きらきらひかる 4


 この想いを抱いたのは、一体いつだったのか。
 正直なところソハヤノツルキは覚えていない。
 ずっとずっと昔、六百年も前のことだったような気もするし、この時代に再会して初めて抱いたような気もする。
 ──その始まりは思い出せずとも。
 あの小さな脇差が笑顔を見せるその度に、ソハヤノツルキは何度だって願うのだ。
 どうか彼のゆく運命が、笑顔でいられるものであるように、と。



「よう。物吉、いるか?」
 馴染みの顔を探して脇差部屋を覗くと、そこにいたのは黒髪の脇差だった。
 黒髪の脇差と言っても、長髪を高く結った脇差ではなく、近頃顕現したばかりの眼鏡をかけた脇差でもない。相棒と同じ浅葱色の瞳を持つ脇差──堀川国広は卓袱台にかけたまま、突然の来訪者に小首を傾げた。
「物吉くんですか? 今は鯰尾と畑当番中ですけど、昼餉も近いのでそろそろ帰って来る頃だと思いますよ。良かったら、一緒に待ってますか?」
 堀川国広は卓袱台の一角を目で指しながら、人好きのする笑みを浮かべる。
「……じゃあ、そうするかな」
 わずかに逡巡してからソハヤノツルキは頷いた。
 一度部屋へ戻っても良かったのだが、あの白い脇差はじっとしているのが落ち着かない性分なのか、すぐに新しい仕事を見つけては手を出してしまうため、すれ違う可能性も高かった。おそらくここで捕まえるのが一番早い。
 ソハヤノツルキが頷くが早いか、堀川国広はすぐさま立ち上がって茶の用意を始める。出陣服のブレザーを小脇に抱え、卓袱台にかけたソハヤノツルキはその赫い瞳に甲斐甲斐しく働く小柄な背中を映し、こういうところが物吉と同じ脇差だな、と胸中でひとりごちた。
 茶は必要ない、と断ることはしなかった。この脇差は自分がやりたいからやっている。ソハヤノツルキはそれをよく理解していた。
「どうぞ」
「お、ありがとな」
 差し出された湯呑みを受け取り破顔すると、堀川国広も微笑みを浮かべた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 社交辞令もお手の物である。堀川国広は元の場所へ座り込むと、床に投げ出されていた水色の布へと指を伸ばした。口元を穏やかに綻ばせながら、淀みの無い動きで針を操るその姿は戦士にはほど遠い。外の暑さのためか、少しぬるめに淹れられた緑茶に口をつけながら、ソハヤノツルキは堀川国広の姿をまじまじと観察した。
 普段は近侍として主や相棒である和泉守兼定を嗜めているところをよく目にしている上、何度かともに出陣した際の闘志溢れる言動から、堀川国広にはどうにも苛烈な印象を抱きがちだったが、こうして座る姿を切り取れば彼もまた美しい少年だった。楚々とした顔は癖無く均整が取れており、髪の色合いこそほかの脇差を思えば少々地味ではあるものの、その分強い光を宿す浅葱色の瞳がこちらに向けられると、まるで刃の切っ先をつきつけられたようで否応なしに心臓がわずかに音を立てる。
 物吉貞宗が柳や桜であるならば、堀川国広は水仙だ。まっすぐ伸びた葉と茎に、一輪の花を咲かせる水仙。その花が捧げられる相手はただひとり。
 取り留めのない連想をして、ソハヤノツルキは自嘲の笑みを浮かべた。自分自身で思っていたよりも、物吉貞宗が周囲に幸運を振りまく姿を斜に構えて見ていたようである。
 ──この本丸で再会したときに、物吉貞宗が『幸運の刀』とやらになっていたときは心底驚いた。
 ソハヤノツルキは物吉貞宗と別れたときのことを覚えていない。ただともに徳川家康の下にあった頃、あの刀はそんな願いを背負っていなかったはずだ。同じ尾張徳川家にいた後藤藤四郎から聞いたところによれば、天下人の愛刀であった物吉貞宗には吉祥の願いがかけられるようになったという。
 どうなんだろうな、あれ。後藤藤四郎は複雑そうな顔で言った。俺はあいつが誰かのために在ろうとすること、ぜんぶがぜんぶ正しいのか、解らねえよ。
 後藤藤四郎の憂慮も尤もだった。けれどソハヤノツルキには、物吉貞宗が自らに課せられた使命を果たそうとする心持ちもよく解る。
 彼が『幸運の刀』であることと『天下人の霊剣』であることは地続きだ。
 徳川家康を愛し、また徳川家康から愛された物吉貞宗がその縁を投げ出すはずがない。
 ──投げ出せるわけが、ない。
「そういえば、この間の新橋ではありがとうございました」
 不意に声をかけられて、ソハヤノツルキの思考はそこで中断された。一瞬、目の前の黒髪の脇差がなにを言っているのか解らなかったが、やがて思い至る。
 数日前、ソハヤノツルキと堀川国広は、ともに延享の時代の新橋へと出陣していた。その際、堀川国広が討ち漏らした時間遡行軍をソハヤノツルキが仕留めたのである。
 残りの隊員は鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎、和泉守兼定、そして物吉貞宗の四振り。あまり延享の時代の出陣には適さない脇差を四振りも部隊に入れていたのは、おそらく比較をする狙いがあったのだろう。
 すなわち──通常の脇差と、修行から戻った脇差の力を。
 八月一日。去るその日に、堀川国広、骨喰藤四郎、鯰尾藤四郎、にっかり青江の四振りは修行へと赴き、極となって本丸へと帰還した。それから約三週間。修行に加えて新しく顕現した脇差・篭手切江を部屋に迎えた脇差たちは、傍から見ていても随分と慌ただしい様子だった。
 ソハヤノツルキは堀川国広の礼に右手を軽く振った。
「気にすんな。高まった霊力に身体がついていかないと聞いてるぜ」
「そうなんです。主さんは練度が上がればそのうち慣れるとは言ってますが……まあ、今のままでも日常生活は平気なんですけどね」
 針を操る手は止めず、堀川国広は笑顔で会話を続けた。客人を退屈させないように、という心配りなのだろう。ますますもってあの白妙の脇差と被るところがある。
「それで、兼さんったら」
 出てくる名前が約一名に偏りがあるところは、この脇差の特徴な気もするが。
 堀川国広は修行に行く以前より相棒を深く慕っており、それはもちろん修行を終えた後も変わらない。けれどその慕い方には少々変化が現れたように思う。その『変化』とやらがなんなのか、然程親交も無いソハヤノツルキには上手く言葉にすることができないのだが。
 堀川国広のみならず、修行から戻ってきた脇差は大なり小なり変化があった。身近でそれを目の当たりにした物吉貞宗は、一体なにを思っているのだろうか。ソハヤノツルキは、ふとそんな思いに囚われた。
 三か月前。梅雨を迎えた五月末に、彼と交わした約束を思い出す。
 あのときの物吉貞宗は自らの運命を──『物語』を幸せだと肯定も否定もできなかった。
 おそらく、しないのではなくできなかったのだろう。それは当然だ。六百年間、主が変わらず、故に長く仕舞い込まれたソハヤノツルキとて、それが幸だ不幸だなどと断言はできない。それにも関わらず、どうしてソハヤノツルキは彼の幸せを尋ねてしまったのだろう。
 自然と物吉貞宗の面差しを思い浮かべて、ソハヤノツルキは苦笑した。
 さっきから、彼のことばかり考えている。
 ──それもこれも、近頃、物吉貞宗の様子がどこかおかしいせいだろう。
 件の五月末の日以来、物吉貞宗はソハヤノツルキに対して、妙に違和感のある態度を取っていた。どこがどう違うというわけでもないのだが、釦をかけ違えているような、ほんの些細な違和感が常にあった。
「……物吉くん、遅いですね」
 こちらの胸中を見透かしたかのように名前を出され、ソハヤノツルキは微かに身体を震わせた。
 けれど堀川国広の浅葱の瞳はこちらを見ておらず、脇差部屋の壁掛け時計に向けられている。つられるように時計を見上げてから、ソハヤノツルキはそのまま脇差部屋をぐるりと見渡した。もしこの場に物吉貞宗がいれば、他人の部屋をじろじろと見るのは不躾ですよ、などと窘められていたかもしれないが、いないから良いだろう。
 ソハヤノツルキが物吉貞宗と落ち合うときは大抵三池派の部屋を使うため、脇差部屋に足を踏み入れるのはおそらくこれが初めてのことだ。
 ふと、ソハヤノツルキは引出箪笥の上に置かれた硝子瓶に目を留めた。
 どこか見覚えがあると思えば、以前、ソハヤノツルキが物吉貞宗に贈った金平糖の瓶──なのだろう。中に入っているのは金平糖ではなく、桜色の硝子片らしき欠片の数々であるため、断言はできないが。
 遠目に映したその桜色の欠片たちを、ソハヤノツルキは自然と綺麗だな、と思った。
「そういえば、物吉くんにはなんの御用でしたか?」
 堀川国広はソハヤノツルキの湯呑みに茶を注ぎ足しながら、小首を傾げた。
 ソハヤノツルキは軽く笑みを浮かべ、
「大したことじゃない。出陣服が破れちまってな、繕ってもらおうと思っただけだ」
「──ああ、なら、僕が繕いましょうか?」
 思いもよらぬ堀川国広の提案に、ソハヤノツルキは返答に窮してしまう。どうしてか言葉が喉から出てこない。
 その様子に気づいているのかいないのか、堀川国広は自らの手元に視線を下ろし、
「僕、今ちょうど兼さんの羽織を繕ってるところなので、ソハヤさんが良ければ」
「……そう、だな。頼む」
「はい」
 言葉に詰まりながらもどうに頷いたソハヤノツルキは、人懐っこい笑みを浮かべる脇差にブレザーを差し出した。腕を伸ばした堀川国広が浮かべたのは、柔らかな微笑み。頬は穏やかに綻び、喜びを宿した浅葱の瞳が澄んだ春空のように淡く煌めく。
「兼さんも、いつもこうなんです。だからすっかり慣れちゃって」
 ひどく幸せそうに微笑む堀川国広の笑顔に、物吉貞宗の笑顔が重なった。
 彼は時折、ソハヤノツルキに向かってこんな表情で笑いかける。例えば髪に触れたとき。例えば名前を呼んだとき。例えばこの地で再会したとき。あの蜜を溶かしたような薄橙の瞳を細め、まるでこの世の幸福ぜんぶを集めたような、そんな笑顔を浮かべるのだ。
 ソハヤノツルキは、堀川国広の手に渡りかけたブレザーを引き戻した。
「──いい」
「え?」
「やっぱり、物吉に頼む。悪いな、堀川」
 謝罪を口にすると、堀川国広は何度か瞬きをした後でくすりと笑みを零した。
「そうですね。その方がきっと喜びます」
 誰が、とは言わない。少しとぼけたような脇差の笑みに、ソハヤノツルキは小さく肩を竦めてみせた。
 そうして団欒する中で、不意に、堀川国広が小さく身体を揺らした。ソハヤノツルキに向けられていた浅葱の瞳が廊下に面した襖へ滑る。なにかと思えば、ばたばたと廊下を駆ける音がソハヤノツルキの耳朶を打つ。おそらく堀川国広はソハヤノツルキよりも先んじてこの音と気配に気が付いていたのだろう。賑やかな足音が脇差部屋の前で止まると同時に、すっぱーんと音を立てて勢いよく襖が開かれた。
「たっだいまー! 堀川、お茶……って、ソハヤさんだ!」
「よう。邪魔してるぜ」
 元気良く戻ってきた鯰尾藤四郎に挨拶をすると、彼は一度廊下に顔だけを戻し、
「物吉ぃーっ、ソハヤさん来てるよーっ」
 と、大声で呼びかける。
 ──いや俺、まだ物吉に用事とは言ってないだろ。
 ソハヤノツルキはじゃっかん複雑な心持ちになりながらも、実際、物吉貞宗に用があるため、鯰尾藤四郎を止めることはしなかった。ぱたぱたぱたと先ほどよりも幾分軽い足音が響いたと思えば、鯰尾藤四郎の後ろから全身真白い脇差が顔を出す。
「ソハヤさん、どうかしました……ああ」
 ソハヤノツルキが持つブレザーをその薄橙の瞳に映し、物吉貞宗は察したようだった。
「……お待たせしてしまいましたか?」
「待つのは得意だ。知ってるだろ」
 申し訳なさそうに眉を下げる物吉貞宗の額を軽く指弾すると、彼は口元だけを緩ませる。
「えっと、それじゃあ……あ」
 ソハヤノツルキからブレザーを受け取り、首を巡らせた物吉貞宗の瞳が堀川国広の手に留まる。堀川国広は笑みを浮かべた。
「もう終わるから、持っていっちゃって良いよ」
 言いながら、堀川国広は玉留めを終えた糸を口で斬り、道具を仕舞って裁縫箱を物吉貞宗に手渡した。裁縫箱とソハヤノツルキのブレザーを両腕に抱えた物吉貞宗は底抜けに元気良く礼を言う。
「ありがとうございます! じゃあ、ソハヤさんのお部屋に行った方が良いですよね」
「お前に任せる」
 答えると、物吉貞宗は卓袱台へと瞳を向けた。その視線の先には卓袱台を囲むふた振りの脇差がいる。
「お手伝いしたいし、僕はそろそろ広間に行こうかな。鯰尾は?」
「俺は骨喰が遠征から戻るのを待つから、先に行ってて良いよー」
 そんな言葉を交わす友人たちをじっと見つめていた物吉貞宗は、ソハヤさんの部屋にしましょうと言った。ソハヤノツルキも異論は無い。部屋に残るふた振りの脇差に礼を言い、ソハヤノツルキは物吉貞宗とともに脇差部屋を後にする。移動を始めたところで、繕ってもらう手前、荷物は俺が持つと物吉貞宗に一応進言はしてみたものの、案の定、平気ですの一点張りであった。
 廊下に出ると、板張りからはひんやりとした温度が伝わる。立地のせいか屋敷の造りのせいか、真夏でもこの本丸は然程暑くはならないが、そうは言っても夏は夏。蒸し暑い中で不意に感じる涼しさは心地が良い。
 並んで廊下を進むうち、物吉貞宗がぽつりと、
「……そういえば、もうすぐお昼ですね」
「飯が終わってからでも構わないぜ」
「いえ、状態だけでも見ちゃいます」
「助かる」
 ソハヤノツルキは無意識のうちに物吉貞宗の小さな頭にぽんと手を置いた。置いてから以前の万屋での出来事を思い出し、まずかったかと彼の顔を見遣れば特に気にした風も無い。至っていつもと変わりなくその口元は静かな微笑みを湛えていた。
 その笑みを見て、ソハヤノツルキが近頃抱き続ける違和感が増す。
 物吉貞宗が浮かべているのはいつも通りの笑顔である。
 けれど、なんというべきか──いつも通り過ぎるのだ。
 満開の桜よりも華やかで嫋やかな、幸福に満ちたあの笑顔。ソハヤノツルキは、それを随分と久しく見ていないような気がした。その事実に一旦気が付いてしまうと、どうにも胸がもどかしくなる。
 和毛のように柔らかな物吉貞宗の髪の毛を指先で弄びながら、ソハヤノツルキは彼にこう言ってみた。
「物吉。ちょっと笑ってみろ」
「え?」
「いいから」
 こちらを見上げる物吉貞宗は瞳を丸くしていたが、それでもにこりと笑みを形作る。
 邪気など一切感じさせない、無垢で愛らしい笑みだった。だが、やはり違う。ソハヤノツルキが求めるあの笑顔ではない。
「なんか違うんだよな」
「そう言われましても……」
 当然と言えば当然だが、物吉貞宗は珍しくも困惑しているようだった。
 ソハヤノツルキは腕を組み、赫い瞳で白皙の脇差を見下ろすと、
「もっと嬉しそうに笑え」
 尊大な物言いに、物吉貞宗の頬が引き攣った。
「あの。怒りますよ」
「いいから笑えよ」
「嫌です。」
 物吉貞宗はきっぱりと言い放ち、見るからに愛想笑いです、というような白々しい笑顔を浮かべてみせる。今度はソハヤノツルキが頬を引き攣らせる番だった。
 こちらがそれを愛想笑いだと見抜くことまで、この脇差は理解しているはずである。それにも関わらずその笑みを保ち続ける脇差の態度が少々癪に障り、ソハヤノツルキは不機嫌な表情で彼の頬を引っ張った。
 白磁のような見た目に反し、脇差の頬は存外よく伸びる。ソハヤノツルキは頭のどこか暢気な部分でそのことに感心してしまう。
「い、いたいれふ!」
 抗議の声を上げた物吉貞宗はぷるぷると顔を左右に振って、太刀の指を振りほどく。
「もう、なんなんですかー! あ、大典太様! 大典太様助けてくださいー!」
 廊下の先に大典太光世の姿を認めたらしい物吉貞宗は、荷物を抱えたままソハヤノツルキの兄弟刀の元まで駆けていく。その言動が色々と気に食わないソハヤノツルキは不機嫌を表情に貼り付けて、脇差の後を追った。
 昼餉のため大広間へ向かうつもりだったと思わしき大典太光世は──おそらく、部屋に戻らないソハヤノツルキを待ちかねたのだろう──駆け寄る物吉貞宗を前にして明らかに動揺した後、彼に続いて駆けてくるソハヤノツルキを見て更に困惑を重ねたようだった。ただでさえ眉間に刻まれっぱなしの皺がより深くなる。
 ソハヤノツルキと物吉貞宗は、大典太光世を間に挟んで睨み合った。助けてくださいと言葉にした通り、物吉貞宗は大典太光世の背中に半身を隠してソハヤノツルキに険しい視線を送っている。当の大典太光世は、自分に縋りつく脇差と、その脇差を睥睨する兄弟刀とをおろおろと見比べて、
「…………………………なんだ、これは」
「大典太様、ソハヤさんが──」
 重々しい大典太光世の呟きにつられて口を開いた物吉貞宗の一瞬の隙を突き、ソハヤノツルキは脇差に向かって腕を伸ばす。しかし物吉貞宗は抜け目なくそれを察知して、ソハヤノツルキの腕が及ぶ前に素早く地を蹴るとまたあらぬ方向へ逃げていく。修行は終えていないといえどもさすがの機動と偵察能力に、ソハヤノツルキはひとつ舌打ちをした。この世の不幸をぜんぶ集めたような表情をしている兄弟のことはひとまず置いておき、物吉貞宗の後を追う。こうなれば半ば意地である。
 戦場ならばいざ知らず、ここは本丸。いくら物吉貞宗に機動力があろうとも、その真価を発揮するのは難しい。おまけに相手は荷物を抱えている。おそらく本人としては本気で逃げているつもりなのだろうが、捨てていかないのが馬鹿正直だ。
 歩幅の違いも相まって、ソハヤノツルキが彼に追いつくのは案外簡単だった。
 廊下の壁際に追い詰められた物吉貞宗の顔の横に左手をつき、ソハヤノツルキは赫い瞳で小さな脇差を見下ろした。
「逃げんな」
「ソハヤさんが、無茶を言う上に追いかけてくるからです」
 物吉貞宗は迷いなく言い切った。この暑さの中で駆け回ったせいか、汗が滲む彼の額にはわずかに前髪が張り付いている。
 自分よりもよほど体格の良い相手に逃げ場の無い場所で追い詰められているというのに一切臆する様子が無い。かすみ草のように繊細な見た目に反する物吉貞宗のこの豪胆さをソハヤノツルキは好ましく思っていた。
 彼の行く手を塞ぐ左腕に、余計に力が籠る。
「お前、俺に隠し事があるだろ」
「──」
 それは半ば思いつきに近い言葉だった。しかし黙り込む物吉貞宗の反応を見るに、それほど的外れな指摘でも無さそうである。
 物吉貞宗は薄橙の瞳をわずかに細めると、挑むような視線を送った。
「ありません。そう言って、納得してくれるんですか?」
「するわけねえだろ」
 彼の問いかけを一笑に付す。すると物吉貞宗は目元に宿った険を微かに緩め、そのまま瞳を伏せてしまう。ソハヤノツルキはそれを惜しく思った。
 深いため息をついた薄い唇が、知ってます、と小さく小さく動く。
「……すみません。隠し事、あります」
 観念したように物吉貞宗はそう言った。次の瞬間、彼は顔を跳ね上げて、
「でも違うんです。なんでもないことなんです。本当に、なんでもないんです」
 必死に訴える物吉貞宗の様子に、ソハヤノツルキは空いた右手を固く握りしめた。爪が食い込むほどに、強く強く。
 気に入らなかった。物吉貞宗が自分に隠し事をしていることが。あまつさえ、なんでもないことだと言い切ることが。
 そして、なによりも。
「なんでもないなら、あんな──!」
 あんな誰にでも見せるような笑顔を、俺に見せるな。
 勢いのままに言いかけて、さすがに呑み込む。ソハヤノツルキは湧き上がる衝動のやり場に惑い、物吉貞宗に据えていた視線をどこともしれぬ虚空に逸らした。ソハヤさん。物吉貞宗から名前を呼ばれたような気がしたが、振り返ることはできなかった。
 ソハヤノツルキは壁に押し付けた左手はそのままに、それきり口を閉ざす。物吉貞宗もなにも言わなかった。彼がどんな表情をしているのか少し気になりはしたものの、確かめようとはまったく思わない。きっと、笑ってはいないだろうから。
 黙り込むふたりの間を、かまびすしい蝉時雨が満たす。
「──おーい、おふたりさーん」
 不意にかけられた声に振り向けば、少し離れた廊下の先で鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎のふた振りが顔を揃えている。なんとなくまずいところを見られたような気分になりながら、ソハヤノツルキは慌てて物吉貞宗から距離を取った。
 鯰尾藤四郎は頭の後ろに回していた手を腰に当て、
「なんか走り回ってたけど、もう昼餉だよ」
「昼餉だ」
 鸚鵡のように骨喰藤四郎が繰り返す。その傍らで鯰尾藤四郎が小首を傾げた。
「っていうか、ソハヤさんの部屋に行くんじゃなかったっけ? まあ、良いけどな」
 言われてみれば、いつの間にやら脇差部屋の辺りにまで戻ってきてしまっていたようである。思わず絶句するソハヤノツルキに、鯰尾藤四郎は無邪気な笑みを浮かべた。
「んじゃ、お先にー。骨喰、行こうぜ」
「行く」
 そう言い残した鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎のふた振りは、半ば駆けるような軽い足取りで大広間へと向かう。上機嫌に笑う鯰尾藤四郎の背中では、長い黒髪が揺れていた。
 ふた振りの脇差を見送ったソハヤノツルキと物吉貞宗はしばし顔を見合わせて。
「……飯、行くか」
「そうですね。あ、ソハヤさん、これはどうしましょう」
 物吉貞宗は抱えたままのブレザーを目で指した。
 荷物を持ったまま昼餉に向かうのもなんだか間の抜けた話である。一旦自室に置いて、とも思ったが、この場所からだと三池派の部屋より脇差部屋に置いていく方が早い。
「……後でお前のところに取りに行く。頼んだ」
「解りました。繕っておきますね!」
 物吉貞宗は素直に頷いた。結局、ただ脇差部屋を出て戻っただけの形となってしまい少々申し訳なかったが、今更三池派の部屋に向かうよりは良いだろう。
「じゃあ、ちょっと置いてきますー」
 何事も無かったかのように明るい笑顔を浮かべ、物吉貞宗は踵を返した。
 足取りも軽く脇差部屋に荷物を置きに行く、細く小さな背中を見つめながら、ソハヤノツルキはなんだかなと誰にともなく呆れた吐息を吐き出した。



 ソハヤノツルキが脇差部屋へと向かったのは、日も傾き始めた頃だった。
 本丸内の西側に面する脇差部屋には、西日がよく差し込むらしい。視線の先にある開け放たれた脇差部屋の入口から伸びる紅い夕日の帯を見て、ソハヤノツルキはそんな話を思い出していた。冬場はともかく、夏場は冷房器具が無いと暑くて堪えちゃいます、と以前語ったのは物吉貞宗である。それを聞くソハヤノツルキは、触れればいつだって肌の表面がひんやりとしているこの脇差でも暑さを感じるのか、などと、当の本人が聞いたら呆れそうなことを考えていたが。
「よう。物吉、いるか?」
 昼間と同じ言葉を口にしながら室内を覗くと、そこにいたのは昼間と同じようにひと振りの黒髪の脇差だった。ただし今度は近頃顕現したばかりの、眼鏡をかけた脇差である。
 篭手切江は硝子の奥の翠眼を数度瞬かせて、
「物吉か。夕餉の手伝いに行っていた気がするな」
 どうやら入れ違いになってしまったらしいが、時間の約束はしていなかったため仕方ない。
「繕いものを言付かってないか?」
「ああ……そういえば言っていたな。あれかな?」
 篭手切江は衣類掛けにある薄灰のブレザーを目で指した。
「そうだ。いや、自分で取る。邪魔するぜ」
 立ち上がりかけた篭手切江を制し、ソハヤノツルキは脇差部屋へと入室する。衣類掛けからブレザーを取り外して小脇に抱えると、そのまま背後の篭手切江を振り返った。
「本丸にはもう慣れたか?」
 尋ねると、篭手切江はきょとんとしてから、しかしすぐに穏やかに顔を綻ばせる。
「ああ。皆、よくしてくれている。なによりここは華やかな刀が多くて、良い刺激になる」
 なんの刺激だ、とは思ったが、ソハヤノツルキは深く突っ込まなかった。とりあえず楽しく日々が過ごせているのならそれに越したことはない。
 良かったな、と相槌を打ちながらソハヤノツルキがなんとなく視線を向けた先で、箪笥の上にある硝子瓶が目に留まった。思わず、ほんの一瞬硬直してしまう。昼間といい、どうにもこの硝子瓶がソハヤノツルキの意識に引っかかる。
「篭手切。あの硝子瓶がいつからあるものか知ってるか?」
「……気にしたことが無かったな。私が顕現したときにはもうあったと思う」
 ソハヤノツルキには妙に存在感があるように思えるあの硝子瓶も、篭手切江からすればただの内装のひとつに過ぎないようだ。
 ソハヤノツルキは箪笥の前に移動して、硝子瓶をじっくりと観察した。形といい大きさといい、やはり自分が贈った金平糖の瓶に相違ないはずだ。金平糖の代わりに収められている桜色の欠片が西日を受けてほのかに紅く煌めていている。ソハヤノツルキはその輝きに、自然と物吉貞宗の瞳を想起した。元より少し赤みがかった彼の薄橙の瞳は、ソハヤノツルキと瞳を重ねたそのときに、こちらの赫色を映してちょうどこの欠片のような色になる。ソハヤノツルキはその瞬間の彼の瞳がいっとう好きだった。
 無意識のうちに、ソハヤノツルキは硝子瓶へと手を伸ばす。
 なんだか、きらきらと光る欠片の数々に呼ばれているような気がして。
「──駄目です!」
 瞬間、響いたのは切羽詰まった声だった。
 指先を宙に浮かせたまま振り返れば、部屋の入口に物吉貞宗が佇んでいる。そのあどけなくも整ったかんばせからは普段の穏やかな微笑みは失せ、今は怒ったような、あるいは泣き出しそうな険しい表情に彩られていた。
「それに触らないでください。割れたら大変なことになります」
「割らねえよ」
 ソハヤノツルキは反射的に言い返す。
 いや、それよりも。
「大変なことって、なんだよ」
「──」
 しまった。物吉貞宗の表情が、そんな悔恨の色に染まる。
 物吉貞宗という脇差は、良いやつなのは解るけど、いつも笑顔でなにを考えているか解らない、などとしばしば評されることがあった。けれどソハヤノツルキからしてみれば、彼ほど喜怒哀楽が解りやすい刀もそうはいない。答えを探すように、物吉貞宗の瞳がゆっくりと逸らされる。
「物吉」
 苛立ちのままに脇差の名前を呼ぶと、彼は目に見えて狼狽えた。
「な、なんだかよく解らないが、喧嘩は良くない」
 穏やかでない空気を感じ取ったのか、篭手切江が慌ててふたりの間に割って入る。
 まだ顕現したばかりの彼に気苦労をかけるのは本意ではない。そう思うのは物吉貞宗も同じだったのか、彼は慌てて口を開いた。
「すみません、喧嘩とかじゃないんです。あの、ソハヤさん」
 篭手切江に向けられていた瞳がソハヤノツルキを捉える。しかしソハヤノツルキは笑みのひとつも浮かべぬまま、じっと物吉貞宗を見つめ返した。彼の一挙手一投足、ひとつも見逃すつもりはない。その決意を察したらしく、物吉貞宗はわずかに怯んだような顔をしたが、すうと大きく息を吸って、
「……その硝子瓶の中に入ってるものは、大切なものなんです。主様からいただいたものなので、割れたら困っちゃいます」
 紡がれた彼の言葉に、ソハヤノツルキは失笑してしまう。
 割れたら困る、ときたものだ。
 物吉貞宗の性情から鑑みるに、本当に審神者から授けられた大切なものだと言うのなら、割れるのが嫌だ、とでも答えるはずである。
 普段から良くも悪くも竹を割ったような言動が身についている物吉貞宗は、嘘や誤魔化しといったものがあまり上手くはないらしい。これはソハヤノツルキでさえ、初めて知ったことである。
 翻せば──物吉貞宗は、初めてその胸中をソハヤノツルキから覆い隠そうとしている。
 そういうことなのだ。
 ソハヤノツルキは物吉貞宗から視線を外し、口元だけで笑う。
「……よく解った」
 このままでは、埒が明かないことが。
 そしてこの小瓶こそ、物吉貞宗の変化の鍵を握るものであることが。
「出陣服、ありがとうな。篭手切も邪魔したな」
 硝子瓶に伸ばしていた手を引き戻し、ソハヤノツルキは物吉貞宗の頭をひとつ叩くとそのまま脇差部屋を後にする。最後にちらと見えたその顔は、戸惑いに満ちていた。
「……ソハヤさんっ!」
 背後から物吉貞宗がなにやら声をかけてきたが、ソハヤノツルキは振り返らなかった。



 脇差部屋を出た足で、ソハヤノツルキはまっすぐにある部屋へと向かった。
 陽の当らぬ涼しい廊下を抜け、炎のように赤い夕日の射す縁側を通り、辿り着いた部屋の鴨居には風鈴が風に揺れている。ちりんと柔らかく愛らしい音色がソハヤノツルキの耳にも届くが、それはソハヤノツルキの胸中を鎮めるものにはなりえなかった。縁側を一歩一歩力強く踏みしめ、夏季のみ取り付けられている簾を跳ねのける勢いでソハヤノツルキはその部屋へと乗り込んだ。
「邪魔するぜ」
 それでも、挨拶をする最低限の冷静さは残されていた。
 室内にいたのは審神者、そして近侍の山姥切国広。ふたりとも突然の訪問者に目を丸くしている。堀川国広を含む極の脇差が揃って出陣しているため、初期刀の山姥切国広が近侍を務めているのだろうが、それはさておき。
「あいつが持っている瓶の中身を教えろ」
 ソハヤノツルキは単刀直入にそう言った。
 山姥切国広は言葉の意味が解らない様子で布と前髪にほとんど隠された柳眉を顰めたが、審神者の様子は違った。ふうと浅く息をつき、持っていた筆を文机に置くと傍らの山姥切国広に視線を送る。
「山姥切。少し外して貰えるかな」
 主の命に、山姥切国広は審神者とソハヤノツルキとを交互に見遣った。彼が一体なにを思っているのか、普段から口数の少ないこの打刀の胸中をソハヤノツルキには推し量ることはできなかったが、山姥切国広はやがて首を縦に振る。
「隣の部屋にいる」
 そうとだけ言い残し、山姥切国広は立ち上がった。
 残されたのは、審神者とソハヤノツルキのふたりだけ。
 佇んだままのソハヤノツルキを見かねたのか、審神者は座布団へかけるよう勧めたがソハヤノツルキは断った。腰を据えて話をする気分ではなかった。
「物吉貞宗は、なにか言った?」
 審神者はまずそう問いかけた。
「言わないからあんたに聞きに来たんだ」
「彼が言わないのに、私が言えるわけがないよ」
 少し呆れた声だった。確かに審神者の言う通りではあるのだが、ソハヤノツルキとて、はいそうですか、と引き下がるわけにはいかない。
 我ながら、どうしてここまで必死なのかはよく解らないのだが。
「あいつは主からの大切な貰い物だと言っていたぜ」
 だからこそソハヤノツルキはここへ来たのだ。彼の言葉がどこまで真実かは解らないが、きっと審神者であればなにかを知っていると判断して。
「大切な、ね。それはそうだろうね」
 なんだか曖昧な相槌を打つ。審神者は口を閉ざしたまま、じっとソハヤノツルキを静かな瞳で見つめた。
「ソハヤノツルキ。きみの想いは随分と複雑だね。物吉貞宗とは大違いだ」
「……あ?」
 突然の言葉に、ソハヤノツルキは相手が主だということも忘れて思い切り眉を顰めてしまう。
 そんな態度を意にも介さず、審神者は淡々と続けた。
「もしも想いが同じならあるいは、とも思ったけれど……きみの想いはなんだか判別しにくいなぁ。抱えている想いが随分深いことは解るけれどね」
「あんた、なに言って」
「そうだね、まずは自分の想いに向き合ってごらん。きちんと話すのはそれからにしよう。悪いけれど異論は聞けないよ。きみが踏み込もうとしているものは、物吉貞宗の心そのものだからね。ソハヤノツルキにもちゃんと胸襟を開いてもらわなければならない」
 こちらが口を挟む間も無く、立て板に水がごとくつらつらと語ったと思うと、
「はい。この話はこれでおしまい」
 ぱんと手を打って、審神者はそう言った。
 色々と言いたいことはあるのだが、有無を言わさぬ雰囲気にソハヤノツルキは口を噤んでしまう。もしかしたら、言いたいことがありすぎて逆に言語化が追い付いていないのかもしれないが。
 硬直するソハヤノツルキの目の前で、審神者は隣の部屋に繋がる襖を開けて山姥切国広に声をかけていた。呼び戻された近侍は碧い瞳をちらとソハヤノツルキに向けたものの、然程興味も無さそうに元の場所へと戻っていった。
「ソハヤノツルキ。ひとつだけヒントをあげようか」
 文机で姿勢を正した審神者は、筆を執りながらそう言った。
「きみは物吉貞宗と、どんなこれからを歩みたい?」





 その日、物吉貞宗は浦島虎徹とともに早朝から審神者の部屋を訪ねていた。
 ふたりの正面、普段審神者が座する文机は無人。その代わり、背面に広がる本丸の庭では早くも蝉たちがひっきりなしに鳴いている。緑の多いこの本丸では、ひどいときには夜明けとともに鳴きだす蝉の声で目が覚めてしまうこともあるが、物吉貞宗にしてみれば、それも夏の趣のひとつである。それにもう幾日もしないうち、夏の終わりとともにこの声も聞こえなくなってしまう。それを思えば、疎むどころか侘しさすら覚えるというものだ。
「──おはよう、ふたりとも。朝餉前から呼び出して悪かったね」
 季節の音が響く中、ふたりの背後から審神者が顔を出す。
「主さん、おっはよーう!」
「おはようございます、主様!」
 浦島虎徹と物吉貞宗は笑みを浮かべながら、それぞれ審神者に挨拶を返す。
 ふた振りの脇差の間を通り抜け、審神者は文机にかけた。
「浦島虎徹。物吉貞宗。きみたちに、修行の許可が下りたよ」
「──」
 並んだふた振りの脇差は声を挙げるどころか、息を呑む音すら立てなかった。
 物吉貞宗が初めに感じたのは、ああ、やはりか、という思いだった。部屋を同じくする脇差の四振りが修行に向かったときから、そう遠くない未来に物吉貞宗にもそのときが訪れるのだろうと予想はできていた。おそらく傍らの浦島虎徹も同じだろう。
 次いで抱いた感情は、戸惑いだった。
 修行のときが訪れるのは予想の範疇だった。そのはずなのに。
 もちろん行きます。その一言がすぐに自分の喉から出てこないことが、物吉貞宗には不思議でたまらなかった。修行とは、自分の『物語』を見つめ直しに行くこと。以前、審神者はそう言っていた。ならば物吉貞宗は尚更修行へと向かうべきである。
 自らが背負った『物語』がために、物吉貞宗は恋心を捨てたのだから。
 その結果──あのひとに、あんな顔をさせてしまったとしても。
 黙りこくったふた振りの脇差に、審神者は柔らかい声をかけた。
「日付はまだ少しあるから、ゆっくり考えると良い。心が決まったら私に言いなさい」
 物吉貞宗も浦島虎徹も、一言も発しないまま静かに首を縦に振る。
「とりあえず、話は以上。朝からありがとう」
 審神者のその言葉を契機に浦島虎徹と物吉貞宗は立ち上がる。理由があったわけではないが、なんとなく横に佇む浦島虎徹の横顔を見てみると、普段快活な明るさに満ちたその横顔は凪いだ海のように静かだった。自分はどんな顔をしているのだろう。少しだけ、そんなことが気になった。
「ああ、物吉貞宗はちょっと待って。きみには話があるんだ」
 呼び止められた物吉貞宗は、わずかに小首を傾げた。浦島虎徹と視線を交わして頷き合うと、物吉貞宗だけがその場に再び腰を下ろす。
「お話ですか?」
「うん。一応、伝えるだけ伝えておこうかと思ってね」
 そして審神者から語られた出来事に、物吉貞宗はその瞳を見開いた。



 物吉貞宗と歩むこれからなど。
 馬鹿な話だ。ソハヤノツルキは審神者の言葉を、そう一蹴せざるをえなかった。
 ソハヤノツルキと物吉貞宗の間に今より先の時間などない。いつかこの日々が終わるとき。それがふたりの終わりだ。ソハヤノツルキは再びかつての主の下で守り刀としての運命に、物吉貞宗は子孫の下で代々受け継がれる守り刀としての運命に立ち戻る。
 あの日、ふた振りの運命はそう決定づけられた。それが今更覆るはずもない。
 だというのに──審神者はソハヤノツルキに、物吉貞宗との『これから』を突きつけた。
 そのことがどうにもソハヤノツルキの胸中を波立たせる。ずっとずっと隠していたものを突如白日の下に晒された気分だった。あれ以降、夕餉の後も、床に就いても、目覚めても、朝餉を終えた今でさえ、苛立ちのような焦燥の感情がソハヤノツルキの胸を灼く。
 どうにもなにもする気が起きないソハヤノツルキは、非番なのをこれ幸いと自室で寝転がっているのだが、頭に浮かぶのは審神者の言葉と物吉貞宗の顔ばかり。そうしてまたソハヤノツルキは晴れぬもどかしさを募らせる。
「……兄弟」
 卓袱台を挟んだ向こう側から声をかけられて、ソハヤノツルキは身体を起こした。
「なんだよ」
「……霊力を、飛ばすな」
 大典太光世に言われて卓袱台を見れば、ふたつ並んだ湯呑みのひとつに大きなひびが入っている。
「悪かったよ」
 ソハヤノツルキは頭を掻きながら自分の失態を素直に認めた。
 強い霊力を持つ三池の刀は、時折こうして無意識のうちに霊力を飛ばしてしまうことがある。審神者は、ラップ現象みたいなものかな、などと推測をしていた。自らの霊力や周囲に意識を向けていれば大抵被害はないのだが、今のように思考に没頭しているとこうなってしまうのだ。物吉貞宗にこの湯呑みが見つかればまたなにか言われそうだ、などと思いながらソハヤノツルキは湯呑みに残っていた中身を一気に煽る。大典太光世とのじゃんけんに負けて自分で淹れた茶は、美味くもなければまずくもなかった。
 大典太光世も自らの湯呑みを口に運んでから、ソハヤノツルキに瞳を向けて、
「昨日から……なにを、荒れているんだ」
「……別に」
「物吉貞宗か?」
「なんで解るんだよっ」
 卓袱台に手をつき大典太光世に食って掛かると、兄弟はなんだか不服そうに顔を歪めた。
「……昨日、お前たちが俺を盾にしたことを、忘れたのか」
 忘れてました。
 そうも言えず黙り込むが、すべて表情に出ていたらしい。大典太光世に重いため息をつかれたソハヤノツルキは気まずさに視線を逸らす。
 ソハヤノツルキは物吉貞宗が窘めるときに浮かべる笑顔の次くらいに、大典太光世の呆れたため息が苦手であった。友人の笑顔も兄弟のため息も平素からのものであるはずなのに、そういうときに限ってはどちらも妙な威圧感があるのだ。
 じゃっかん身構えてしまうソハヤノツルキに、しかし大典太光世はそれきり口を閉ざす。どうやらふたりの間になにがあったかまでは尋ねる気は無いようである。それを有難く思いつつ、ソハヤノツルキは誰にともなくため息をつくと再び畳の上に寝転んだ。
 大典太光世とも、ソハヤノツルキはいつか別れるときが来る。
 不思議とそれは怖くない。むしろ、だからこそ今のうちにこの兄弟や、古馴染みの刀、この場で出会った刀とたくさんの時間を重ねたいと心の底から願うことができる。
 おそらく、本丸で大事な刀と暮らす誰もがこの一瞬の奇跡を尊んでいることだろう。
 けれどソハヤノツルキにとって、物吉貞宗だけは例外だ。
 ほかの刀はいざ知らず、ソハヤノツルキは物吉貞宗とだけはその先を願ってはならない。
 ふたりは──天下人の霊剣だから。
 万が一にも、この輝かしくも懐かしい日々の先を求めてはならない。彼とともに在り続けたいと思ってはならない。その願いは『天下人の霊剣』である己と、そして物吉貞宗を否定することと同義だ。『天下人の霊剣』の『物語』を否定すること。それはすなわち、かつての主の歴史をも否定することに繋がってしまいかねない。
 ──それはできない。それだけは絶対にしたくない。
 無銘刀で、写しで、刀としてはなにもかも不確かな存在だったソハヤノツルキに、付喪神として顕現できるほどの物語を、刀としての寄る辺を与えてくれたのは、ほかでもない徳川家康だ。
 だから。
 だからソハヤノツルキは──。
「すみませーん」
 不意に部屋の外から響いた木漏れ日のような柔らかな声を聞いて、ソハヤノツルキは反射的に起き上がった。開け放たれた襖からひょっこりと顔を出した白い脇差の姿に、知らず、唇から彼の名前が零れ落ちる。
「……物吉」
「ソハヤさん、大典太様、こんにちは」
 にこり、と物吉貞宗はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
 それからソハヤノツルキへと視線を滑らせて、
「ソハヤさんにお話があるんです。今、少しだけよろしいですか?」
 ──物吉貞宗に、言いたいことや聞きたいことは色々あった。
 それとは相反して、ほんの少しだけ顔を合わせるのが気まずいという想いすら。
 けれど彼の姿を見たら、そういったすべての煩悶が吹き飛んで。
「……ああ」
 ソハヤノツルキは彼の言葉に迷いひとつなく頷いて、立ち上がった。


 ふたりが移動したのは、あまりひとの寄り付かない本丸の裏手だった。
 昼餉にはまだ早いとはいえ日も高くなりつつある。日陰になるこの場所は立ち話にも向いているだろう。少し湿った空気が満ちる中、気配を探ってみても今も人気は感じられない。向かい合うふたりの間にあるものは、途切れることのない蝉の鳴き声だけだった。
 正面から見つめる物吉貞宗の瞳は揺らぎのない湖面のようだった。凪いでいるようにも見えるし、なにか覚悟を決めているようにも見える、そんな静けさだ。
「──昨日のこと、主様から伺いました」
 口火を切った物吉貞宗の言葉に、ソハヤノツルキはぎくりと身体を強張らせた。主様にご迷惑をおかけしないでください。そう怒られるかと思いきや、脇差の薄い唇が紡いだのは予想とはまったく異なるものだった。
「ぜんぶ……ちゃんと、ご説明します」
 言いながら、物吉貞宗が内番服のポケットから取り出したのはあの硝子瓶だった。
 ソハヤノツルキは思わず息を呑んだ。その動揺に彼が気付かないわけもないのだが、物吉貞宗は凛と背筋を伸ばしたままソハヤノツルキに向かって硝子瓶を差し出した。
「この中には、ボクの恋心が入っています」
「……こい、ごころ?」
 予想外の答えに、一瞬、理解が追い付かない。
 物吉貞宗はひとつ頷いて、
「はい。ボクたちは刀剣男士ですから、恋という不安定な感情は身体に異常をきたしかねないそうです。特にボクは……自分自身の物語にちゃんと、向き合えていなかった、から、恋心を取り出して、精神を安定させなければならなかったそうです。この欠片こそ、主様に取り出していただいたボクの恋心です」
「……」
 ソハヤノツルキは黙って彼の説明に耳を傾けていた。
 その赫い瞳が映すのは、きらきらと光る桜色の欠片たち。
 すなわち──取り出されてしまった、物吉貞宗の恋心。
「主様のおかげで、ボクは今も刀剣男士で……『幸運の刀』でいられます。もしもこの硝子瓶が割れてしまったら、ボクはまた恋心を抱いてしまうでしょう。だから割ってはいけないんです」
「……つまりお前は、『物語』のために、心を捨てたのか」
 問いかけた声は、自分でも驚くほどに低かった。無意識のうちに固く固く拳を握る。
 気に入らなかった。彼の言い草が。
 ソハヤノツルキと運命を違えてからの物吉貞宗は、幸運の刀などと、勝利を運ぶなどと、ただの鋼の身体には過ぎた使命を背負わされ続けていた。ソハヤノツルキにしてみれば、物吉貞宗とは、ただ天下人に愛されただけのちっぽけな脇差に過ぎないというのに。
 それなのに、幸運などという使命を背負わされ、そのために恋心すらも手放して。
 物吉貞宗は何事もないかのように、ソハヤノツルキの前で笑顔を浮かべ続けていた。
 ──多分ソハヤノツルキは、本当はずっとずっと最初から、気に入らなかった。
 こんなにも小さな体で、心さえも差し出して、誰も彼ものために在ろうとする物吉貞宗の運命そのものが。
 自分の幸せを問われれば、答えることすらできないくせに。
 静かに怒りを滾らせるソハヤノツルキを前にして、しかし物吉貞宗は不意に目元を和ませる。浮かべたのはひどく穏やかな笑みだった。
「ソハヤさんは本当に優しい方ですね。ボクのために怒ってくれていること、解ってます」
 思わぬ言葉に、ソハヤノツルキはほんの一瞬だけ怒りを忘れてしまう。
 物吉貞宗は笑顔を浮かべたまま微かに瞳を伏せると、緩く首を左右に振った。
「……仕方がないことなんです。刀剣男士から『物語』は奪えないと主様は仰いました」
 幼子に言い聞かせるような柔らかな声で、彼の言葉は続いていく。
「なにより、ボクは無銘刀です。あの御方が与えてくれた『物語』があって初めて、ボクはこの場所に立つことができます。ボクは家康公との日々を、裏切りたくはありません」
 そこまで言って、物吉貞宗は顔を上げた。薄橙の瞳がまっすぐに突き刺さる。ソハヤノツルキの胸に深く深く杭を打ち込むかのように。
「ソハヤさんなら──解るでしょう?」
「……っ!」
 反論など、できるはずもなかった。
 解る。そんなことぐらい解る。
 ソハヤノツルキと物吉貞宗は同じだった。無銘刀であることも。徳川家康という天下人の愛刀であったからこそ、『物語』を得られたことも。
 かつての主の下に在ったとき、ふた振りは確かに刀としての運命を重ねていたのだ。
 それなのにどうしても、ソハヤノツルキは彼の言葉に頷くことはできなかった。
 薄橙の瞳は一歩も引かぬ強い光を宿してソハヤノツルキを見つめ続けている。正直なところ、物吉貞宗の主張はなにもかも正しい。ただ、ソハヤノツルキにはそれが気に入らないというだけで。
 ひとつ深いため息をついて、ソハヤノツルキは髪をかき上げた。
 納得できるかどうかは一旦置いておくとして──物吉貞宗の話の中には、もうひとつ、どうしても気になることがあった。
 ソハヤノツルキは物吉貞宗に向け続けていた瞳を初めて逸らし、
「……誰に……恋、してたんだよ」
 それまでの勢いとは打って変わって、ソハヤノツルキは歯切れの悪い口調でそう問いかける。どうしてか彼の顔をちゃんと見ることはできなかった。
「言いたくありません」
 にべも無く、きっぱりと言い切られてしまう。ソハヤノツルキは再び拳を固く握る。
 物吉貞宗はその身体の打たれ強さがそのまま表れたかのように、ひどく頑固なところがあった。ここまで断言されてしまっては、いくら問いを重ねても彼がその心のうちを明かす可能性は極めて低い。そんなことは解っていて、しかし物吉貞宗のあまりに毅然としすぎた答えに、却ってソハヤノツルキの負けん気が煽られてしまう。
 どう問いただすべきか。ソハヤノツルキが悩むうち。
 物吉貞宗は、普段の雰囲気には似つかわしくない重いため息をついた。
「……言いたくありませんが、主様にご迷惑をおかけしたくもありません」
 反射的に、ソハヤノツルキは物吉貞宗に瞳を向ける。
 物吉貞宗は、少しだけ疲れたような表情だった。ここで答えないことで、また審神者のところへ行ってしまう可能性を危惧しているのだろう。ソハヤノツルキにはそんなつもりは微塵も無かったが、昨日審神者を訪ねたことは彼に思わぬ作用を生んだようである。
 物吉貞宗はそれまでと口調を変えずに淡々と、
「ソハヤさんです」
「…………………………は?」
 唇から漏れたのは、あまりに間抜けな声だった。
 古馴染みの脇差の瞳は変わらずソハヤノツルキに向けられている。ソハヤノツルキは微動だにできず、彼の言葉と眼差しを受け止めた。
 ──あくまでこの話題は一呼吸置くだけのもの。そのつもりであったはずなのに。
 まったく予想もしていなかった答えを返され、逆に今までの話がすべて頭から吹き飛んでしまいそうだった。
 ソハヤノツルキは、じわじわと顔に熱が上っていくのを自覚していた。それでも物吉貞宗から顔を逸らすことすら今はできない。螺子が切れた玩具のように硬直し続けてしまう。何故かこういうときばかり、蝉はぴたりと泣き止んでいる。ソハヤノツルキの気を紛らわせてくれるものなど、なにひとつない。
 黙りこくるソハヤノツルキになにを思ったか、物吉貞宗は微かに俯いた。
「ずっと黙っていてすみませんでした。主様のところへ直接行ったことは……ちょっと怒ってますけど、そこまでボクを気にかけてくれたことは嬉しかったです。すごく嬉しかったです。でも、もう良いんです。これ以上ソハヤさんに気遣われたら……また、恋をしちゃうかもしれません」
 そう言って、寂しげに微笑う物吉貞宗の眼前に。
 ソハヤノツルキは右手を突きつけた。
「物吉。解った。十秒待て」
 そう告げると、物吉貞宗はきょとんとした顔で何度か瞳を瞬かせた。薄い唇をわすかに開き、けれどそのまま口を噤んでくれる。素直で結構なことである。
 一から整理しよう。ソハヤノツルキは物吉貞宗に右手を突き付けたまま、自らにそう言い聞かせた。
 まず、物吉貞宗はソハヤノツルキに恋をしていた。
「…………」
 そこで思考が止まってしまう。
「十秒経ちました」
「もう三十秒」
 おかわりを要求すると、物吉貞宗はこちらを見上げたまま小首を傾げた。
「よく解りませんけど、三十秒で足りますか?」
「……」
「……じゃあボク、草むしりでもしてますので、終わったら声をかけてくださいね」
 返事もできないソハヤノツルキに向かってのんきな声でそう言うと、物吉貞宗はよいしょと地面に座り込み、宣言通り草むしりを始めた。その姿を視界に映し、こいつの手伝い好きは筋金入りだなと感想を抱いたところで止まっていた思考がようやく動き出す。
 一から整理しよう。ソハヤノツルキはもう一度、脳内で仕切り直した。
 まず、物吉貞宗はソハヤノツルキに恋をしていた。けれど『物語』のためにその恋心を捨てなければならなくなった。そして手放した恋心を硝子瓶の中に仕舞い込んだ。これが一連の流れである。
 これはソハヤノツルキの推測だが、物吉貞宗の態度が変化したように感じたのは──この世の幸福ぜんぶを集めたような、そんな笑顔を彼が見せなくなったのは、恋心を失くしていたからなのだろう。成程。ソハヤノツルキはよく理解した。
 しかし、である。
 それはそれで問題が生まれてくる。
 要するに、ソハヤノツルキが強く強く望んでいたのは。
 自らに恋する物吉貞宗の笑顔だった。
 そういうことになるわけで。
「……………………」
 右手を額に当てて天を仰ぐ。少し離れた場所では、物吉貞宗が黙々と除草を続けていた。
 いや、そもそも、ソハヤノツルキは物吉貞宗が恋心を捨てたことに納得していない。仕方がないことだったと理屈の上では理解できるものの、それと心情的な納得は別の話である。あまつさえその想いが自分に向けられていたものだったなど──いや、まあそれは良いとして──いや、良くはないのだが──。
 なんというか、まあ、要するに。
 気持ちの置きどころに困る。
 物吉貞宗を散々待たせた挙句、出た結論はそれだった。
「……物吉」
「はい!」
 呼びかけると、物吉貞宗はよく働きましたーとでも言いたげなやたらときらきらとした笑顔を浮かべて元気いっぱいに立ち上がる。その足元には雑草が積み上がっていた。
 ソハヤノツルキは彼と真正面から向き合い、小さな肩を両手で掴んだ。このまま握りつぶせてしまいそうな細さに怯みかけて、しかししっかり掴み直す。物吉貞宗は柔らかな睫毛を微かに震わせて、こちらを見つめる瞳の奥にほんの少しだけ不安の色を滲ませた。
「この話は──明日にする」
「……え?」
 ぽかん、と口を開ける脇差の細い肩を二度ほど叩き。
 ソハヤノツルキは、素早くその身を翻した。
 置き去りにした背後から、なにやら声が響いている気はするが、ソハヤノツルキは振り返ることはできなかった。耳に届くその声も再び鳴き出す蝉時雨に掻き消され、じきに聞こえなくなってしまう。飛び出た日向は蒸し暑く、駆ければ自然と汗が滲んだ。
 けれど己の顔が熱いのは、季節のためばかりではないのだろう。