射的に身を乗り出しそうになると、そのまま、と釘を刺される。正座したまま拳を握り、前のめりにならないよう耐えていると、段々引かれる感じが弱くなり。
 最後に、するりとなにかが抜けていくような感覚を残して。
 ──瞼を開けた物吉貞宗は、視界に天井を映して初めて、自分が意識を失っていたことに気が付いた。
 物吉貞宗の身体の下には三枚の座布団が繋げられている。ご丁寧にもすべて客人用だ。寝ころんだまま頬に触れると微かに涙の気配が残っている。そのまましばしぼんやりと天井を見上げ──瞬間、物吉貞宗は我に返った。慌ててその身を跳ね起こすと、文机にかける審神者と目が合った。
「おはよう。気分が悪いところは?」
「ありません、ありませんけど、ボク、そんなに寝ちゃいましたかっ?」
「いや、ほんの十分くらいだよ」
 軽く笑う審神者の言葉にひとまず胸を撫で下ろした物吉貞宗は、傍らにある硝子瓶に目を留めた。さきほどまで空っぽだったはずのその中には、桜に色づく硝子片のようななにかがいくつも収まっている。
 物吉貞宗はぱちりと瞬かせた瞳を、今度は審神者へと向けた。
「主様、これは……」
「きみの恋心だよ。ちゃんと取り出せたみたいだ」
 言われて、物吉貞宗は硝子瓶をそっと両手で掬い上げた。
 燭台の灯りに翳せば、欠片たちは光を複雑に反射してきらきらと光る。
「……きれい」
 思わず、そんな呟きを漏らしてしまう。
 物吉貞宗はしばしその輝きに目を奪われた。
「ボクの恋心って、こんなに綺麗だったんですね」
 ソハヤノツルキへの想いの結晶。それがこの硝子瓶の中に仕舞われたものだ。
 物吉貞宗は自らの恋心を瞳に映しながら、ソハヤノツルキの顔を思い浮かべてみた。
 今までのように温かな気持ちが浮かんでくることはなく、幸福な気持ちで満たされることも無かった。
 ──それを、寂しいと思うことすらも。
 物吉貞宗は硝子瓶を一度畳に置いた。改めて審神者に向き直り、姿勢を整えると畳に額がつくほどに深々と頭を下げる。
「主様、ありがとうございました」
 まずはそう礼を述べ、それから顔を上げた物吉貞宗は満面の笑みを浮かべた。
「もう大丈夫みたいです。それに、ソハヤさんへの気持ちがこんなにもきらきらしたものだと知られて嬉しかったです! これ、飾っても良いですか?」
「飾りたいの? まあ、割れなければ大丈夫だと思うけど」
 言いながら、審神者はどこか固い表情のまま文机から立ち上がった。
「最後に、きみにやってほしいことがある」
 そんな言葉とともに、物吉貞宗の眼前に硝子瓶が差し出される。
「この硝子瓶は、まだ私が軽く蓋を置いただけの状態なんだ。この器にしっかりと蓋をするのは、物吉貞宗の手で行われなければならない。それで本当にぜんぶ、おしまいだ」
 審神者の指示に、物吉貞宗は微笑みながらゆっくりと首を縦に振った。
 主から受け取った硝子瓶を左手に乗せ、右手の指をコルク栓の上にそっと置く。
 硝子瓶の中できらきらと光る欠片は、彼を想っていた証。
 物吉貞宗は、浮かべた笑みはそのままにただ瞳だけを伏せる。
 審神者にも届かぬ声で小さく言葉を呟くと。
 その指先に、力を籠めた。