しんしんと
ソハヤが出てこない審神者視点のソハ物です。物吉は隠す気もないけど語る気もないだろうなあという話。
「どうしたの」
ちらちらと雪が舞い落ちる冬の夜、審神者が縁側に佇む人影に思わずそんな声をかけたのは、とうに丑の刻を過ぎていたからである。
曇天に覆われた夜空には一筋の月光もなく、光源となるのは非常用につけられた行燈のみ。おぼろに揺らめく灯火は、明かりの届かぬ暗闇を却って際立たせているかのようだった。
「主様!」
人影──物吉貞宗は常よりも幾分声量を落として振り返り、丑三つ時には似合わぬ笑顔を浮かべた。
ああ、やはり彼だった。審神者は胸中でほっと安堵する。
物吉貞宗かどうか確信が持てなかったのは、彼の装いが普段と異なっているからである。全身真白い印象の強い物吉貞宗だが、今の彼は肩に深い色のジャージを羽織っている。それはどこかで目にした色のような気もするのだが、夜の色に半ば同化して、はっきりとは捉えられなかった。
水差しを持つ指先をすっかり白くさせながら、物吉貞宗は審神者が歩いて来た方向──すなわち厨へと視線を向ける。
「喉が渇いてしまいまして」
と言いながら、今度は庭へと視線を向けて、
「外を見たら雪が降ってきていたので、つい足を止めちゃいました」
「初雪だからね」
審神者は相槌とともに苦笑する。
庭は夜の色に黒く染まり、人間の目では縁側まで迷い込んできたものしか捉えられないが、刀剣男士──それも夜戦を得意とする脇差の目には闇の中を舞い踊るいくつもの六花が映っていることなのだろう。
「そういうことなら、一緒にどうかな」
審神者は右手に握る鉄瓶を軽く持ち上げた。
注ぎ口から白い湯気を立ちのぼらせる鉄瓶には、厨で沸かしたばかりの湯がたっぷりと入っている。寒さを覚えて目をさまし、茶でも飲んで暖まろうと厨で湯を沸かしてきたのはついさきほどのことだった。
「私もなにか温かいものがほしくなってね。お茶を淹れるから一緒に飲もう」
「あ、いえ、主様のお手をわずらわせるのは」
「いいから、いいから」
戸惑う物吉貞宗に笑みを見せ、審神者は自分の部屋へと歩き始める。
これは以前人から聞いた話だが、海の向こうでは『tea for two』という言葉があるらしい。一杯だけ淹れるよりも二杯分淹れたほうが味がいい、という意味だそうだ。
科学的観点でいえば、湯量が増えた分、急須の中で茶葉が踊りやすくなるなどの理由があるのだろうが、単純に誰かと飲むお茶は美味しいと捉える方がいいだろう。特に、こんな静かな夜は。
「ほうじ茶と玄米茶、どっちがいいかな?」
時刻も時刻である。眠気を阻害しないものを提案した。
「主様が飲みたいものを飲みたいです」
「そう。じゃあほうじ茶にしよう」
物吉貞宗の言葉に甘えて、あっさりと決断する。
明かりが灯ったままの暖かな自室へと戻ってきて初めて、審神者は思っていた以上に廊下が冷えていたことに気が付いた。熱源となっている火鉢の埋め火をかき混ぜると、露わになった炭が空気に触れて赤く光る。審神者は火鉢にかかる五徳の上に鉄瓶を置き、障子の前に佇む物吉貞宗へ当たっていなよと声をかけ、茶の準備にとりかかる。
茶箱の中から手に取ったほうじ茶は適温が90度のものだ。本来であれば湯通しをして急須を温める必要はないのだが、歩いて来た外の寒さが気になって念のため急須を湯通ししておく。ふたり分の茶葉を入れ、五徳の上でふつふつと煮える湯をふたり分注いで待つことしばし。白磁の湯飲みに淡い鼈甲色の液体をゆっくりと注げば部屋いっぱいに焙煎香が広がった。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけて」
「ありがとうございますー」
肩からずり落ちかけたジャージを引き上げて、物吉貞宗はにこにこ笑顔で湯呑みを受け取った。
液面に何度か息を吹きかけてから一口飲んだ脇差は、無垢な微笑みを浮かべた。
「主様の淹れるお茶は美味しいですね」
「茶葉がいいからね」
「茶葉もいい、ですよ」
そう言われて悪い気はしない。審神者も笑みを浮かべた。
「……ところで物吉」
「はい、なんでしょう」
「そのジャージは……ソハヤのものだね?」
室内を照らす行燈の火は、物吉貞宗の肩にかかるジャージが緑色のものだと文字通り明らかにしていた。
一瞬御手杵のものかとも思ったが、それは確かにソハヤノツルキのものだ。
昼間であれば、この肌寒い季節、まあそういうこともあるだろうと思えるが──思えるかな──なにせ今は深夜である。
歯切れの悪い問いかけに物吉貞宗は元気よく頷いて、
「はい! お借りしました!」
そうじゃなかったら追い剥ぎだよ。
喉元まで出かかった言葉を審神者はなんとか飲み下し、
「そっかぁ」
と、呟くにとどめる。
共にある姿をそう目にするわけでもないが、旧知の仲たるソハヤノツルキと物吉貞宗は出陣先や内番でも気の置けない様子だった。加えてこの脇差の性情を鑑みるに、無断で拝借しているとも思えない。おそらくは合意の上なのだろう。
もっとも、ちょっと借りるねと言ってそのまま返ってこない、などということも起こりうるのが世の常なのだが。
あのときのホッチキスどうなったんだろうなあ、などと審神者は幾分ささくれた気持ちでかつての記憶に思いを馳せた。
閑話休題。ともあれ、ソハヤノツルキのものに相違ないらしい。
「……きみたちは」
そこで審神者は言葉を止めた。
正直──どう尋ねるべきなのかよくわからない。そもそも尋ねてもいいものなのか、それすらもよくわからなかった。
夜間にほかの刀と過ごすことを禁じているわけではないし、ましてや服の貸し借りとなれば尚更である。ただひとつ現実として、目の前にソハヤノツルキのジャージを羽織った物吉貞宗がいる──ただそれだけのことだ。
審神者には友情がわからぬ。ホッチキスも返ってこなかったし。
しばし悩んで、審神者は結局なにも聞かないことにした。ひとまず翌朝にふた振りがジャージを取り合っていたら対処しよう、などと投げやりに考えて思考を打ち切ることにする。
「きみたちは──仲がいいね」
誤魔化しを兼ねてそう言えば、物吉貞宗は穏やかに口の端を上げた。
「ふふ」
いやふふじゃなくて。
微笑むばかりで否定も肯定もされなかった審神者は、もうなにも突くまいと心に固く誓いを立てる。
審神者とて彼らのすべてを知るわけではない。流れる日々の中で彼らがおのずと重ねた情もあるのだろう。
それは審神者が咎めることでも、あるいは過剰に喜ぶことでもなく、ごくごく自然な変化に過ぎない。
だからきっと──良いのだろう。
少なくとも、目の前の彼が微笑んでいる限りは。
審神者がそう結論づける間にも物吉貞宗はのんびりとほうじ茶を飲み続けていたが、不意に、彼のおもてが上がった。
瞳と瞳がかち合った瞬間、まるで見透かしたように口元に微笑みを浮かべられ、審神者の胸がどきりと鳴る。
しかし彼が口にしたのは審神者の懊悩とはまったく別のことだった。
「主様。ほうじ茶の二煎目をお部屋でいただいてもいいですか?」
「……二煎目? いいけどほぼ出涸らしだよ」
ほうじ茶でもものによっては煎を重ねられるが、今日のものは違う。
「それでも普段飲んでいるものよりずっと美味しいので」
「まあ、私は構わないよ」
どの道、一煎だけ飲んで寝る心算であった審神者が快諾すると物吉貞宗は顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 二煎目もいただきますし、お片付けはボクがやりますね。主様はどうぞお休みになってください」
言うが早いか、持参した水差し含む茶器類をまとめて盆に乗せるや否や立ち上がる。
「そう? 悪いね」
「いえ、御馳走様でした!」
審神者も一旦腰を上げ、両手をふさいだ物吉貞宗のために部屋の障子を開けてやると冷えた空気が頬に刺さる。
反射的に夜の闇に沈んだ庭を見やってから、審神者は傍らの脇差に視線を向けた。
「それじゃあ、おやすみ。体が冷える前に寝るんだよ」
物吉貞宗は会釈とともに一歩部屋の外へ出て、息を白く凍らせながら就寝の挨拶を口にした。
「おやすみなさい、主様」
笑顔をひとつ残して遠ざかる背中を見つめながら、審神者はふと、もしかしたら片付けを申し出るために二煎目を淹れたいと言い出したのだろうか、と思った。おそらくそれを尋ねても、彼は穏やかに微笑むばかりだろうが。
小さな身体には不釣り合いな緑のジャージを肩にかけ、脇差の姿は夜の闇へと溶けていく。
それを見届けた審神者は視線をそっと庭へと滑らせた。相変わらず人間の目に雪は映らないが、夜が明ける頃には本丸は一面の冬景色となっているのだろう。少しだけその変化を見物していたくもあったが、あまり夜更かしをすると明日の仕事に差し障る。
誰が見守らずとも、雪はおのずと降り積もる。
それが自然というものだ。
「──こともなし、か」
審神者は小さく呟いて、暖かな部屋の中へと踵を返した。