きらきらひかる 5


 なんだか、よく解らない状況ではあるのだが。
 物吉貞宗は、すべてを打ち明けた直後からソハヤノツルキに避けられるようになった。
 明日にしようと言われ、早二日が経過した。その日は素直に夜が明けるまで待ってみたはいいものの、それとも彼は結局話の続きなどしてくれない。それどころか顔すら合わせようとしない始末である。ソハヤノツルキは、というよりも三池派の刀剣は霊力の探知に優れている。もしソハヤノツルキが本気で物吉貞宗を避けようと思っているのであれば、彼を捕まえるのは相当骨が折れるだろう。
 とはいえこれ以上、物吉貞宗の方からソハヤノツルキに語ることなど無い。その上相手が自分を避けているともなれば、下手につつかない方が賢明だ。
 彼に恋していた頃の物吉貞宗であれば、無理矢理にでも彼を捕まえていた気もするが。
 物吉貞宗は朝餉の席で、もそもそとご飯を口に運ぶ。
 ソハヤノツルキに避けられて、悲しいだとか、寂しいだとか、そういった感情を抱かないわけではない。けれども物吉貞宗の心を占めるのは、彼もこんな想いをしたのだろうか、という憂いばかりであった。恋心を失くしたことで変化した物吉貞宗の態度が、あるいはあの太刀に、同じような想いをさせていたのかもしれない。そんな懸念が脳裏を掠める度に、物吉貞宗の心は深く沈んでいく。
 ぜんぶ、自分ひとりで済む話だと思っていた。
 恋心を失くしても誰にも迷惑など掛からないと。
 誰にも悲しい思いなどさせないと。
 けれど、そんなものは勘違いだった。
 誰よりも物吉貞宗を想ってくれているあの刀を、こんな気持ちにさせていた。
 あまつさえそうと気が付くのは、自分が同じ立場に立たされてからなんて。
 情けなくて、不甲斐なくて、たまらなかった。
 ちまちまとした箸使いで食事を続けていた物吉貞宗の瞳から、ぽろ、と涙が零れ落ちる。向かいにかける後藤藤四郎はそれを見て目を剥いた。
「な、なんで泣いてるんだよっ!」
「すみません、ごみに目が入っちゃいました」
「それはとんでもないね」
 と、相槌を打つのは斜向かいにかけた信濃藤四郎である。後藤藤四郎は瞠目したまま、今度は傍らの兄弟を振り返った。
 物吉貞宗は慌てて箸を置くと、溢れ出る涙を拭う。食事中に涙を流すなど愚の骨頂だ。食材を育ててくれたひと、料理を作ってくれたひと、ともに食卓を囲むひと、そして食材そのもの、すべてに対して礼を失する行為である。
 零れた涙はほんのわずかだった。物吉貞宗は最後にすんと鼻をすすり、再び箸に手を伸ばす。ふと視線を感じて顔を上げると、後藤藤四郎がなんだか痛そうな顔をしながら物吉貞宗を見つめていた。
「……もしかして、修行、不安なのか?」
 予想外の問いかけに、物吉貞宗は数度瞬きをしてしまう。
 修行に関する通達は、まず審神者から当該の刀剣男士へと伝えられ、それから本丸全体に周知される。修行へ向かうとなると、その間も戻ってきてからも編成に影響が出るからだ。今まで出陣していなかった者にお鉢が回ってくる場合もあるし、逆に今まで出陣していた者がしばらく控える場合もある。
 もちろん、最終的に修行へ向かうかどうかを決めるのは本人次第。通達が出ても修行に向かわない刀剣男士とて皆無ではない。何故だか後藤藤四郎は、物吉貞宗が修行を決めていると思っているようだが。
 物吉貞宗は目の前の短刀に向けて、苦笑にも似た笑みを浮かべた。
「……解りません」
 それは素直な返事だった。そもそも物吉貞宗は、修行に向かうかどうかすら、きちんと審神者に伝えられていないのだ。
 後藤藤四郎は痛そうな顔のまま、そうか、とだけ言った。
 彼に代わって、というわけでもないだろうが、傍らの信濃藤四郎は明るい声で、
「そういうときはさ、誰かの懐に入れてもらいなよ。ぎゅーってされると安心するから」
「それはお前だけだろ」
「え? そうかな」
「そうだって」
 気心の知れたふた振りが軽口を交わし合うのを聞いていると、幾分心も軽くなる。
 物吉貞宗は満面の笑顔を浮かべた。
「おふたりとも、心配してくれてありがとうございます」
 礼を述べた物吉貞宗は、それからぐっと両拳を握り、
「でも大丈夫です。ちゃんと、ご飯は笑顔で食べますから!」
「あ、そっち?」



 湯呑み三。急須一。箪笥。卓袱台の足。
 以上、二日前から今日までに、ソハヤノツルキがその霊力でひびやら凹みを入れた品々である。ただしこれは、あくまで三池派の部屋に限っての被害。本丸の備品にもその枠を広げればもう少し増えることになるだろう。
「……悪いとは思っている」
 ソハヤノツルキはため息をつきながら、大典太光世にそう言った。
 ひびの入った湯呑みを手に持つ大典太光世は、しばしじっとソハヤノツルキを見つめたものの、特段苦情を言うつもりはないらしい。あまり興味も無さそうに、そのまま湯呑みを卓袱台に戻す。元より口うるさい性格でもないことに加え、霊力の制御に関する苦悩はこの兄弟が誰よりも理解できるからなのだろう。今のソハヤノツルキにとって、兄弟のこうした配慮がどれほどありがたいことか。
 大典太光世は湯呑みから離した指先を、今度は卓袱台に置かれた煎餅へと伸ばした。
「……見たら、なにか言いそうだな」
「あ? 誰がだ?」
「物吉貞宗だ」
 ぱきっ。
 大典太光世の手にある煎餅が音を立ててふたつに割れる。
 兄弟の視線が、自身の手元からソハヤノツルキへと移された。
「……煎餅一」
「数えんなっ!」
 思わず突っ込みをいれてしまうが、大典太光世はぴくりとも表情を変えずに割れた煎餅を黙々と口へ運ぶ。こちらを見もしない兄弟の態度は言外に、それならば霊力を制御しろ、と語っていた。ソハヤノツルキはそれ以上なにも言えずに黙り込む。
 物吉貞宗が『隠し事』を明かした日から、ふた晩が経過した。けれどソハヤノツルキは未だにすべてを受け止めきれてはいない。物吉貞宗が使命のために心を差し出したことや、それをソハヤノツルキに隠そうとしていたことが、只管気に入らなかった。
 もっとも──ソハヤノツルキが受け止めようが受け止めまいが、気に入ろうが気に入るまいが、物吉貞宗が恋心を手放したのはもう既に終わった話である。そこにソハヤノツルキの納得など介在しない。それもまた面白くねえんだろうな。ソハヤノツルキはそう胸中でひとりごちた。
 物吉貞宗はかつてソハヤノツルキに恋をしていた。
 けれど今はもうしていない。それだけの話だ。
 第一、仮に──あくまで仮に──もしもまだ物吉貞宗がソハヤノツルキに恋をしていたとして、自分はその恋心を受け止めることができただろうか。ソハヤノツルキは恐れている。物吉貞宗との未来を望んでしまうことを。そうして『天下人の霊剣』の運命を否定してしまうことを。
 畢竟、ソハヤノツルキも物吉貞宗と同じなのだ。
 物吉貞宗との『これから』に蓋をして、課せられた運命を果たそうとしている。もしもそれを物吉貞宗に語れば、彼は仕方がないですよと笑うだろうか。それとも自分のように憤るだろうか。
 ふた振りにとって、『天下人の霊剣』である運命はなによりも大切だった。
 運命のために、ソハヤノツルキは物吉貞宗との未来に蓋をした。物語のために、物吉貞宗はソハヤノツルキへの恋心を硝子の瓶に仕舞い込んだ。利害はまったく一致しているじゃないか。そう思うと可笑しくて、何処からか笑いが込み上げる。こんなことまで同じなのに、どうして運命だけは途中から道を違えてしまったのか。そんな想いが胸中を過り、ソハヤノツルキは小さく首を左右に振った。
 とにかく──ソハヤノツルキと物吉貞宗の目指すところは変わらない。
 今まで過ごしてきたように、これからも過ごしていけば良い。
 そのはずなのに。
 それでもやはりソハヤノツルキは、物吉貞宗が心を差し出してまで使命に報いようとしたことを、仕方がないなどとはちっとも思えないのだ。
 ──考えれば考えるほど、よく解らなくなってしまう。
 ソハヤノツルキが優先させるべきは、運命をまっとうすることなのか、それとも物吉貞宗の心を守ることなのか。
「……少し、出てくる」
 ソハヤノツルキは疲れた声でそう言った。
 このまま自室に引き籠っていても、懊悩が堂々巡りするだけだ。少し気分転換が必要だろう。なによりも、今まで散々墓所に仕舞い込まれていた身としては、刀剣男士でいる間ぐらいは好き勝手に出歩きたい。言い捨てるだけ言い捨てて、ソハヤノツルキは兄弟を一瞥もせずに寝室から出ていった。
 行く当ては、ない。うっかり出くわさないよう物吉貞宗の霊力に気を配りつつ、ソハヤノツルキは重い足取りで屋敷の中を歩き始める。
 縁側に出てみれば、庭は昨日までと変わらず眩しく明るい夏の日差しが降り注ぎ、蝉の鳴き声が響いている。視界の先に広がる畑では鯰尾藤四郎と篭手切江が麦わら帽子を被りながら駆け回っているが、遊んでいるのではなく畑仕事をしているのだろう。多分。
「三池の」
 ふと声をかけられて振り向けば、ソハヤノツルキから少し離れたところで縁側に腰かけるふたつの影があった。日差しから逃れるように縁側の隅に腰を下ろしている三日月宗近は、ソハヤノツルキに向かってのんびりと右手を振っている。
 声をかけられたソハヤノツルキは自然と彼らの元へと歩み寄り、
「よう。なにしてるんだ」
「俺は茶を飲んでいる。骨喰は……なにをしているんだったか?」
 三日月宗近は首を傾げると、湯呑みを挟んで隣に並ぶ骨喰藤四郎へとそう尋ねた。当の脇差はのんびりとした動作で湯呑みに口をつけている。非番のときは大体縁側にいる三日月宗近はともかくとして、骨喰藤四郎が縁側で茶を飲んでいる姿は随分珍しいように思えた。ソハヤノツルキが目にするときの骨喰藤四郎は、大抵同じ脇差の兄弟に手を引かれている。
 湯呑みから唇を離した骨喰藤四郎は、三日月宗近、それからソハヤノツルキを一瞥して、しかしすぐにまた畑へと視線を戻したかと思うと、
「見ている」
 と、簡潔にもほどがある返事を寄越す。
 大典太光世も大概口下手だが、骨喰藤四郎はまた別格だ。後ろ向きすぎる性根のせいで胸中を言語として表層化させることを厭う兄弟に比べ、この脇差は圧倒的に言葉数が足りていない。加えて、この堂々の断言っぷりを鑑みるに、おそらく言葉数の少なさをちっとも自覚していないのだろう。骨喰藤四郎の傍らで微笑みを湛える三日月宗近のように交流のある刀であれば、少々の言葉からでも彼の胸中を掬い上げることはできるのだろうが、ソハヤノツルキには無理である。
 仕方なく、ソハヤノツルキの方から掘り下げることにした。
「畑をか?」
 骨喰藤四郎はふるふると首を横に振った。肩の上で、藤を滲ませる白髪が揺れる。
「兄弟をだ」
「おお、そうだ、そうだ」
 三日月宗近が上機嫌にぽんと手を打つ。解ってなかったのかよ、とソハヤノツルキは内心で脱力をした。けれど骨喰藤四郎は同席する太刀の言葉をちっとも気にする様子もなく、広がる畑に紫眼を向け続けていた。その瞳が見つめる先に在るのは、鯰尾藤四郎の姿。泥だらけになりながらも、彼は明るい笑顔を浮かべて畑当番に勤しんでいる。
 骨喰藤四郎は微かに口元だけを綻ばせ、
「ここが一番、畑がよく見える」
「なるほどねぇ」
 ソハヤノツルキは縁側一面に広がる畑を見渡しながら感心した。物吉貞宗が畑当番をしているときにでも、ここでその姿を見ていよう。反射的にそんなことを考えてしまい、ソハヤノツルキは唇を引き結んだ。結局こうして物吉貞宗を思い浮かべてしまうのだから、我ながらどうしようもない。
 あの脇差に、どうしてここまで執着してしまうのか。
 ソハヤノツルキにはその始まりも理由も解らない。それでもひとつだけはっきりしていることがある。ソハヤノツルキは、物吉貞宗に笑っていて欲しい。たとえ刀としての運命を捻じ曲げられても、幸運を運ぶという過ぎた使命を背負わされても、物吉貞宗が笑顔でいられるのであれば、それが彼の幸せの証左となってくれるだろうから。
 ああ、そうか。ソハヤノツルキは胸中でひとりごちた。
 だから五月のあの日、雨音に包まれる中でソハヤノツルキは物吉貞宗に問いかけたのだ。
 かつて運命を共にした脇差が、道を違えたその先の運命まで幸せであって欲しくて。
「お前たちは本当に仲が良いなぁ。最近は特にそうと見える」
 のんびりと紡がれた三日月宗近のその一言を、ソハヤノツルキは最初、自分に向けられたものだと勘違いした。反射的に天下五剣がひと振りを見下ろすと、しかし彼が優しい眼差しを送る相手は骨喰藤四郎の方だった。
 畑に視線を据えながら、骨喰藤四郎は小さく小さく首を縦に振る。
「修行に行って、解った。ここでの時間も……多分、長くはない」
 骨喰藤四郎の呟きに、ソハヤノツルキは微かに息を呑んだ。
 それはきっと、この本丸で日々を過ごす誰もが感じていること。ソハヤノツルキと物吉貞宗も、離れていた間の百分の一の時間すら一緒にいられるかどうか解らない。
 ソハヤノツルキは縁側にかける脇差と同じように、目の前に広がる風景を見つめた。
「だから今のうちに、たくさん見ておきたい」
 骨喰藤四郎は静かな、しかし芯の通った声ではっきりと告げる。
「──これから先、ちゃんと思い出せるように」
 決意の言葉に耳を傾けながら、ソハヤノツルキは審神者の問いかけを思い出していた。
 きみは物吉貞宗と、どんなこれからを歩みたい?
 今の主は、ソハヤノツルキにそう尋ねた。ソハヤノツルキと物吉貞宗の間に未来はない。今なおその考えが変わることは無かった。
 いつかこの日々も終わる。あの白皙の脇差は再びソハヤノツルキの手が届かないところへ行ってしまう。
 遠くて近い、近くて遠い地でふたりはそれぞれの使命を果たさなければならない。
 それが天下人の霊剣の役割だから。
 けれどそんな離れ離れの未来においても、ソハヤノツルキはきっと願うのだろう。彼と離れてからの六百年間、そして彼と再会した今この瞬間も願い続けているように。
 どうか彼の歩む運命が、幸福なものであるように、と。
 たとえその傍らに、ソハヤノツルキがいないとしても。
 嗚呼、と小さなため息が唇から漏れる。今更になってソハヤノツルキは理解した。
 ──ソハヤノツルキが本当に蓋をし続けていたのは、物吉貞宗との未来などではない。
 自らに課せられた運命と同じくらい、物吉貞宗が大事な存在だという想いの方だ。
 ソハヤノツルキが赫い瞳で見つめる先で、鯰尾藤四郎がふと顔を上げた。それからぱっと顔を輝かせた鯰尾藤四郎は、今まで以上に満面の笑顔を浮かべて大きく大きく右手を振る。蒼穹を裂く黒い影を見て、骨喰藤四郎は慌てて縁側から立ち上がると左手を振り返した。夏の眩しい日差しの下で、その光よりも鯰尾藤四郎の笑顔は明るく煌めいている。
「良きかな、良きかな」
 三日月宗近は手を振り合う脇差を見て、のんびりと微笑みを浮かべた。ソハヤノツルキもまたその瞳に鯰尾藤四郎の笑顔を強く焼き付ける。
 ソハヤノツルキは、物吉貞宗に笑っていて欲しい。
 けれど今の物吉貞宗はどうだ。運命のために心を差し出した彼は、ソハヤノツルキに恋をしていた以上の笑顔など決して見せてはくれない。
 意味が無いのだ。物吉貞宗が心の底から笑えない運命など。
 それも今この場所においては、ソハヤノツルキがすぐ傍にいるというのに。
「これからに悔いを残すのは、良くねえよな」
「……?」
 ソハヤノツルキの呟きに、骨喰藤四郎は不思議そうな顔でこちらを見上げた。
 丸くなった紫眼に向かって、ソハヤノツルキは軽い笑みを向ける。
「こっちの話だよ。邪魔したな」
「別に邪魔されていない」
 ソハヤノツルキの挨拶に、骨喰藤四郎はそう言った。その返しに浮かんだ笑いを噛み殺しながら、ソハヤノツルキはひらりと手を振ってふた振りに背を向ける。
 行くべきところがある。それも今すぐに。
 再び屋敷の中を歩き出しながら、ソハヤノツルキはまっすぐに顔を上げた。
 簡単な話だと思った。なにを優先させるかなど、迷う必要も無い。
 天下人の霊剣である運命も。物吉貞宗の心も。
 ──両方選んでしまいましょうか。
 あの脇差なら、そう言って、満面の笑顔を浮かべるのだろう。



「邪魔するぜ」
 挨拶の声とともに脇差部屋を覗いてみれば、部屋にいるのは堀川国広だけだった。畳に四つん這いになっている姿に一体なにをしているのかと思えば、その手は雑巾を握りしめている。普段であれば部屋の中央に鎮座する卓袱台が部屋の隅に立てかけられているせいか、今の脇差部屋は妙に広々として見えた。赤い内番着に身を包んだ黒髪の脇差は、ソハヤノツルキを浅葱の瞳に映すと雑巾をかける手を止めて上半身を起こした。
「こんにちは。物吉くんですか?」
「そうだが、そうじゃない。今いるのはお前だけだな」
 好都合である。ソハヤノツルキは脇差部屋に足を踏み入れようとして、一度止まった。堀川国広の持つ雑巾に目をやりながら、畳を指さして、
「……今、部屋に入って大丈夫か?」
 堀川国広の姿といい部屋の状況といい、どの角度から見ても掃除中である。ソハヤノツルキの問いに、堀川国広は朗らかに笑った。
「大丈夫ですよ。でも、なにか必要なら僕が取りますけど」
「悪いが、頼む。その箪笥の上にある硝子瓶を取ってもらえるか?」
 堀川国広の言葉に甘えると、彼は笑顔で頷いた。
 雑多に物が並ぶ箪笥の上から硝子瓶を取り上げた堀川国広は、ソハヤノツルキの元へ駆け寄った。どうぞという一言とともに、硝子瓶が手渡される。手のひらに収めた硝子瓶の中では、相も変わらず物吉貞宗の恋心がきらきらと淡い光を零している。どうしてかソハヤノツルキには、その輝きが今までよりも一層美しく煌めいて見えた。
 硝子瓶を食い入るように見つめるソハヤノツルキの前で、堀川国広は後ろ手を組み、
「……これ、物吉くんの物ですよね?」
「ああ、まあな」
 ソハヤノツルキが頷くと、ほんの一瞬だけ浅葱の瞳に探るような色が宿るものの、それもすぐに掻き消える。もしかしたら物吉貞宗から硝子瓶の取り扱いに関してなにかを聞かされていたのかもしれないが、おそらくソハヤノツルキを信用してくれたのだろう。
「物吉は今、遠征中か?」
「はい。朝食の後、にっかりさんと浦島くんと一緒に比叡山延暦寺遠征に行っています。多分、あと一時間もしないうちに戻ると思いますよ。もし待つようなら、またお茶でも淹れましょうか?」
 ご丁寧に残り時間まで教えてくれる。さすが長く近侍を務めているだけのことはあるな、とソハヤノツルキは胸中で感心した。
「いや、今日は遠慮しておく。また今度よろしく頼むぜ」
「解りました。また兼さんのお話、させてくださいね」
 いつものように相棒の名前を口に出し、堀川国広はにっこりと笑みを浮かべる。
 ソハヤノツルキはその言葉に──ふと彼に聞いてみたくなった。
 目の前の脇差もまた、大事な刀といつかは別れる運命が待っている。それもおそらく、自分たちよりもずっと無情な運命が。
「……堀川」
「はい」
「答えたくなかったら、答えなくて良い。だから、ひとつ尋ねさせてくれ」
 慎重に言葉を選びながら、ソハヤノツルキは堀川国広をまっすぐに見つめた。黒髪の脇差は稚い表情で小さく首を傾げる。揺れた黒髪の間から、紅い耳飾りがちかりと瞬いた。
「お前は、この日々の終わりに──恐れはあるか?」
 瞬間、堀川国広の瞳が大きく震えた。閉じられていた唇が微かに開き、けれどまたすぐに閉ざされる。次に唇が動いたとき、ふ、と漏れたのはため息なのか、それとも笑みか。ソハヤノツルキが確かめるように堀川国広の瞳に視線を合わせると、堀川国広が浮かべていたのは柔らかな笑顔だった。
「そのときが来るまで、正直、最後の気持ちは解りません。それでも今の僕には、この世界はきらきら光って見えますよ」
「……そうか。そうだな」
 堀川国広の笑顔に、ソハヤノツルキは小さく頷いた。
 そうだ。この本丸で暮らす誰もが、大切な誰かとの一瞬の奇跡を尊んでいる。そんなことずっとずっと前から解っていた。
 ソハヤノツルキにとっての物吉貞宗とて、例外なんかじゃない。



 遠征から戻った瞬間、それを目にした物吉貞宗は呆然と立ち尽くした。
 凍りつく物吉貞宗の頬を伝い、顎から滑り落ちた汗は、外の気候のせいなのか、はたまた瞳に映した光景のせいなのか。
 戦果を抱え、揚々と帰還した部隊を玄関で待っていたのはソハヤノツルキだった。それだけならば物吉貞宗とて動揺などはしない。けれども彼がその右手にあの硝子瓶を持っているのを見て、物吉貞宗は息が止まるかと思った。
 なんで、それをあなたが持っているんですか。そう問いかけたくて、けれど唇も喉も時が止まったように動かない。微動だにしない物吉貞宗にちらと赫い瞳を向けてから、ソハヤノツルキは硝子瓶を持たぬ左手を掲げた。
「遠征、ご苦労だったな」
「おっ、ソハヤさんだ! たっだいまー!」
「出迎えとは、きみもご苦労なことだねぇ。近侍なのかい?」
 物吉貞宗の後ろから、浦島虎徹とにっかり青江が順々に顔を出す。友人たちの声にようやく金縛りの解けた物吉貞宗は慌てて彼らに道を譲った。
 ソハヤノツルキはいつもと変わらぬ明るい笑みを浮かべ、
「近侍ってわけじゃないんだ。こいつ、借りてくぞ」
 言うなり、物吉貞宗の右腕はソハヤノツルキに掴まれる。思わずソハヤノツルキを見上げると彼の右手の中で硝子瓶が光った。それを見て、物吉貞宗の全身は再び硬直してしまう。
「……隊長は、俺だから良いけど」
 浦島虎徹はほんの少しだけ言い淀んだ。遠征の報告は部隊長が行っているため、ただの隊員であれば本丸に帰還してすぐに部隊から離れても問題は無い。けれど浦島虎徹はどこか心配そうな顔で、黙したままの物吉貞宗とその腕を掴むソハヤノツルキを見比べている。
 物吉貞宗は硬直した身体を解すべく一瞬だけ息を吐き、すぐさま笑顔を浮かべた。眉を下げる浦島虎徹と、なにも言わずにこちらを見つめるにっかり青江に向かって唇を開く。
「すみません。お先に失礼しますね」
 その言葉を合図に、ソハヤノツルキは物吉貞宗の腕を掴んだまま歩き出す。その足が向かうのは屋敷の中ではなく、玄関の外。どうして彼が硝子瓶を持ち、物吉貞宗の前に現れたのか。その理由は薄々察しているものの、当の硝子瓶をソハヤノツルキが握る状態で迂闊に反抗はできなかった。
 これほど強引に事に及ぶということは、二日前、すべてを明かしたときのように怒っているのだろうか。そう予測しながら太刀の顔を見上げて、物吉貞宗は却って困惑した。ソハヤノツルキの横顔に怒りの色は一切見られない。落ち着いて自身の状況を俯瞰してみれば、腕を引かれていると言ってもそれほど強い力ではなく、歩幅もむしろ物吉貞宗に合わせているかのような速度である。
 ソハヤノツルキの真意が掴めないなど、これが初めてのことだった。
 物吉貞宗は試しに、掴まれたままの右腕を少し振ってみた。するとソハヤノツルキは物吉貞宗を振り返って、
「腕、痛いか?」
「……痛くはないです」
 なら良いだろうと言わんばかりに、ソハヤノツルキは再び前を向いてしまう。物吉貞宗は色々と諦めて、大人しく彼の後についていくことにした。
 そして、ソハヤノツルキに腕を引かれた先で辿り着いたのは、二日前と同じ本丸の裏手だった。傾き始めた陽のせいか、一昨日よりも裏手にかかる日陰は大きく長い。辺りに聞こえる蝉の声も、前回とは異なり日暮らしだけのもの。
 太刀の左手から解放された物吉貞宗は、なんとなくソハヤノツルキから距離を取った。
 彼と正面から向き合って、ようやく問いを投げる機会が訪れる。
「どうして、ソハヤさんがその瓶を持っているんですか?」
「決まってるだろ。割るためだ」
 事もなげに言われたその答えは、物吉貞宗が予想していたものとまったく同じだった。
 できれば、外れてほしいと願っていたのだが。
 物吉貞宗はソハヤノツルキへ向ける眼差しの力を強めた。
「やめてください」
「やめねえよ」
「もう一度言います。やめてください。ボクにそれを返してください」
「断る」
「どうしてですか?」
 問いかけた声は、わずかに昂っていた。物吉貞宗は手のひらに食い込んだ爪の痛みで、自らが強く拳を握っていたことに初めて気付く。
 心を乱す物吉貞宗に反して、ソハヤノツルキは落ち着いていた。この前とは真逆だ。
「俺はお前が恋心を手放したことに、納得していない」
「仕方がないことだって、ボク、言ったじゃないですか!」
「俺は仕方がないなどとは思わない」
 取りつく島もないほどの断言に、物吉貞宗は何度も何度も首を左右に振った。
「やめてください。お願いです。やめてください」
 必死の思いで同じ言葉を繰り返す。どうして彼は解ってくれないのだろう。物吉貞宗の瞳に、理由の解らない涙が滲んだ。
 本当に──もう、やめてほしかった。
 これ以上、物吉貞宗のために怒ることは。物吉貞宗のために心を砕くことは。
 どうしても。
 どうしても。
 嬉しくなって、しまうから。
 やめてください。そう懇願する自分の声に混ざり、ぴしりとどこかでなにかの音が鳴る。
「お前は『物語』に向き合えていないと言ったな。だから恋心を手放したと」
 静かに響いたソハヤノツルキの声に、物吉貞宗はびくりと体を震わせる。ソハヤノツルキから顔を逸らそうとして、しかしそれは叶わなかった。ソハヤノツルキの指が物吉貞宗の顎を掴んだかと思いきや、無理矢理正面を振り向かされる。その手を振り払えば良いものを、赫い瞳に射竦められて物吉貞宗は硬直してしまう。
 至近距離にソハヤノツルキの顔があった。燃えるように赫い瞳が物吉貞宗を捉えている。
「俺から目を逸らすな」
 ソハヤノツルキの声が物吉貞宗の鼓膜を力強く震わせた。自分の心臓が跳ねたのは、怯えているのか、彼の言葉に動揺しているのか、それともまた別の理由なのだろうか。
「俺なら解る。そう言ったのは、物吉、お前だな」
 物吉貞宗は頷こうとして、できなかった。その動きに気が付いたわけでもないだろうが、顎を抑えていたソハヤノツルキの指が物吉貞宗の輪郭をなぞる。中指がこめかみに触れたと思えば、そのまま手のひらが物吉貞宗の頬に添えられた。太刀の体温が、強張った物吉貞宗の身体に沁みていく。優しく心地よい温度に、物吉貞宗は微かに唇を噛んだ。
「お前の言う通りだよ。俺なら解る。俺も、運命のために捨てようとしたものがあった」
「──!」
 物吉貞宗は彼の言葉に瞳を震わせた。
「俺もお前も同じだ。どうしたって、天下人の霊剣で在りたい。そうだろ」
 そうだ。物吉貞宗も、そしてソハヤノツルキも、それだけは譲ることができないのだ。名前も。物語も。目の前の刀との縁も。今の物吉貞宗が持つなにもかもを与えてくれた御方との、大事な──なによりも大事な繋がりだから。
「『あの日』から先のお前の運命が幸せだったかどうか。それを決めるのはお前だ」
 言いながら、ソハヤノツルキは手のひらを物吉貞宗の頬から離した。引き留めたくて指先を震わせたところで、今度は肩に彼の手が置かれる。ぴしり、とまたなにかの音がした。
「でも、お前が運命に──『物語』に迷うなら、俺が何度でも肯定してやるよ。物吉貞宗は徳川家康の愛刀だったと。故に尾張徳川の重宝だと。お前がひとりで不安を抱えたときは、俺がいつでもお前の物語を、家康公の歴史を肯定する。だから──」
 それまで強く強く物吉貞宗を見つめていたソハヤノツルキの赫い瞳が、微かに和らぐ。けれど物吉貞宗に触れる手のひらには、より強い熱が籠ったような気がした。
「だからお前は、俺に恋したままでいろ」
 その言葉は日の光よりもまっすぐに、物吉貞宗の胸に差し込んだ。
 ぴしり、と。一際大きく音が響く。
「……どうして、ですか……?」
 やっとの思いで物吉貞宗が紡いだのは、らしくもなく弱弱しい問いかけだった。
「どうして、ソハヤさんは、そんなにボクを想ってくれるんですか……?」
 物吉貞宗が小さく言葉を零す中、ふたりの間に、さきほどまでは時折聞こえていただけの音が断続的に響いている。ぴしり、ぴしり、と。
 なにかの終わりを──あるいは始まりを告げるように。
「さあな。お前のことが、好きだからじゃないのか」
 彼の返答は、まるで再会したときの挨拶と同じくらい軽いものだった。
 呆れてしまうほど普段通りのその声に、物吉貞宗は、もう涙を堪えることなどできなかった。見開いたままの瞳から次々と透明の雫が落ちていく。ソハヤノツルキは肩に置いていた手を震える背中に回し、物吉貞宗を軽く抱き寄せた。その右手に握られている硝子瓶には、いつの間にかいくつものひびが刻まれている。
「──物吉。割るぞ」
 彼に抱き寄せられたまま耳元で囁かれた物吉貞宗は、こくりと首を縦に振る。
 ソハヤノツルキは手のひらから放り投げるように硝子瓶を地面に落とした。
 地面にぶつかり音を立て、硝子瓶が砕け散る。中へと仕舞われていた想いが露わになる。
 桜に色づいた欠片たちは一瞬だけきらきらと宙に舞い──そのまま色を失くして空気の中に溶けていく。
 代わりに、物吉貞宗の胸へと雪崩れ込んでくるのは温かで幸福な想い。
 ああ、と微かに唇を震わせる。ふわふわとしていて、春の陽だまりのように暖かくて、羽毛のように心地よくて、溢れるほどに幸福な想いが物吉貞宗の胸を満たしていく。
「……ボク、も、好きです」
 涙とともに溢れる想いを、物吉貞宗は口に出す。
「好きです。ソハヤさんのことが、好きです」
 一度零れた言葉は止まらなかった。それ以外に伝えるべきことも、言いたいことも思い浮かばない。物吉貞宗はあの日に一度手放したはずの想いを、ただひたすらに繰り返す。
 顔を上げてみれば、細められた赫い瞳にひどい顔をした自分が映っている。けれど物吉貞宗は構わず唇を動かした。
「ボクは、ソハヤさんのことが、好きです」
「知ってるよ」
 ソハヤノツルキはひとつ笑って、物吉貞宗の涙を指先で拭った。その温度にひどく安心して、物吉貞宗は尚更涙を止められなくなってしまう。それでもソハヤノツルキは、その雫が零れ落ちなくなるまで根気強く拭い続けてくれた。



 ソハヤノツルキの腕に抱かれたまま、物吉貞宗はすんと鼻を鳴らした。
「……ちゃんと、主様に謝りに行きましょうね」
「解ってるよ」
 開口一番がそれか、と言いたげな顔をされる。けれども物吉貞宗にとっての一番の懸念はそれだったのだから仕方がない。
 ひとまず了承が得られたことに安堵して、物吉貞宗はひとつ息を吐く。太刀に全身の力を預けながら、物吉貞宗は地面に散らばる硝子の破片を瞳に映した。粉々に、というほどでもないが、最早原形を留めていないその姿に思わず眉を下げてしまう。
「ボク、この瓶が割れちゃったのは悲しいです」
「また買ってやるよ、これくらい」
「今度はちゃんとソハヤさんのお金で買ってくださいね」
「……お前、小言以外に言うことないのか?」
 本気で嫌そうに眉を顰めるソハヤノツルキに、物吉貞宗は思わず笑みを零してしまう。
 考えてみれば、恋心を抱いて彼と話すのは五月のあの日以来である。物吉貞宗は湧き上がる衝動のまま、ソハヤノツルキの背中に腕を回した。想いと力を籠めてぎゅうと強く抱きつくと、応えるように太刀の腕にも力が籠る。
 幸せだなぁ。自然とそんな想いが胸に湧く。物吉貞宗はソハヤノツルキの首元に一度頬をすり寄せてから、瞳を細めて彼を見上げた。するとソハヤノツルキはどこか夢見るような覚束ない手つきで、微笑む物吉貞宗の目元を撫でると──何故か顔を曇らせる。
「……どうかしたんですか?」
「いや……」
 ソハヤノツルキは視線を逸らし、気まずそうに言い淀む。
「聞かせてください」
「聞いたら怒るぜ、お前」
「怒らないかもしれませんよ?」
 言いながら、離れていきそうになったソハヤノツルキの手を捕まえる。じっと見つめ続けると彼は観念したように浅く息をつき、
「……この時間も、いつかは終わるんだよな、と思って」
「いきなり怖気づいちゃうんですかっ!?」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。呆然と目を丸くした先で、ソハヤノツルキはうるせえとぼやいてわずかに顔を赤らめた。物吉貞宗は怒るよりも心の底から驚いてしまう。相も変わらず見た目と口調に反して思慮深すぎる男である。
 けれど、彼が抱くその不安はすべて物吉貞宗への想いの裏返し。そう思うと、愛しさが胸の奥から込み上げる。
 ほんとうに、しょうがないひと。胸中でそう呟きながら、物吉貞宗はソハヤノツルキの手のひらに自らの手のひらを合わせると指を絡ませた。
「ともにゆけぬことを、ひとは別れと呼ぶのでしょう」
 詠うようにそう告げると、ソハヤノツルキの赫い瞳が微かに揺らいだ。それに気が付きつつも、物吉貞宗は綻ぶように微笑んで、
「でも、ボクたちはきっと大丈夫ですよ。今こうして手を繋いでいるんですから」
 五九〇年前のあの日あの時。ソハヤノツルキと物吉貞宗の運命は分かたれた。
 おそらくふた振りの運命が重なることは、もう二度と無いのだろう。
 ──それでもこの手は、この想いは、重なっているから。
 繋ぐ手のひらに力を籠めて、物吉貞宗は満面の笑顔を浮かべた。
「次はきっと、千二百年だって待てます!」
 また訪れるかもしれない、奇跡のような再会を。
 迷いひとつない断言に、ソハヤノツルキが息を呑む音がした。一瞬表情が歪んだかと思うと、ソハヤノツルキは物吉貞宗の額に自らの額を預けた。その姿勢のまま、彼は静かな呟きを漏らす。
「……お前は、これからを作れるんだな」
「なんのお話ですか?」
「お前には勝てないって話だ」
 説明されても訳が解らなかった。胸中で疑問符を浮かべていると、ソハヤノツルキがゆっくりと額を離す。
 真正面から、二対の瞳がぶつかった。至近距離にあるソハヤノツルキの赫い瞳には物吉貞宗だけが映っている。おそらく、自分の薄橙の瞳に映るのは彼の姿だけなのだろう。物吉貞宗は結んでいた手のひらを離すと、今度は両の手でソハヤノツルキの頬を包み込んだ。
「今までも、これからも、ボクを想ってくれますか?」
 問いかけの形を取ってはいるものの、物吉貞宗の瞳には確信の光が宿っている。
 断るわけがないのだ。このひとが。
 案の定、ソハヤノツルキは苦笑にも似た笑みを浮かべて、
「六百年だって、千二百年だって余裕だよ」
 返された答えを聞いて、物吉貞宗は花開くように微笑んだ。
 溢れる喜びが言葉となって唇から紡がれるより先に、自然と身体が動いてしまう。物吉貞宗は足の爪先を伸ばして顔を寄せると、自身の薄い唇を彼のそれに押し当てた。ややあって名残を惜しみながらも離れてみれば、丸くなった赫い瞳と視線が合う。物吉貞宗はそれを目にしてまた微笑んだ。
「ソハヤさんが好きです。何度言葉を重ねても足りないくらい好きです。言葉にしきれないから、皆こうして唇を合わせるんですね」
「……ああ。そうなんだろうな」
 ソハヤノツルキはなにか眩しいものでも見るように、ゆっくりと瞳を細めた。そのなんだか下手くそな笑顔を目にして、物吉貞宗の胸の奥からまた新たな衝動が湧き上がる。
 強くなりたい。物吉貞宗は強く強くそう思った。
 今の主に報いるために。課せられた運命を全うするために。彼の想いに応えるために。
 物吉貞宗は、強くなるのだ。
「──決めました! ソハヤさん、ボク、修行に行きます!」
 明るく宣言をすると、しかしソハヤノツルキは不安げに眉を顰めた。物吉、と労わるような優しい声で名前を呼ばれる。その声に物吉貞宗は大きく頷いた。
「大丈夫です! ソハヤさんのおかげで、行きたいって思えたんです。だから──」
 物吉貞宗は一度言葉を切って、ソハヤノツルキの瞳を真正面から覗き込む。
「ボクが見つけてきたものを、あなたは聞いてくださいますか?」
 問いかけに、ソハヤノツルキは赫い瞳を見開いた。見つめ続ける物吉貞宗の前で、ゆっくりとその目元が綻んでいき、彼はしっかりと首を縦に振る。
「ああ。聞かせてくれ」
 言いながら、ソハヤノツルキの右手が物吉貞宗の頬に添えられた。近づく顔に意図を察して、思わずにこにこと上機嫌な笑みを浮かべると目を閉じろと怒られる。不承不承に瞼を下ろすと、唇に温かな感触が重なった。ふわりふわりと胸に浮かび上がるのは、彼が好きだという想い。

 恋をしている。
 物吉貞宗は、恋をしている。
 この先も、千代と続いていく恋を。










 その日の朝はよく晴れていた。

 いざ行かんとす審神者の部屋は、季節の風を受け取るように、いつもと変わらず開け放たれている。秋には紅葉が舞い降りて、冬には六花が降り積もり、春には桜が散りばめられる縁側に、今は明るい日差しが降り注ぐ。
 物吉貞宗は右手を自身の胸に当て、すうはあと深呼吸を繰り返した。覚悟を決めたといえども、やはり少々緊張してしまう。最後に深く息を吐いた物吉貞宗は、指の先で自らの唇をそっと撫でた。彼の面差しを脳裏に描くと、それだけで背中を押されたような気がした。
 物吉貞宗は審神者の部屋に向かって、しっかりと一歩を踏み出した。
「主様。お話があるんですが」
 背筋を伸ばして主に告げる。今の主は、笑みを浮かべて頷いた。

 時は八月。長雨はとうに過ぎ去って。
 物吉貞宗の運命は。
 かつての縁を重ねた先で、新たなる始まりを刻む。